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翌朝、いつもより早めに起きてシャワーを浴びた。
それから家族の朝食を作る。
といっても簡単なスープとスクランブルエッグ、野菜をちぎっただけのサラダだけど。
文哉は眠りは深い方だけど、朝が来たらわりと自然と起きてくれるので、わざわざ起こしに行く手間はなかった。
手間がかかるのは親チームの方で………
朝食後、文哉が歯磨きしてる間に私は父と母の仕事部屋をはしごして大声で呼びかけなければならなかった。
「お父さん!聞こえてる?朝ごはん用意してあるからね!」
「お母さんも、聞いて!私と文哉はもう出かけるからね!ちゃんと食べてよね!」
父も母も仕事の途中で寝落ちしていたようで、特に父の眠りは文哉並みに深く、低く呻いたような返事しか聞こえなかった。
母の方はかろうじて意識が浮上したらしく、極細の声で「いってらっしゃい……」と言ったのは聞き取れた。
だけどそのあと母は、仮眠用の大きなクッションから頭を浮かせると私の手首をひしと掴んできたのだ。
「今日………病院…………帰り………ね?」
「え?ああ、うん、そうそう。今日大学終わったらクリニックに寄って帰るから。晩ご飯はちょっと遅くなるよ」
「わか……った、文哉の、がっこ……」
「文哉の転校手続きならもう済んでるから。今日は私が小学校まで送っていって先生にも挨拶しておくね」
「あり……が………」
「わかったわかった。もう寝てていいから。朝ごはんはちゃんと食べてね。じゃあ、いってきます」
屍のような両親の姿は、仕事明けの朝の光景としてすっかり日常になっていたので、私もそこまでてこずるわけではなかったけれど、今日は新しい家で迎えるはじめての朝なので何かとイレギュラーなことは多かった。
文哉は新しい小学校だし、私も大学までの通学が大きく変わる。
帰りには通院してるクリニックに寄ってカウンセリングを受ける予定もあるし、ちょっと忙しない一日になりそうだ。
私は文哉と入れ替わりで洗面所に入ると、まだ完璧には慣れていないメイクに取りかかり、予定の時刻を2分ほど過ぎてから文哉と一緒に家を出た。
「文哉、本当に帰りは誰も迎えに行かなくて大丈夫?家までの帰り道、わかる?」
「うん。引っ越してくる前にお母さんとお父さんといっしょに小学校まで行ったことあるから、大丈夫だよ」
「でも……」
「芽衣ちゃんは心配性だなあ」
「心配性って、そんな言葉よく知ってるね。誰に教えてもらったの?」
「音弥君」
「ああ、音弥なら言いそう……」
私がちょっと世話を焼き過ぎようものなら、クールな表情でよく言われたものだ。
心配性、過保護、お節介………
まるで自分の方が年上だと言わんばかりに私の気遣いを邪険にする弟。
昨夜母も話していたように、何かトラブルやハプニングが発生した際は家族の中で真っ先に駆け付ける行動力もあるし、家族の誰かが困っていたり元気がないときは一番に気付くような機微に聡いタイプだけど、それ以外の平時はいたって冷静で淡白な、クール&ドライな性格、それが音弥だった。
そんな普段の印象が、ピアノの前ではがらりと変わってしまうものだから、中学の頃はそのギャップがたまらないと女子のファンが増えていくばかりだったけど、高校に入ってからも変わらないのかな。
音弥のことを考えながら歩いていると、音弥のピアノの調律を今日の午後頼んでいたことを思い出した。
あとでお母さんに電話しておかなきゃ。
頭のメモに大きく書いたところで、文哉が今日から通う新しい小学校に着いたのだった。
転校初日ということもあって、私は文哉を連れてまずは職員室を尋ねることにした。
登校してきた児童達が文哉を興味津々で見てきて、文哉もにこにこ愛想を振りまいて、今すぐにでもお友達の輪に入っていきたそうだったけれど、まずは先生方へのご挨拶が先だ。
転入については事前に説明が済んでいたので、教諭、職員の方々ともに、とても親切に案内してくださった。
文哉の新しい担任教諭も学校の雰囲気もとても感じがよく、郊外の小学校というよりも、どちらかといえば田舎にあるこじんまりとした小学校、という印象を受けた。
少人数の学級で、アットホームな感じだ。
文哉が前に通っていた小学校はいかにも都会の学校という環境だったので、もしかしたら文哉にとってはカルチャーショックなんじゃないかと不安も過ったものの、今の様子を見たところ、それは杞憂に終わったようだった。
そういえば昨日も文哉は新しい家の庭を興味いっぱいに探索していたようなので、案外自然豊かな新しい生活にも私より順応が早いかもしれない。
私は都会生まれの都会育ちだったので、正直なところ、引っ越し先でうまく馴染めるのか自信はなかった。
だけど父と母がもっと仕事をしやすい住宅環境に移りたいということなので、そこは扶養されている身としては従うしかなかったのだ。
それに、大学近くで一人暮らしという選択もないわけではなかったけれど、現在の家庭事情を鑑みるに、私が不在ではどうにも成り立たないのは明らかで。
私は文哉が家のことをあらかた出来る年齢になるまでは、両親を支えるため、実家暮らしを続けるつもりでいた。
両親の代わりにほぼ家の用事を任されていることは、ちっとも苦痛なんかではなかった。
むしろ才能がない私でも家族のために役立っているのだと自負していたくらいだ。
いや、自負……と胸を張れるほどではなく、それを存在意義として捉えていると言った方が正しいかもしれないけれど。
とにかく、家事は私にとって、非凡な家族と共に暮らすための約束手形のようなものなのだ。
だから全然苦痛ではなかった。
こうして保護者代わりに文哉の学校に足を運ぶことも、担任に挨拶することも。
家族のためにすること全部、それが私の仕事なのだから。
「それでは、よろしくお願いいたします。もし何かあれば、家の方ではなく私の携帯にご連絡いただけますか」
「わかりました。弟さんのことご心配でしょうけど、どうぞお任せください。これから学校なんですよね?気を付けて」
「ありがとうございます」
「芽衣ちゃん、バイバーイ!いってらっしゃい!」
「いってきます」
職員室で元気いっぱいの文哉や教師達に見送られ、私は大学へと気持ちを切り替えたのだった。