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彼は私の後ろから部屋に入ると、扉をぴしゃりと閉じた。
小さな部屋に二人きり。
しかもほぼほぼ初対面の男子と。
私にとっては前代未聞的な展開に、この後を予測することは困難だったけれど、ただ、今の私にとって決してプラスではなさそうだということだけは直感でわかっていた。
用事があるならとにかく早く終わってほしい。
心の底から願っているのに、天乃 北斗はじいっと私を観察するように見つめてくるばかりで、ちっとも話をはじめようとはしてくれない。
私は大学一とも評判のイケメンを堂々と見つめ返せるほどの度胸も自信もなくて、ふいっと顔を反らして、彼の口が開くのをただただ待った。
そもそも、この天乃従兄弟は本当に血の繋がりがあるのかと不思議なほど正反対の性格で、天乃 流星の方は明るく社交的、誰にでも気兼ねなく話しかけて交友関係も広い、いわゆる軽いタイプだったけれど、今目の前にいる天乃 北斗は、口数も少なく、表情も薄くて、騒いだり進んで友人達の真ん中に立つタイプではなかった。
ただ、完全に寡黙で無表情というわけでもなくて、時おり見せる笑顔に心を鷲掴みにされる女子が数えきれないほどいるらしい。
あくまでも噂だけれど。
だから、百歩譲って天乃 流星の方だったら、その場のノリで、私みたいなひっそり女子に声をかけることはあるかもしれないけど、天乃 北斗の場合はちょっと目的が不明過ぎるのだ。
でも……
ちらりと横目で掠め見たところ、この天乃 北斗という男、確かにとんでもなく美形だなと思った。
そして、やっぱりなんとなく音弥に似ている。
容姿ではなく、醸し出す雰囲気が間近で見るとさらに音弥に重なるのだ。
だからなのか、微量だけど、警戒心が薄まっているようにも思えた。
それに、こうして彼と至近距離で接したのははじめてだったけれど、私は、なぜだか初対面ではないような感覚もしていたのだ。
なんとなくだけど。
もしかしたら、音弥のことを思い出したせいでそう感じたのかもしれない。
例え万が一実際にどこかで遭遇していたのだとしても、私なんかとは住む世界の違う人なんだから、ただ本当に偶然すれ違ったとかその程度のことなのだろう。
彼ほどの美貌なら、無意識のうちに記憶のどこかに刻んでいたとしてもおかしくはないし。
どちらにせよ、話があるなら早くと、若干焦りのような感情も芽生えてきていた。
そしてそんな私の内心を見抜いたかのように、天乃 北斗がとうとう沈黙を解いたのだった。
「西島さん、だったよね。単刀直入に訊くけど、最近、何か変わったことはなかった?」
「え?変……わった、こと、………ですか?」
声が裏返りそうになりながらもどうにか訊き返すと、天乃 北斗はまったく表情を動かさないまま「そう」と頷いた。
「どんな些細なことでもいい。身のまわりで何かいつもと違うと感じたことは?」
「え………いいえ?特には、ありません、けど………」
私は彼の質問の意味するところが掴めず、戸惑いの中小さく首を振った。
「なら、最近変えたことは?例えばバイト先を変えたとか、大学までの通学手段を変えたとか。どんな小さなことでもいいんだけど」
否定した私を深追いするかのように、天乃 北斗の尋問は続いた。
クールな顔つきと声色だけど、なんだか彼からは、どうしても私から ”イエス” を聞き出さなければならない使命感みたいな圧を感じた。
そして私は、通学手段と聞いてハッとしたのだ。
「あ……通学手段なら、今日から変わりました、けど……」
「今日?今朝から?」
「はい。昨日、家を引っ越したので……」
「家って一人暮らし?」
「いいえ、実家、ですけど………あの、これって………」
いくら大学で最も有名で人気者だからといっても、私にとってはほぼほぼ見ず知らずの他人だ。
そんな相手にこれ以上プライベートに関することを答えるのは遠慮したい。
言外にそんな空気をまとわせると、天乃 北斗も察したのだろう、躊躇するように唇をきゅっと結んだ。
ほんの僅かながら、私の目には、彼が狼狽えているかのようにも映った。
それはごく短い間に起こった変化で、瞬きしてるうちに見過ごしてしまいそうなささやかのものだったけれど、確かに目撃した私は、ひょっとしたら彼は噂にあるようなクールタイプではないのかもしれないなと思った。
ただ、感情の振り幅が狭いだけで………
「………悪い。答えたくなかったら、別に答えなくていい」
ほら、また。
今度は申し訳なさそうに目を逸らせて。
でもすぐにきりりと顔つきを整えて、私の前に戻ってくる。
それはまるで、意図的に感情を表に出さないようにしている風にも見えた。
まあ、彼ほど人気者で女子からモテてモテてしょうがない立場となれば、そうやってクールやポーカーフェイスを装っている方が賢い選択なのかもしれないけれど。
「いえ、答えたくないわけではないんですけど、どうして突然そんなことを訊かれるのかが不思議で……」
イケメンさんも大変なんだな……なんて考えながら答えていると、天乃 北斗がパッと後ろを振り返った。
そして見事なまでに素早い仕草で、私の手を両手で握ってきたのだ。
「――――っ?」
何するんですか?!
そう叫びたかったけれど、私が何か言葉を発するよりも早くに、ガラッと扉が勢いよく開かれたのである。
そしてその時にはもう、天乃 北斗の手は私から離れていた。
「お、発見!おい北斗、何してんだよ、こんなとこで。お前が女子をナンパしたって、えらい騒ぎになってるぞ?」
軽やかな大声を響かせたのは、天乃 流星だった。
彼はずいずいと私達のところまで入ってくると、ちらりと私に視線を流した。
評判通りの愛想のよさで、ほぼほぼ初対面の私にもにこやかな笑顔を向けてくれる。
「で、きみが西島 芽衣ちゃん?」
「え……と、はい、そうです、けど……、どうして私の名前……」
「俺が北斗を探してたら、きみの友達が教えてくれたんだよ」
「ああ、そうだったんですか……」
同じ人気者でも、天乃 北斗 とはまったく異なるタイプの天乃 流星 に、私はなんとも形容しがたい落ち着かなさを感じた。
天乃 北斗 との会話に若干慣れてたきたところだったから、余計にそう感じてしまうのだろうか。
「ていうか、俺達同じ一年なのに、どうして敬語?」
「あ………すみません、はじめて話す人には、つい癖で……」
「そっか。でもそっちのが話しやすいなら別にそれでもいいけど?芽衣ちゃんの好きな方でどうぞ」
「めっ……」
”芽衣ちゃん” なんて、大学の男子に言われたことなかった私は、どっと赤面したのがわかった。
けれど天乃 流星 は微塵も私の変化に関心はない様子で、「それよりも」と天乃 北斗 に向き直った。
「お前、約束の時間はとっくに過ぎてんだぞ?早く行かないと、俺までとばっちり食らうじゃないか」
クレームのような内容をぶつけられた 天乃 北斗 は、心当たりがあったようで、「今行く」と端的に答えた。
天乃 北斗 の了承を聞いた 天乃 流星 は機嫌よく私に満面の笑みで手を振ってくる。
「じゃ、芽衣ちゃん、またねー」
またね という別れ文句が果たして正しいのか判断に困る。
彼らと私の世界が交わるなんて、普通ならあり得ないし、あってほしくはないからだ。
こんな目立つ人達と絡んだりしたら、私の親や音弥のことまで知られてしまう。
小説家の父に作曲家の母、弟は将来を有望視されたコンクール常連のピアニストの卵。
才能に富んだ特殊過ぎる家族の話題は、せめて大学内では忘れていたいのに。
私は 天乃 流星 の気軽な挨拶にも躊躇ってしまったけれど、まるで助け舟のように、天乃 北斗 が話しかけてくれたのである。
「西島さん、時間を取らせて悪かったね。おかしな噂が立たないようにしておくから、安心して」
「え?」
「じゃあ、また」
彼はそう告げると、振り向きもせず、天乃 流星 と連れ立って部屋を出ていった。
「お前、ああいう大人しそうな女の子がタイプだったんだな」
「お前には関係ないだろ」
親しげな話し声が遠くに消えていって、私はようやく平常心が戻ってきた。
念のため彼らと時間差で部屋を出た方がいいだろうと、しばらくここで待機することにした。
それにしてもあの二人、噂通り従兄弟なのに全然似てないんだな。
天乃 流星 の方も噂通りのコミュニケーションお化けだったし…………お化け?
一人残った部屋で物思いにふけていると、ふと、思い当たったことがあった。
あの、烏帽子の男だ。
あの男のことは、まさしく ”私の身のまわりで起こったいつもと違うこと” だったのでは―――――?
だったら、もしかして天乃 北斗 は、私にそれを尋ねたかった…………?
…………いやそんなまさか。あの烏帽子男は私が寝ぼけて勘違いしただけだし、それを今日ほぼ初対面の天乃 北斗 が知っているはずはない。そんなの、あり得ない。
でもなんだろう、この、心に靄がかかったような感じは………
思考が整理できず、無意識のうちに髪をかきあげたとき、私はようやくそれに気付いた。
「え………?」
髪をかきあげた手の中に、何かがあったのだ。
「………紙?」
それは、小さく折られた白い紙だった。
もちろん私がはじめから握っていたものではない。
こんな物に見覚えはなかった。
考えられるとしたら………
「あのとき?」
天乃 北斗 が意味不明に私の手を握ってきたときしか思い浮かばなかった。
いったい、これは………
とにかく、これが何なのか確認しないと。
私はドクドクと心臓がうるさくなるのを感じながら、急いでその紙を開いた。
するとそこには、綺麗な手書きの文字で、こう書かれていた。
”もし何かあったら、連絡してほしい”
そしてその下部には、携帯番号と思しき数字の羅列が記されていたのだった。