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―――――え?あ、やばい、落としちゃった。なんか変な音したけど、大丈夫かな?
ちゃんと包装してくれてたから大丈夫だと思――――――姉さんっ!!
何? ―――――――――っ!!
――――――――――――ドンッッ!!!!
その音が、私の閉じられた記憶の鍵をこじ開けた。
私はピアノの腕は自慢にもならないけど、ピアノのおかげで鍛えられた耳にはちょっと自信があった。
一度聴いた音なら、大抵は聴き分けることができるのだ。
記憶を失くさない限りは。
ただの衝突音なのか、それとも………………
すると、ス――――――ッと、ようやくあの地獄での罰のような耳鳴りが止んだのだった。
頭を抱え込んでいた腕を、静かに下ろす。
開いた視界の中には、部屋の明かりが広がった。
さっきまでと同じ明るさのはずなのに、もう眩しいとは感じなかった。
思いもよらないほど、私は冷静だった。
逆に、私を心配そうに見つめる彼らの顔色は、すこぶる悪い。
まるで私が取り戻した真実の記憶を、もう先行入手しているかのような表情だ。
南先生が私の失った記憶を把握しているだろうとは思っていた。
でも、そうか、彼らも知っていたんだ。
彼らまで知ってるとは驚きだ。
ということはきっと、天乃くんも知っていたのだろう。
だってあの天乃 流星だって、アリーナで最後に私に言ったじゃない。
いや、言ったというよりも、口走ってしまった。
音弥のことを…………
「……………ねえ、さっき、音弥はどこにいるって言ってた?」
私は宛先不明のままに質問する。
すると、いつもあんなにおしゃべりな袴三つ編みと烏帽子男はハッとしたように顔を見合わせ、口を噤んでしまう。
私のすぐそばにいる軍服マントと万葉集女王も互いに目配せをし、不穏な沈黙が漂う。
やがて、ずっと私の背中を擦ってくれていた軍服マントがこくりと頷いた。
『ピアノのあるお部屋よ』
軍服マントの意を決したような答えに、私は唇を噛んだ。
そして言った。
「あの部屋は鍵がかかってるのに、音弥はどうやって入ったの?」
誰もが、一瞬は黙った。
それは、私の取り戻した記憶が正しいのだということを意味していた。
『お嬢ちゃん………』
「芽衣ちゃん、思い出したんだね?」
私は南先生の目を見つめ、しっかり頷いた。
「じゃあなんでそんなに冷静なんだよ?落ち着いていられるんだよ?!」
当事者は私のはずなのに、どうしてだか天乃くんは私以上に取り乱している。
そんな天乃くんにも私は眼差しを向けて告げる。
「冷静……に、見える?」
『お嬢ちゃん………』
「わからない。私、冷静……なのかな」
『お嬢ちゃん!もういいわ!それ以上何も言わなくていいの!』
言いながら、抱きしめんばかりに私に腕をまわしてくる軍服マントに顔だけで振り返る。
そして静かに問う。
「みんな、知ってたんだね………?」
軍服マントは泣きそうに目を細めて、微かに頭を揺らす。
「もう、いいよ。ずっと知らないフリ……してくれてたんだね」
ぽんぽん、と軍服マントの手を叩き、そばにいた、珍しく神妙に顔色を変えている万葉集女王には視線を送る。
すると隣の南先生が「芽衣ちゃん、体調に変化は?」と医師らしく詰問してくる。
「過呼吸になりそうな感じとか、脈が速くなってるとか、息苦しいとか、ないかい?」
私は一呼吸置いてから
「わかりません。体の底の方では、震えてるような感覚はあります。何もないとは思えません。でも、以前みたいに過呼吸とか、実際に体が震えたりはしてません。これが、嵐の前の静けさなのか、あまりの衝撃で感情が処理しきれなくなってるのかはわかりませんけど、少なくとも今は、こうして普通に話せます。だから………だから今普通に話せるうちに、音弥と話してもいいですか?」
素直な心の内を打ち明けた。
南先生は「もちろん」と深く首肯する。
「僕に許可を求める必要はないよ。彼は芽衣ちゃんの大切な弟さんなんだから。好きなだけ、話しておいで」
「でも兄さん!」
天乃くんはなおも私に真実を見せたくないようだ。
でも、そんなことしてくれなくても、もういいのに。
「天乃くん。私、もう思い出したから」
「でも……」
大学での天乃くんはクールで無口で、冷たい印象しかなかった。
でもそれは、舐められないようにあえてそうしていたらしい。
事情を知った今ならわかる。
おそらく、祓い屋として相手から舐められないようにとの意図だったのだろう。
だってわざと厳しい態度でいないと、彼はこんなにも情緒豊かに他人を思いやってしまうのだから。
そんな優しさは、彼みたいな職業では時に足手まといにもなるのだろう。
その点南先生は、優しさの中にも厳しさがある。
だから、今こうして、私の記憶を取り戻させる手段を取った。
「心配してくれてありがとう」
私は天乃くんに伝えてから、ゆっくりと立ち上がる。
『お嬢ちゃん、ホンマに大丈夫なん?』
『アーユーOK?』
「大丈夫じゃないと思う。でも、みんながいてくれるんでしょ?」
『当り前じゃない。アタシたちがいついてるわ』
『其方の思うた通りにしてみよ。我らはそれを支えるのみだ』
「芽衣ちゃん、何かあっても僕がすぐに対処できるから、心配しないで弟さんと向き合っておいで」
「西島さん、無理はしないで」
彼らと彼らの言葉を頼りに、私は「ありがとう。行ってきます」と、ピアノ室を目指す。
誰も後をついてこず、一人で廊下の突き当り、音弥のために防音設備を備えたそこの扉を前にすると、足元から寒気がせり上がってくる。
この鍵のかかった扉の向こうに、音弥がいるのだ。
「――――――音弥。いるんでしょう?」




