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まだまだ、私の知らないことがいくつもある。
そう言われているようだった。
でもそれは当たり前の話で、いくら私が記憶を思い出したとしてもそれは私が見聞きしたことでしかないのだ。
私の知らないところでは、私の聞いたこともない出来事が起こっているのだから。
「教えてください。真実を。全部。お願いします」
そう答えると、南先生はまた一歩ピアノ室に入り、
「じゃあ、芽衣ちゃんはここに座って。きみはそのままでもいいよね。お前達は適当にそこら辺にいなさい」
私と音弥に立ち位置を指示したかと思えば、彼らと天乃くんには見向きもせず雑に告げた。
私に対しては優しい心療内科医の南先生、私以外に対しては厳格な祓い屋という態度ではっきり区別しているようだ。
私は言われるままにチェアに腰を下ろし、音弥はその隣に移動する。
こんなときだけど、ピアノの前に座ったのはずいぶん久しぶりで、それだけで私の気持ちが色めき立ってしまうのはしょうがないだろう。
南先生はピアノの高音側の脇に立ち、4人のゴーストと天乃くんは思い思いに私達を囲むように壁沿いに並んだ。
「さて、いいかな。まず、これから話す内容は僕が芽衣ちゃんのカウンセリングを経て知り得た事柄も多い。本来ならそれらは守秘義務で守られるべきところだけど、今回は僕の口から伝えてもいいかい?」
南先生のひと言ひと言に、全員が耳を傾ける。
私だけでなく各々が、自身で把握しきれていない情報があるのだろう。
そしてそれをすべて承知しているのが、南先生ただ一人なのだ。
私は「構いません」と頷いた。
「じゃあスタートは事故の少し前にしようか」
南先生は誰よりも私に聞かせるように、でもしっかりではなくさらりと軽く、私を見ながら話しはじめた。
「昨年の秋の終わり頃、もともと弟さんにコンプレックスを持っていた芽衣ちゃんは、弟さんの海外留学が決まってから少し落ち込み気味だった。でも姉としてそんな素振りは見せられないと、毎日自分の心を奮い立たせて家族のために家のことをこなしていた。そして12月、芽衣ちゃんと弟さんはお父様のお祝いの贈り物を二人で買いに出かけた。二人が選んだのは万年筆だった。ちょうど弟さんも寮から実家に帰省する日で、学校帰りに待ち合わせして、二人ともが気に入るものを見つけられたらしい。お父様の名前も入れてもらうことにして、その作業の間に二人は他の店でも家族へのお土産なんかを買い、最後に万年筆を受け取って、家路についた。そしてその当時住んでいた家の目の前にある横断歩道を渡っていたとき、芽衣ちゃんが荷物を持ち替えようとして誤って万年筆の入った紙袋を落としてしまったんだ。でもそれは決して責められるべきじゃない。大切な弟さんの手に負担はかけられないからと、その日買ったものはすべて芽衣ちゃんが持っていたらしいからね。芽衣ちゃんはコンプレックスを抱えながらも、弟さんのピアニストとしての未来を誰よりも待ち望んでいたんだろうね、きっと」
事実に、南先生の見解が混じる。
それが正解なのか間違いなのか、私自身でもよくわからない。
それでも、南先生にそう言ってもらって、どこかでホッとする私もいた。
私は、音弥の成功をちゃんと望めていたのだと。
ただ羨んで劣等感を積み上げるだけじゃなく、弟の輝かしい未来を祝福できていたのだと、そう認めてもらえたようで。
「そして、事故が起こってしまった。内容は省くとして、結果的に弟さんは死亡、芽衣ちゃんも意識不明の重体で緊急搬送された。その後、芽衣ちゃんは意識が回復したものの入院治療が続き、その間に弟さんの葬儀が執り行われることになった。入院中は芽衣ちゃんを治療に専念させるため、弟さんのことはご家族も病院関係者も皆はぐらかしていたそうだ。退院後、弟さんのことを知らされた芽衣ちゃんは激しく取り乱した。ご両親の言葉を借りるなら、手のつけようがないほどの錯乱状態だったらしい。それでもはじめは、ご両親も時間が経てば落ち着いてくるだろうと思われたそうだ。弟を亡くしたばかりで見送ることもできなかったのだから仕方ないと、当時の担当医からもそう言われて薬も処方されたことから、いくらかは安心なさったようだった。実際、芽衣ちゃんは日に日に落ち着きを取り戻していった。…………かに思えた。でもそれは、芽衣ちゃんが家族に心配かけないために必死に装ってただけだったんだ。このことは、亡くなったあとも芽衣ちゃんが心配でずっとそばで見守っていた弟さんが教えてくれたよ」
私は、今も確かにとなりにいてくれる音弥を見上げた。
目と目が合い、音弥は微笑んだ。
ああ、こんな風に、ずっとそばにいてくれたんだなと、今になって深く実感する。
南先生の言った通り、あの頃の私は、一見では落ち着きを取り戻したかに見えただろう。
でも、違った。
そして、南先生が言った ”家族に心配かけないため” というのも少し違う。
もちろん、その想いがなかったわけじゃない。
でもあのときは、そこまでの心の余裕はなかった。
私はただただ、信じたくない現実を拒否し続けていたのだ。
そんな ”無” の時間が、落ち着きにも見えたのだろう。
だから、その先に私が選んでしまった最悪の道を、誰も想定することができなかった。
ただ一人、音弥を除いては。




