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《―――――だったら、万年筆がいいと思う》

「万年筆?でもお父さんはパソコンで仕事してるんだよ?」

《記念になるもの、いつも持ち歩けるもの、長く使えるもの………父さんはそうリクエストしたんだろう?この条件で真っ先に浮かぶのは万年筆しかないと思うけど。姉さんだって考えなかった?》

「それはそうなんだけど………。お父さんならガジェットとかの方がいいのかなとも思って」

《それもいいけど、今回は誕生日だけじゃなくてシリーズ化と発行部数記録更新のお祝いも兼ねてるんだから、そういう事務的なものよりはもっと記念品っぽいものの方がいいと思う》

「確かにそれもそうよね………。じゃあ、万年筆にしようか」

《それなら、前に写譜ペンを買うのに紹介してもらった万年筆専門店を知ってるから、今度俺が帰省したときに一緒に買いに行こう》

しゃふペン(・・・・・)?」

《五線譜に書くためのペンだよ。それ用に作られてるから書きやすいんだ》

「へえ……そんなのがあるんだ」

《普通の鉛筆の方が書きやすいって人も多いけどね。母さんも作曲家なのに写譜ペンは一度も使ったことないって言ってたし》

「へえ……」

《………人それぞれだよ、姉さん》




人それぞれだよ、姉さん―――――――




音弥から電話越しにそう言われたのは、いつだっただろうか?



確かそのあと、音弥が《来月には留学の件で実家に戻るから、その途中で待ち合わせしようか?》と言ってきて、私は「留学……?」と訊き返して………



それが、音弥の留学をはじめて知った瞬間だった。



しかも音弥の留学は、ただの留学ではなかった。

将来を確約されたような好条件に次ぐ好条件で、音楽に詳しくない人が聞いてもそれがどんなにすごいことか分るような内容だったのだ。


まずは両親、特に母がありありと浮かれた。

弟の文哉は完全には理解できてなかったようだけど、とにかく喜んで喜んで、「音弥くん、おめでとう!」と何度も何度も拍手して祝った。

もちろん、私もすぐに「おめでとう」と言った。


………そのときの笑顔に、嘘はないはずだった。


だから、笑顔を作る頬のあたりに些細な違和感があったとしても、それは気のせいだと思い込むことにしたのだ。



でもその違和感は私の本意に逆らって、どんどん、どんどん存在感を増していった。



自分と音弥を比べるなんておこがましい、レベルが違い過ぎるんだから、音弥は天才、私とは住む世界が違う、だから劣等感を持つこと自体がおかしいのだと、毎日のように自分に言い聞かせていたけれど、私の心はその説得を素直に受け入れてはくれなかった。


日に日に、おかしくなっていった。


食欲が落ちていき、夜はなかなか寝付けず、やっと眠れたと思ったらすぐに飛び起きて、全身汗ぐっしょりになりながらも、しばらくしたら今度はものすごい寒気に襲われたり………


そして身体的な異変にとどまらず、何をしていても気分が乗らなかったり、テレビで暗いニュースが流れるたびに自分のことのように落ち込んだりした。


特にピアノの音には敏感に反応した。

もちろん、ネガティブな意味でだ。

外出先でピアノを聞いたりしたら、まるで足先から血をしぼり出したかのようにつま先が痺れ、順に全身に広がっていって、やがて呼吸にまで影響を及ぼしてしまう。


今はこれが過呼吸だと把握できているから、さほど慌ても焦りもしないけれど、発症当時は毎回もうこのまま死ぬんじゃないかと恐怖を覚えていた。

でも私は全部を自分自身で解決するつもりで、これらの症状は誰にも打ち明けることはしなかった。

今はネットでいくらでも調べられるし、何より、今私の身に起こってる様々な異変の原因が音弥の留学だなんて、誰にも知られたくなかったから。


家族なのに。

音弥は私の弟なのに。

私は、お姉ちゃんなのに………


ちゃんと祝ってあげなくちゃ、心からおめでとうって言ってあげなくちゃ、だって私は音弥のお姉ちゃんなんだから。


そうやって自分を励まして(たしな)めることで、またさらに自分を追い詰めていったのかもしれない。



そうして、心と体の不安定を誰にも言わず抱えたまま、音弥と約束していた日を迎えたのだ。

父の万年筆を一緒に買いに行く約束の日を。




「いいなあ、芽衣ちゃん。音弥くんとお買い物」

「文哉は学校があるでしょう?芽衣と音弥の二人に任せておけば大丈夫よ」

「はぁい。芽衣ちゃん、ぼくのお小遣いもちゃんと使ってね」

「もちろんだよ」

「帰りに音弥と待ち合わせてるんでしょ?」

「うん。あ、お父さんには内緒にしててね」

「了解」

「それじゃ行ってきます」

「芽衣ちゃん、行ってらっしゃい」

「気をつけてね。行ってらっしゃい」




行ってらっしゃい―――――――




あの日、玄関先で文哉と母に揃ってそう言われた記憶がよみがえってきたあと、スゥ――――ッと、インクが紙に染み渡っていくように音もなく、私の意識が覚醒されたのだった。



















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