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洗濯を終えた私が予定通り家を出ようとしたとき、天気はすっかり変わっていた。
梅雨らしい、しっかりした雨足だ。
文哉は置き傘をしていると言っていたので大丈夫だろうけど、私は折り畳み傘をバッグから取り出し、しっかりした大き目の傘に持ち替えて大学に向かった。
重く暗い空模様とは正反対で、私の心は見晴らしがよかった。
もし天乃くん達と顔を合わせても、昨日彼らがクリニックで密談していたことについて追及してやろう、そんな風に思えるようにまで、気持ちは浮上していたのだ。
南先生が私を騙しているというのなら、その詳細を明らかにしてもらおう。
事情を聞いて、向き合って、それが目を背けたいような事実だったとしたら、そのときは思いきり逃げたらいい。
大学は広いし、クリニックだってひとつだけじゃない。
その気になれば天乃くんや南先生を避けることは不可能じゃないはずだから。
だからとりあえず今は、逃げない。
胸の内が澄んでいるからか、今朝は流れる車窓もいつもより鮮やかに見えた。
大学最寄り駅に着くと友人の一人と遭遇し、なんとなく一緒に向かうことになる。
彼女は友人グループの中でも比較的親しい関係だった。
4月に出会って以来、友人内でも私の家族や天乃くん達とのことを話題に出したがる人もいたけど、彼女は必要以上に訊いたりはせず、何も言わずとも相手のことを思いやれる人だった。
でもそんな彼女も、さすがに昨日の私の早退劇は気にしてくれていたようで、「おはよう」のすぐあとには「昨日は大丈夫だったの?」と心配げに顔を覗き込まれてしまった。
「ごめんね、心配かけて。もう大丈夫」
「本当?芽衣は優しいから、自分がしんどくても周りに気を遣ってしんどいって言えないんじゃない?」
「そんなことはないと思うけど……」
「そんなことあるある。でも今度しんどくなったら、絶対にすぐ言ってね?昨日みたいに一人でしんどくなって早退するなんて、やっぱり心配になるから。迷惑かけちゃうなとか、悪いなとか思う必要ないからね。じゃないと、いつか私達がしんどくなっても芽衣には頼れなくなっちゃうでしょ?」
思いやりあると同時にしっかり者でもある友人からのささやかなお説教は、私の芯をじんわり温めてくれる。
今日は危うくサボるところだったけれど、思いとどまって正解だった。
家族のことで友達付き合いも苦手になりつつあった私を、彼女はそっと手招きして別の道を一緒に歩こうとしてくれるのだから。
「……ありがとう。千春」
心からの感謝を込めて伝える。
「わかってくれたらいいのよ」
軽く軽く、私が気にし過ぎないように冗談めかして返してくれた友人と、ひとしきり笑い合う。
雨景色がよりいっそう明るくなったときだった。
大学の正門が見えてきて、その向こう、学生達の傘と傘の隙間から、思いもよらない姿が目に入ったのだ。
「………音弥?」
昨日私が貸した紺色の傘をさしながら、制服姿の音弥が横断歩道を越えたところに立っていたのだった。
「芽衣?どうしたの?」
「あ………ううん、ちょっと弟が………」
隣から不思議そうに訊いてくる千春に、私はまっすぐ音弥を見つめたまま答えた。
「え?弟さん?」
千春はなおも驚いた様子で、辺りを見まわす。
私は、目立つことがあまり得意でない音弥に注目が集まるのは避けてやりたくて、
「ちょっと行ってくる。千春は先に行ってて」
そう告げると、千春の返事は待たずに駆け出した。
けれどすぐに止まり、くるっと振り向く。
「……もしかしたら今日は休むかもしれないけど、心配しないで」
「休むって、そりゃどうせ午後は休講だけど……弟さん、何かあったの?」
優しい友人は、心配を会ったこともない私の弟にも向けてくれる。
「わからない。でも、急に私に会いに来るくらいだから、何かあったのかもしれないし……」
いや、きっと何かあったのだろう。
一昨日の音弥はおかしかったから。
挫折を経験し、まるで自信を見失っているかのような、姉として支えてやりたくなるような、そんな繊細な姿だった。
だから私は、音弥が私を必要としてここに来たのなら、何よりも優先したかった。
南先生や天乃くん達の真相究明なんかよりも、音弥が大事だから。
それだけは、絶対に間違いようのない事実だから。
だから例え大学を休むことになっても、これは逃げなんかじゃない。
私の意志で、音弥を選ぶのだ。
すると千春はふわりと雰囲気を変えた。
「芽衣は、やっぱり ”お姉ちゃん” なんだね」
「え?」
「ううん。確認なんだけど、弟さんは口実で、実は芽衣の体調が悪いとかじゃないんだよね?」
「それはもちろん。私は大丈夫」
「そう。じゃあ、早く行ってあげなきゃ」
「うん、ごめんね。でもありがとう」
心配かけてごめん、心配してくれてありがとう
そんなつもりで伝えると、彼女にはちゃんと通じたようで、にっこり笑って私達は別れた。
私はすぐさま正門を通り過ぎ、横断歩道を渡って音弥のもとに駆け付けた。
「音弥、こんなとこまでどうしたの?」
ただでさえ人目を引く容姿をしているのに、そのうえ制服だなんて、よけいに通行人から興味を集めてしまう。
私は自分の傘を傾けて、できる限り音弥の姿を隠した。
音弥は、いつも通りの、感情が浮き出ない表情をしていた。
「おはよう、姉さん」
「おはよう、じゃなくて。私に会いに来るなら電話してくれたらよかったのに」
「……賭けてみたんだ。もしここで姉さんに会えなかったら、今日はおとなしくセミナーに行こうって」
「賭けって……」
呆れたくもなる一方で、その言い分も理解できた。
私だって気持ちが落ち込んでた頃、これがああなったらこうしよう、逆だったらやめておこう……なんて、自分の選択を何かに委ねたことは多かったから。
自分では選べない、動けないときがあるのだ。
心が疲弊してるときなんかは、特に。
でも私は、今、自分の選択で音弥の前に立っている。
弟と弟のピアノを支えたいと、本気で思っていた。
「でもごめん。姉さんはこれから大学なんだよね」
「それはいのよ。もともと今日は午後から休講だし、午前の講義も必須じゃないから」
「本当に?」
「うん。でも音弥は一昨日みたいに午後には寮に戻らないといけないんでしょう?」
一昨日はお昼も食べずに帰ってしまった。
けれどなんだか音弥の様子が変わる。
「いや、実は……今日参加予定だったセミナーは1泊2日の合宿形式だったんだ」
「ああ、サマースクールみたいな?」
「うん。でもやっぱり足が進まなくて……。それで、一昨日姉さんから、今夜は父さんも母さんも留守だって聞いてたから、もしここで姉さんに会えたらセミナーには行かずに実家で明日まで時間潰させてもらおうかと思ったんだ」
音弥の説明は嘘でもなさそうだ。
でも、やっぱり今の音弥がピアノから逃げたがってるのも嘘でもなさそうで、私はそれが少しだけショックだった。
だからといって音弥を支えたいとい想いに翳りが出るはずもなく、私は傘を元に戻すと、「そう、わかった」と頷いた。
「あ、でもちょっと学校に忘れ物してきちゃってるから、それ取ってくるまでどこかで待っててくれる?」
せっかくここまで来たのだから、ロッカーに置いてきた薬は取り戻したい。
かといってこんな人通りの多いところで音弥を待たせるのは忍びなくて、そう提案したのだけど、本人はたいして人目を気にしてる風でもなく、「じゃあ、駅で待ってるよ」と言うと颯爽と歩いて行ってしまった。
感情が表に出にくいのに実は家族の誰よりも感情屋だったり、口数が多くないと思いきや時には饒舌になったり、我が弟ながら掴みにくい一面は健在だ。
私は音弥の背中を途中まで見送ってから、ロッカールームに急いだのだった。
ロッカールームまでの往復で、天乃くんや天乃 流星、原屋敷さんと鉢合わせしないか一瞬不安が過ったけれど、そのときはそのとき、今は音弥が最優先だと腹を括ると、不思議と彼らのことは些細なものにも感じられた。
そして3人のうち誰にも会うことなく、音弥の待つ駅に辿り着けたのである。
二人で家に向かう途中、音弥からのリクエストで近所のパン屋に寄り、サンドイッチなど昼食用に適当に購入する。
晴れていれば気分転換に近所の公園に寄ってランチでもと言いたいところだけど、あいにく雨はどんどん強まってきていてそれどころではなかった。
パン屋を出ると私も音弥も示し合わせたかのように早足になり、家に急いだ。
家に着く頃には雷雨になっていた。
おそらく警報も出ているだろうから、もしかしたら文哉も帰ってくるかもしれない。
文哉は音弥と久しぶりの再会になるから、きっと大喜びするだろう。
そう思いながら玄関扉を開いた私は、そこにまだ彼らの姿がないことを確認してホッとした。
けれどそれと同じ分だけ、みんなまだ帰っていないのか…と複雑な気分にもなった。
いや、とにかく今は音弥が最優先。
そう気を取り直し、手洗いを済ましたあと、音弥に「ピアノ弾く?」と尋ねてみた。
でも残念ながら、音弥からは即座に首を振られてしまった。
どうやらまだ一昨日から心境の変化はなさそうだ。
そもそもセミナーに行きたがらないというのは、そういうことなのだろう。
だけど、こうして言葉にはっきり乗せると、また一段と音弥とピアノとの距離を実感してしまう。
これはあくまでも音弥自身の問題で、私なんかがおいそれと介入していい問題ではないのかもしれない。
それでも………と、私は思い返した。
私が音弥の留学がきっかけで倒れたときと、同じだ。
それは私の心の弱さ、自信のなさ、劣等感が招いた結果なのに、私の家族はみんなが一生懸命悩んで支えてくれた。
もちろん、音弥も。
だから今度は、私の番なのだ。
私は心を締め直し、音弥にサンドイッチを手渡した。
「じゃあ、ちょっと早めのランチにしよっか?」
音弥はそれを受け取ってくれて、「ありがとう、姉さん」と、どこかホッとしたように言ったのだった。
穏やかなランチの時間だった。
音弥のお気に入りの紅茶を出すと喜んでくれて、二人でとりとめのない話をした。
だけどそんな和やかなひと時も、やがて終わりを迎えたのである。
そのきっかけは、他でもない、音弥の「ところで、姉さん…」のあとに続くセリフだった。
「今日はあの奇妙な奴らはいないの?」




