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普通の扉よりは分厚い扉の向こうにまで、私の声が届くのかはわからない。
簡単に外の音が届くようでは、防音室の役目を果たしていないようにも思う。
けど、音弥には届いているという確信があった。
もし、本当にこの部屋の中にいるのならば。
「音弥。返事をして。そこにいるんでしょ?」
返事のない扉に向かって、もう一度呼びかける。
軍服マントが今さら嘘をつくとも思えないので、少なくとも彼らは音弥がピアノ室に入っていったのを見届けているはずだ。
自分達が壁を通り抜けることができなかった唯一の部屋なのだから、彼らにとっては特別な部屋なわけで、その部屋を間違えたり見誤ることはないだろう。
彼らには不可能だったのにどうして音弥だけが中に入ることができたのか、疑問は増えるばかりだけど、そんなのは後まわしの後まわしでいい。
とにかく今は、ちゃんと音弥の顔を見たかった。
なのに、一向にピアノ室からは返事が聞こえない。
「ねえ音弥?私の声が聞こえてないの?中にいるんでしょ?音弥!」
焦りはじめた私は呼びかけと同時にノックも重ねる。
防音扉は密度もあり、他の部屋の扉への軽いノックとは比べ物にならないほど重たい。
ダンダンダンダンッ
「音弥!ねえ音弥ってば!!返事してよ!!今そこに、ピアノと一緒にいるんでしょ?!」
焦りは次第に恐怖感へと質を変えていく。
音弥がもしかしたらもうここにいないのではないかという恐怖に。
「音弥!!早く鍵開けて!!出て来なさいよ!!音弥!!」
ダンダンダン!!ダンダンダンッ!!
何度も何度も扉を叩いてるのに、まるで手応えがない。
「音弥っ!?ねえ音弥っ!!音弥ってば!!いい加減返事しなさいよ!!」
声を張り上げてもまったく無意味で。
「音弥!!音弥っ!!音弥、音弥、音弥っ!!ねえってば!!」
もうほとんど絶叫のような悲鳴だった。
ダンダンダンダンダンダン!!!
ノックも激しさを募らせる。
背後ではこちらを窺うように、居間から誰かが廊下に出てきてる気配もある。
でも私は一心不乱に扉を叩き続ける。
「音弥ってば!!ねえ音弥!!返事して!!返事してよ…………音弥ぁ……」
いつまでも返事のない音弥に、私はとうとう涙混じりになってしまう。
「音弥開けてよ!ここ開けてよ………音弥ぁ…………」
私はその場に崩れるように座り込み、うんともすんとも言わない扉に額を押し当てた。
「返事してよ音弥………。今の音弥なら、防音扉なんか関係なく私の声が聞こえてるんでしょ…………?」
ぽろぽろと、涙の粒が落ちていく。
泣いてる場合じゃないのに。
けど、記憶を取り戻した今、やっぱり私は冷静なんかじゃいられなかったのだ。
「音弥ぁ………」
あんなに張り上げていた声が、ほとんど涙声となり、頼りなくこぼれていく。
どうして音弥は返事してくれないのだろう。
もしかして私の記憶が戻ったことと関係してるのだろうか。
なら、もう一度記憶を失くせば、また音弥は返事してくれるのだろうか。
”姉さん” と、いつものように呼んでくれるのだろうか。
もう一度記憶を失くしたら…………
そんな不毛な考えを過らせたときだった。
――――――「聞こえてるよ、姉さん」
いつもと変わらない落ち着き払った音弥の声と話し方で、返事が聞こえた。
「音弥っ?よかった、そこにいるのね?!私の声も、ちゃんと聞こえてるのよね?」
パッと扉から額を離し、中に懸命に話しかける。
「うん」
すぐに返ってきた答えに、私は大きく安堵して、次には音弥の顔を見たくて仕方なかった。
「ねえ、だったら、ここ開けて?」
母のデスクの引き出しに鍵がしまってあるのは知っている。
でも、今この場を離れるなんて選択は私の中ではあり得なかった。
「それはできないんだ」
「どうして?!簡単じゃない。ただ鍵を開けるだけでいいんだよ?どうしてできないの?!」
「だめなんだ。姉さん、よく考えて。今の俺には、それはできないことなんだよ」
「あ…………」
淡々と告げる音弥に、私の中ではまた寒気が過っていく。
「でも、姉さんから渡された物だったら触れることができるみたいだから、試しに姉さん、ドアの取っ手を握ってみてくれる?そうしたら、俺も鍵に触れることができるかもしれない」
「あ!ああ……そうだね。うんわかった、やってみる!…………今握ったよ」
私は両手で取っ手をきつく握りしめた。
するとややあってから、カチャッ……と鍵が動く音がしたのだった。
私はすぐに取っ手をまわし、防音扉特有のガチャガチャン、という音を立てて、体ごと扉を押し込んだ。
分厚くて重たい防音扉が、ゆっくりと開いていく。
そして
「音弥っ!!」
扉のすぐ前に立っていた音弥を見つけたとたん、私は全力で抱きしめていた。
「音弥、ごめんね。ごめん………。本当にごめん。ごめんね………」
音弥に触れられる。
それが奇跡なんだと、今の私はもうしっかり認識していた。
「ごめん。本当にごめんなさい…………」
「謝ってばかりだね、姉さん」
頭上から、柔らかい苦笑が降ってくる。
「だって……………だって音弥は、私のせ…」
「言っておくけどあのとき姉さんを助けたのは俺の意志だから。誰が何と言おうと、その選択は正しかった。例え姉さんでもそれを否定するようなこと言うなら、許さないよ」
柔かだった苦笑が、硬い口調に変わる。
でも凛とした声は、私のよく知る音弥のものだった。
生きてるときと1mmも変わりのない、私の大切な大切な弟の声そのものだった。




