10
「え………?原屋敷、さん………?」
小声で呼びかけるも、誰もいないものは誰もいないのだ。
「なんで?え、さっき確かに音弥と一緒にこの部屋に入っていったわよね?」
「あの人なら、帰ったよ。勝手口から」
突如、背後から声が覆い被さってくる。
「―――っ?!」
ギクリと震えて振り返ると、音弥が後ろ手でダイニングの扉を閉めるところだった。
「………帰った?こんな大雨の中、傘も持たずに?」
「そうじゃない?」
冷静に答える音弥。
「そんな、急にどうして?」
「さあ?」
「帰る前に何か言ってなかった?」
「特には…」
「じゃあ、何て言って帰ったの?」
「ただ、急用を思い出したから今日は帰るって……」
「急用って、私に用があってここに来たんじゃないの?」
「そんなの俺に言われてもわからないよ」
「そうだけど、でも、さっきみんなも言ってたじゃない。川が溢れて、他の道も通行止めになってるだろうから、ここは陸の孤島になったんだって。音弥だって言ってたでしょ?そんな中帰っていったっていうの?」
「それを言うなら、陸の孤島に近いこの家に、いったいあの人はどうやってやって来たっていうの?」
「それは……」
確かにその通りだ。
でも……
「ぎりぎり川が溢れたり通行止めになる直前にここに着いたのかもしれないじゃない」
そう思うことで、私は余計な疑念を回避したかった。
だって、原屋敷さん達を疑いはじめたら、際限がなさそうだから。
彼女だけじゃない、天乃くんも、天乃 流星も、そして南先生も。
だから疑いを深めるような引っ掛かりは気付かない方が、私の心情的にはよかったのだ。
なのに音弥は訝しむことをむき出しにして隠さなかった。
原屋敷さんに対しても、天乃くんに対しても。
そしてその態度は私にも降り注がれる。
「姉さん、本気でそんなこと思ってるわけじゃないよね?そんな都合のいい話、あり得ると思う?」
厳しく問われてしまう。
音弥が私のことを心配して原屋敷さんと天乃くんを警戒してるのはわかってる。
たぶん、音弥が正解なのだろうということも。
私だって、原屋敷さんを家にあげるのに躊躇いがあったし、わざと冷たい物言いをしたりもした。
でも根っこのところで、原屋敷さんや天乃くんが悪い人だとは思いきれなくて。
そんな柔い気持ちが、音弥には頼りなく見えてしまうのだろう。
私は姉なのに。私の方が年上なのに。
「………でも、可能性がまったくないなわけではないでしょ?」
言い逃れにもならないような返答をすると、音弥はハァ……と頭を振った。
信じられないという仕草なのか、諦めのため息なのか………
「音弥、ごめ…」
ごめんねと言いかけたところで、コンコンコン、とダイニングの扉が三回ノックされた。
私と音弥が一緒にいるのだから、ノックの主は天乃くん以外にいないはずだ。
彼らなら壁抜けという常套手段を使うはずだから。
私は音弥の脇をくぐり、「はい?」と扉を開いた。
やはり、天乃くんだった。
「あ……勝手に部屋を移動したりしてごめん」
天乃くんが申し訳なさそうに手を首の後ろに当てながら言った。
「それは構わないけど……もう少し、居間で待っててもらえる?まだお茶の用意できてなくて」
「いや、それはいいんだけど………きみたち姉弟が何か揉めてるみたいだって聞いたから………大丈夫?」
私達を気遣う風な言い方だったけれど、私も音弥も、はたと目線を天乃くんに集中させる。
「………聞こえたから、じゃなくて、聞いたから?」
「そうだよ」
私の確認に、天乃くんはいたって平温で答えた。
「…………いったい、誰…」
「誰から聞いたんですか?」
私に任せられないとばかりに、音弥が質問役を奪い取った。
すると天乃くんは自分の背後を親指で指し示し、何てことなさそうに知らせてきたのだ。
「そこにいる袴を着た女の人と平安貴族の衣装を着た男の人が、まあまあ大きな声で騒いでたんだよ」
「―――っ?!」
「―――っ!」
私達姉弟が驚きのあまり互いの顔を見合わせたのは、言うまでもなかった。
「な…………にを、言ってる…の?」
誤魔化すべきか否か、迷いさえ見せたくはないのに、私はぎくしゃくと、カタコトになってしまった。
「きみたちにも見えてるんだろう?あの三人が」
天乃くんは何故隠すんだと言わんばかりに首を傾げた。
あの三人とは、絶対に烏帽子男、袴三つ編み、軍服マントのことだ。
まさか天乃くんにも見えるわけ?
文哉、音弥ときて天乃くんまでなんて、そんなことあり得るの?
それこそ、原屋敷さんの件じゃないけど、そんな偶然って起こり得るの?
私が返事に惑っている間に、音弥がスッと私と天乃くんの間に割って入った。
「三人?あなたには僕と姉以外にも誰かが見えているんですか?だとしたら、どうして僕と姉もあなたと同じように見えていると思われたんですか?」
至って冷静に、肯定も否定もせず天乃くんを追及する音弥。
けれどその頼もしさの中には、一縷の攻撃性が見え隠れしていた。
「それはだって、その三人が、きみたち姉弟のことを話していたから。”お嬢ちゃん” とか ”弟さん” って、きみたちのことだろう?それ以外にも三人が話してる内容を聞いたら、きみたち姉弟と親しいんだろうなってことはわかるよ」
ああ……
私は胸の内で盛大にため息を吐いていた。
彼らがいったい何を話していたのかわからないけど、天乃くんがこうまで言うなら、ほぼ確定的な会話をしていたのだろう。
すると、いよいよ観念した三人が、廊下から姿を現したのだ。
『ごめんなさい、お嬢ちゃん。アタシたち、ちょっと油断しちゃってたわ』
『でもこの男の子、めっちゃズルいねん!自分の気配完全に消しとってんから!』
『イグザクトリーです!ヒーイズ、ベリーベリーベリー……ズルいです!』
そこはUnfairでいいんじゃないかと思いつつ、いや今は烏帽子男の英語なんかどうでもいいと自分を窘める。
問題は、天乃くんだ。
するとまたもや音弥が厳しい口調で天乃くんに言い放った。
「………ズルいと、彼らがあなたを非難していますが?」
「ああやっぱり、見えてるんだね。俺の勘違いかと不安になりかけたよ」
「そんなことより、ズルいって、どういう意味?」
今度は私が音弥越しに天乃くんに問いかけた。
『そうやそうや、お嬢ちゃん、もっと言ったって!』
『アイアグリーです!ヒーイズ、ソー……ズルいです!』
廊下で囃し立てるように騒ぐ袴三つ編みと烏帽子男だったけど、天乃くんがくるりと振り返ると、とたんに口を噤んでしまう。
「………お前達、黙ってろ」
天乃くんは低く低く、まるで上の者が下の者に下す命令のような、威圧的な言葉を発した。
それは、大学で見かける天乃くんの態度そのものの冷たさだった。
あまりに冷淡で情のない命令に、袴三つ編みと烏帽子男はビクッッと全身を震わせた。
けれど、軍服マントだけは違ったようだ。
『あら、アタシたちはアナタの命令に従わなければならない義務はないのだけど?』
負けじと涼しい顔で反論したのである。
何を考えているのか読めない不気味さで、けれど舞台役者ならではの相手を魅了するような妖艶さで。
『せやせや!うちらが言うこと聞かなあかんのは、アンタちゃうねんからな!』
『ザッツライトです!ユーアー……ズルいです!』
「おい、さっきから何がそんなにズルいんだ?」
とたんに反抗的態度に変わった袴三つ編みと烏帽子男に、音弥が訊く。
『だってこの人、自分の気配消して普通の人のフリしとってんもん!』
『イグザクトリーです!ヒーイズ……一般ピープルではありません!』
「普通の人じゃない……?」
天乃くんが?
そりゃ確かに、三人が見えるだけでも普通の人ではないのだろうけど、それを言うなら私や音弥だって同じだ。
でも彼らの言い分は、それで終わらなかった。
『それだけじゃなくって、この坊やからは、ハラさんの気配がするのよ、お嬢ちゃん。しかもそれをこの家に来たときは隠していたの。そんな器用なことができるくらいなのだから、おそらくこの坊やも……祓い屋だと思うわ』
「―――えっ?祓い屋?」
驚愕する私とは対照的に、音弥は「なるほどね」と腑に落ちた様子だった。
「そうなの?天乃くん、祓い屋なの?」
「………それに関してもちゃんと説明するから、ともかく、落ち着いて話せないかな?」
「姉さん、お茶はもういいから居間に行こう。この人の気が変わらないうちに」
天乃くんと音弥はなんだか物分かりよさげに事を進めようとしてくるけれど、私は今もなお驚きを解くことはできなくて。
「ちょっと待ってよ」
さっさと居間に移動する二人を追いかける。
その私の後からは、彼らがついて来た。
『ごめんなあ、お嬢ちゃん』
『Oh、アイムソーリーです』
「それはもういいけど……」
『とにかく気をつけてね、お嬢ちゃん。あの子はタダモノじゃないわ』
「………わかった」
深く頷いた私は、音弥と天乃くんに続いて居間に入った。
するとちょうど扉の足元に、きらりと光るものを目で拾ったのだ。
……なんだろう?
特に深く考えずさっと摘み上げると、それはヘアピンだった。
「原屋敷さんの落とし物かな……?」
思わずそう呟いていた。
すると天乃くんがソファに座りながら「ああやっぱり百々子が来てたんだ?」平然と言ってくる。
しまった………原屋敷さんはそのことを隠したがってたのに。
だけど天乃くんはもとよりそのことを勘付いていたようだから、さほど問題もなさそうだ。
けれど。
私が手にしたヘアピンを見るや否や、天乃くんがガバッと立ち上がる。
天乃くんだけじゃない、音弥もだ。
「しまった!姉さんそれ離して!早く!!」
叫びながら私に手を伸ばしてくる。
「え?何?」
びっくりし過ぎて、反射的にヘアピンをぎゅっと握ってしまった。
するとその手の中でヘアピンがピカッと光ったのだ。
「―――えっ?!」
『お嬢ちゃん!手を開くのよ!』
『ハリーアップ!』
『早うして!』
みんなに急かされて、よけいに焦ってしまう。
離さなきゃと思えば思うほど、まるで磁石でもくっついてるかのように指先が動かなくて。
「あいつはこのために来たのか!西島さん、それ投げて!」
「姉さん!!早く!!姉さんっ!!」
「ちょっと待っ―――――
ちょっと待ってよ、という言葉は、最後までは届かなかった。
その前に、私の目の前が真っ暗闇に変わってしまったから。
黒よりも暗くて、とても冷たい、心臓まで凍らせるような低い低い空気が、私を取り囲んでいた。
………いや、閉じ込めていたと言った方が感覚的には正しいだろう。
私は一瞬、これはまた私の忘れている記憶を思い出す夢の一部なのかと思った。
でも違う。
だって私の夢の中では、私は話せなかったけれど身動きはできたから。
なのに今は、見えない何かで縛られているかのように、身動きができなかったのだ。
手も足も自由が利かないまま、床に横たわっている状態だ。
けれど間もなく、私はこの状況を把握したのである。
彼の、一言によって。
「手荒な真似をしてごめんね、芽衣ちゃん。でもおとなしくしてくれてたら、決して芽衣ちゃんに危害を加えたりしない。傷付けないと約束するから」
その瞬間、私は悟ったのだ。
私は、攫われたのだと。
天乃 流星によって。




