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『オーマイガ―――ッシュ!!見える!見えてる!これはハリーアップ!皆に知らせねば!!』
平安貴族はそう喚いたかと思うと、くるりと私に背を向けた。
そしてそして、あろうことか、音弥のベッドがぴったりとくっついているはずの壁目がけて突進していったのだ。
ぶつかる!
咄嗟にそう思った。
不審者に対して心配なんてしてる場合じゃないのに、”危ない!” とさえ口走りそうになった私だったけれど、それを嘲笑うかのようにその男は、壁に入っていってしまったのである。
「――――っっ?!?!?!?!?」
あまりの展開に、呼吸が止まる。
だが、男が壁の中に完全に吸い込まれる瞬間、ぽとん、と頭に被っていたものが音弥のベッドの上に落ちたのだ。
「………え、烏帽子?」
いや、それがキャップ帽であろうとハンチングだろうと、何なら紅白帽やヘルメットだったとしても、そんな物どうだっていいのに、動揺が頂点に達すると妙に冷静なことを呟いたりするものなのだと、たった今学習した。
けれど、壁の中に消えていった怪しい男と、実際にベッドの上に置き去りにされている烏帽子、どちらもが現存する正真正銘のリアルだというのが信じられなくて、私はとりあえずそおっと、真っ黒なそれに手を伸ばしてみた。
恐る恐る、じわじわと。
そしてあと数センチで指先が辿り着く、その絶妙のタイミングで、ベッド脇の壁からひょこっと、また平安貴族男が顔を覗かせたのだ。
「っ!!」
私はガバッと手を引き、勢いそのまま両手で口を覆うと、悲鳴を飲み込んでしまった。
すると男はさっきとは打って変わって取り乱すこともなく、まっすぐに烏帽子を拾い上げ、ちらりとこちらに視線を寄越した。
そして目が合った私に対し、『Oh,ソーリー』と照れたようなはにかみで告げ、再び壁の中に消えていったのだ。
いや、確かにあの時代の男の人って、烏帽子とか冠とかを身に着けていないのはとんでもなく恥ずかしいことらしいけれども。
そこは今気にしなくても………
私は、しばらくの間、烏帽子男が溶けるように浸み込んでいった壁をじっと見つめていたけれど、やがて動揺や困惑に感情が追い付いてくると―――――
「――――き、きゃあああああああああああっっっ!!!!!!!」
全身全霊の、体の底の底からの大絶叫を放ったのだった。
間もなくして、バタバタバタバタッと階段を駆け上がってくる音が聞こえてくる。
「芽衣?芽衣どこ?どうしたの?!」
母が私の部屋の扉を開いたあと、この部屋の扉がけたたましく開かれた。
「ああ、芽衣!どうしたの?何があったの?」
「お母さん!今、今………」
大股で入ってきた母は膝をつくや否や私を両腕で抱きしめた。
母の体温に包まれ、ひとまずの安堵を感じられた。
「今、知らない、男の人が………」
「知らない男の人?!」
母も血相を変える。
”男の人” とは言ったものの、あんなのどう見ても普通の人間には思えない。
壁の中に消えるなんて!
でもこんな体験勿論はじめてで、じゃああれが何だったのかわかるはずもなくて。
幽霊?お化け?でもそんなこと言って、お母さんに変に思われない?
そんな得体の知れないものに遭遇したなんて、引っ越し早々、縁起でもない。
私はじわりと気味悪さが侵食してきて、状況説明すらまごついてしまった。
すると母は私を宥めるように背中を大きく撫でてくれて、「大丈夫、ゆっくりでいいからね」と何度も繰り返した。
母のそんな何気ない一言のおかげで、私を支配しようとした気味悪さは後退を見せ、徐々に落ち着きを取り戻せていった。
「……それで、話せるようになってからでいいけど、男の人が、どうしたの?」
ややあって、母が私を離しながら訊いてきた。
”私はここにいるからね” とでもいうように、じっくりと私の目を見つめながら。
「それが、自分でも何が起こったのかわからないんだけど……」
「芽衣、ゆっくりよ、ゆっくりでいいからね。わからなければわからないままでいいから、教えて?」
「うん……」
私の手を握って待ってくれている母に、私は数回深呼吸してから答えた。
「今ね、この部屋で音弥の荷物を出してたら、いきなり男の人の声が聞こえて、誰もいないはずなのにってびっくりしたら、知らない………」
「知らない男の人がいたの?」
「うん……。でも、その人の格好が、普通じゃなくて………」
「どんな風に普通じゃなかったの?」
「えっと……、ほら、よく時代劇とかでよく見る………」
「着物?」
「着物は着物なんだけど、平安時代の、貴族の人が着てるような………あ、そう、烏帽子!」
「烏帽子?」
「そう、烏帽子。烏帽子を落としていったの、その人」
あの男を説明するのに、烏帽子は必須だろうと持ち出したのだけど、母はきょとんと目を瞬かせていた。
「烏帽子って、あの烏帽子?」
「そう、平安時代の男の人とかが頭に被ってる黒いの」
「その烏帽子を、落としていったの?知らない男の人が?」
「そうなの。でね、その人、一度は壁の中に消えていったんだけど、烏帽子を取りに戻って来て、」
「ちょっと待って、壁?」
母は意味不明とばかりに口をぽかんと開いた。
それはそうだろう。
実際に目撃した私だって信じ切れないし、こんな話聞かせて母を心配させないかと不安にもなっているのだから。
だけど、事実なんだから。
事実…………だよね?
私は今さらながらに、あの平安貴族男も烏帽子も果たして現実のものだったのだろうかと、疑う気持ちが芽生えていた。
「壁の中に、その烏帽子の男の人が消えていったの?」
確認するように念押しされ、私は一気に自信がなくなってしまった。
だってよくよく考えたら、烏帽子被った平安貴族が、”ソーリー” なんて言う?
確か、”オーマイガッシュ” とかも言ってたし。
なんか、そんなのまるで、コントみたいじゃない。
向こうだって、私と同じくらい驚いてたみたいだけど、もし本物の幽霊とかだったら、そんな風に驚くわけないだろうし………
私は、頭が冷めていくとでもいうのだろうか、妙に視界がクリアになったような感覚がして、その直後、”あの烏帽子は私の勘違いだった” という結論を引きずり出したのだった。
「あ………でも、もしかしたら私が寝ぼけてただけかも。ほら、今日は朝からずっとバタバタしてたし、いつの間にか寝落ちてたのかもしれない」
夢でも見てたのかな、そう言って苦笑いを見せれば、母はどうしてだか尚も心配そうに眉を曲げた。
「本当にそう思うの?寝ぼけたくらいで、芽衣があんな大声をあげるとは思えないんだけど……」
「ほ、本当よ?でも大声といえば、あんな大騒ぎしたのに、文哉もお父さんも全然気付かないんだね」
母の手を解きながら返事する。
白々しいほどのあからさまな話題転換だったけど、母は素直に乗ってくれた。
「文哉は一度寝ついたら朝まで起きないし、お父さんはいつも通り耳栓装着して仕事中だもの、仕方ないわよ。でもきっと起きてたら、二人とも芽衣の元に飛んできてたはずよ」
「そうかなあ……」
「ま、どちらにせよ、芽衣の悲鳴を聞いて一番に駆け付けるのは、間違いなく音弥だと思うけどね」
「え?音弥?………まあ、わからないでもないか」
年下のくせして、私よりもしっかりしていたのは否定しない。
「でしょう?あの子、クールな振りしてるけど何気に家族で一番熱い子だから」
「熱い……というか、感受性は強いわよね、確かに」
でもそれくらいでないと、情感たっぷりにピアノを奏でたりはできないのだろう。
私みたいな凡人には備わっていない才能だ。
かすかに納得していると、母がフゥ……と息をこぼした。
「もう、大丈夫みたいね」
ぽんぽんと上腕を優しく叩かれて、母もそっと笑顔になった。
だけど。
「ところで今日のお薬はもう飲んだの?」
「あ…ううん、まだ。いつも寝る前に飲んでるから…」
「そう。なら、もう今日はお薬飲んで寝ちゃいなさい。片付けは急がなくてもいいから。明日も学校でしょう?」
「そうだけど……」
「芽衣」
返事を燻らせる私に、母はきりりと告げる。
「芽衣が寝ぼけたんだと思うならそれでいいけど、もし本当に何かを見たんだとしても、私は信じるわよ?」
「え……?」
私は短い逡巡を挟んでから、思い切って尋ねてみた。
「………幽霊とか、お化け、でも?」
「もちろん。だってこの家、どれだけ古いと思ってるの?」
「でもさすがに平安時代には建ってないでしょ」
「それはそうだけど、この家だってなかなかの古さじゃない?これだけ古いなら何かが棲みついたり宿ったりしてても不思議じゃないと思うもの。芽衣の気が変になったわけじゃないわよ。だから、もし話したくなったら、いつでも聞かせてね。さ、とりあえず今夜は、お薬飲んで、寝ちゃいなさい」
例え何かおかしなものを見たとしても、私が変になったわけじゃない……
その言葉が、す――っと私の気持ちを軽くしてくれた。
「そうだね、そうする」
「うん、そうしなさい」
母に腕を引き上げられ、私はまっすぐに立ち上がれた。
それから私が自分の部屋に戻るのを見届けて、母は階段を下りていった。
部屋に入った私は、ほぼ一直線にベッドに倒れ込んだ。
シャワーを浴びるつもりだったけど、もう今日は眠ってしまいたかった。
明日の朝大学に行く前に入ればいい。
この部屋で眠るのははじめてで、いろいろセットしたりやってみたかったこともあったけれど、なんだか気持ちが軽くなった分、疲労感みたいなものが増えた気がして。
………だめだ、お薬飲まなきゃ。
あと数秒で完全に眠りに落ちる寸前、私はムクリと体を起こした。
枕元に置いてあったポーチを手探りだけで開き、一錠ずつパッケージごとカットしてある薬を取り出した。
そして、引っ越し作業中持ち歩いていたペットボトルの水をひと口含み、薬を流し入れた。
これで、朝まで眠れる………
全身から力が抜けたように、私は着替えもせずベッドに舞い戻った。
私が口にしたのは、ごくごく軽い、睡眠導入剤だ。
数か月前、通っているクリニックの医師に処方されて以来、毎晩眠る前に服用している。
ごくごく軽いものらしいけど、これを飲むと朝までよく眠れるのだ。
この薬を処方される以前の私は…………ああ、どうしようもなく眠くなってきた。
とろけるような眠気の中で、私は、夢とも現とも判別できない曖昧な話し声を聞いていた…………気がする――――――
『ほな、うちらのこと見えてるかもしれへんの?』
『メイビー。おそらくリスニングもできてるはずです』
『まあまあまあ!じゃあこれから毎日退屈しなくてすむじゃない!良かったわねえ、坊や』
『坊やって言うな!だいたいお前らはこいつと一緒に暮らすつもりなのかよ』
『あら、いけない?だってこのお家はこの子のご両親のものになったのでしょう?』
『そうそう。どっちかって言うとうちらが居候させてもろてるんやで?』
『はあっ?!どう見てもこっちが先客だろうがよ!』
『あちらから見ればアタシ達の方が ”招かれざる先客” になるんじゃないかしら?』
『お、うまいこと言うなあ』
『うふ。褒められちゃったわ』
『おいお前、ぼーっと突っ立ってねえで何か言えよ』
『ホワイ………なぜ、急にこちらが見えるようになったのでしょう?』
『そんなの知るかよ』
『でもそうねえ……どうしてかしら?』
『さあ?でも、わからんかったらあの人に訊いてみたらええんちゃう?』
『そうね、そうしましょう』
『OK。アグリーです』
『仕方ねえな、付き合ってやるよ』
『楽しくなってきたわねえ』
『ほんまや。生きててよかった――って感じやわ』
『『『……………』』』
招かれざる先客……………
夢の中のおしゃべりは、なんだかとても盛り上がっているように聞こえた。