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私はゆっくり音弥から腕を外し、そっと顔を見上げた。


ああ、本当に音弥だ………



「泣かないで、姉さん」


そう言いながら、音弥は指先で私の涙を拭う。


「音弥………」



どこもかしこも、私の記憶の中にある音弥でしかないのに。

抱きしめた体も、触れた指先だって全然冷たくもないし、どこをどう見ても生身の人間にしか思えない。

だけど、私は思い出したから………



「姉さん、記憶が戻ったんだね?」


音弥が、まるで暖かな日向のような穏やかさで訊いてくる。


「………うん」

「どこまで?」

「全部……だと思う」

「本当に?」


確かめるような音弥に、私は自分でも記憶の整理をするため、両目を擦って涙を一休みさせた。

そして、今の私にできる最大限の平静さで、順序立てて記憶を読み上げいく。



「あの日………、音弥と二人でお父さんの万年筆を買いに行って、その帰りに家の前の横断歩道の途中で私が万年筆の入った袋を落としてしまって、それを屈んで拾ってるときに………車が来て、音弥が私を庇うように覆い被さってくれて…………その次の記憶は、病院のベッドの上だった。私も意識がなかったみたいで、事故から何日か過ぎていた。ちゃんとした日数がわからないのは、当時もきちんと把握していたわけじゃないから。だって目が覚めても全身怪我だらけでしばらくは会話ができる状態じゃなかったし、起きてる時間よりも眠ってる時間の方が長かったくらいで…………そのあと、私が音弥のことを教えられたのは、一か月後、退院してからだった」



その頃のことが如実によみがえってきて、当時受けた衝撃が私を再攻撃してくる。


心臓が握り潰される寸前で、なのに感情や思考がリアルに追いつけない、動揺や混乱といった言葉では説明つかないほどのわけのわからない状況だったように思う。

だって音弥の葬儀は既に執り行われていて、私は別れを告げることさえ許されなかったのだから。


信じる信じない、それ以前の問題だった。



だけど時間は残酷で、退院後は、音弥のいない日常が勝手にまわりだしたのだ。



すでに推薦入試で進学先が決まっていた私は、三学期はほとんど自由登校ということもあり、学校側からの配慮で無理して登校せずとも卒業できることになった。

退院後もまだ怪我も完治しておらず、通院を余儀なくされたので、私も両親も学校側の提案を有難く受け入れることにした。

ところが、心身の健康を取り戻すための時間だったにもかかわらず、私は、刻一刻と、音弥の不在を突き付けられていったのだ。



そして深々と訪れた、絶望。



果てのない暗闇の中に埋め込まれたような、

五感を失ったような、

聞こえているのに聞いてない、見えているのに見てない、そんなふうに、生きているのか生きていないのかも自覚ない ”無” の時間が積み重なっていくばかりだった。


眠れない、食べられない、笑えない、話せない………



毎日が、悪夢の連続だった。

どんなに後悔しただろう。

どんなに罵詈と雑言で自分自身を責め立てただろう。




―――――――――私の方が死ねばよかったのに!!




不用意によみがえってくる自分自身の発言が、今もまた容赦なく心を抉っていく。



音弥でなく、私が死んだ方がよかった。


それは紛れもない、私の心からの本音だった。



当時のドロドロした暗闇の泥濘にはまりかけたそのとき、



「―――――姉さん?また(・・)おかしなこと考えてるんじゃないよね?」



黙って私の記憶の整理を聞いていた音弥が、いきなり厳しい声を放った。



「え………?」



また(・・)


私は音弥が断定口調で言ったことに引っ掛かった。

”おかしなことを考えてる” というのは、私が自分の方が死ねばよかったと思うことを指してるのだろう。

私の性格をよく知る音弥なら、私が自責の念に駆られるのは簡単に想像つくはずだから。

でも、”また(・・)” だなんて、まるで、以前も私が同じことを考えていたという証拠でも握っているかのような言い方だ。

ただ、いくら私を熟知してる音弥でも、私の感情を推測しただけではそんな断定する言いまわしにはならないように思えた。


不思議に感じた私は今一度目の前の今のこの状況を思い直してみて、それで、腑に落ちた。




「…………そっか。音弥は、ずっと私のそばにいてくれたんだね」



私を庇って亡くなってしまった音弥は、きっと、ずっと、今みたいにゴーストとなって、私や家族の近くにいたのだろう。

ただ私達にはそれが見えていなかっただけで。



すると音弥は「姉さんが、心配で心配で、たまらなかったんだ」と、苦慮を吐く出すように告げた。



「音弥…………ごめん、………ごめんね」

「さっきから姉さん謝ってばかりだよ」

「ちが……、これは、さっきのとは違って、心配かけたことへの…………」



だって、きっと音弥は、目の前で見ていたのだ。




私が、自分で自分の命を終わらせようとした瞬間を。





音弥が死んだのは自分のせいだ。

才能あって、ピアニストとしての未来を期待されていた音弥を死なせてしまった。

なのに何の才能もない自分がのうのうと生きてるなんて。

自分だけが生きていていいわけない。

自分の方が死ねばよかった。

その方が、きっとみんなのために良かったんだ。


どうして私だけが生き残ったの?

音弥じゃなく、私が死ねばよかったのに!



そう疑いもしなかった私は、ついに最悪の選択をしてしまう。

そして……………




「………そりゃ心配するよ。姉さんはどんどんやつれていくし、あんなことになるし。なのに俺は姉さんのすぐそばにいるにもかかわらず、何もできないんだから」

「じゃあやっぱり…………全部、見てたんだ………」



血の気が引く思いだった。


いったいどんな気持ちで、音弥は私のしでかしたことを見ていたのだろう。

それを止めることもできず、ただ見ることしかできない………そんな辛さを、私は弟であり命の恩人である音弥に与えてしまったのだ。



「………本当に………本当にごめんなさい」



深く深く頭を下げる。

今の音弥にはもう、それしかできないから。



しばらくすると、音弥は私の頭にこつんと、優しい拳を落としたのだった。














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