3
朝。
私はぐっすり眠ったあとのような、爽快な目覚めを迎えた。
あれから、悪夢も記憶の再生も起こらなかったのだ。
もしかしたら、軍服マントとの真夜中の会話が私の気持ちをリラックスさせてくれたのかもしれない。
私はひとりじゃない。
記憶を思い出しても平気。
だから悪夢なんかじゃない。
そう頭ではわかっていても、心が不安に怯えていた。
でもそんな私に、軍服マントはそっと寄り添ってくれたのだ。
そしてそれは、ゴーストでなかったら難しかったのかもしれない。
気配を自由自在に消せたり、時間を問わずに私のそばに現れたり。
それが可能なゴーストだからこそ、私は畏まらない気持ちと向き合えたのかもしれないから………
ともかく、軍服マントに会ったらちゃんとお礼を伝えなきゃ……そう思いながら、私は清々しい朝の光を受けて、食事の準備に取り掛かったのだった。
ところが、朝食を作り終えても、予定通りスタジオ入りのため泊まり仕事で早く出かける母を見送っても、文哉が朝支度を済ましても、軍服マントどころか彼らを誰一人として見かけることはなかったのだ。
「芽衣ちゃん、今日雨降る?」
「んー、予報では微妙かな。でもまだ梅雨だし、降ったとしてもおかしくはないよ。学校に置き傘はしてるんだよね?」
「うん!帰ってきて雨だったら、またあの子とオセロしようっと」
文哉は名もなき友達とのオセロがよほど楽しいらしい。
あの文哉に、まさか読書より優先させることができるとは想像もできなかったけれど、まだ幼い弟はこれからも色んな経験を積み重ねて成長していってほしいと心から願う。
「じゃ、行ってきまーす!」
「気をつけてね。行ってらっしゃい」
いつもの時刻に文哉を送り出し、私は洗濯に取りかかる。
洗濯機をまわしている間は自分の支度時間だ。
私はいつもそうしてるように、鏡の前に立った。
すると、そこに映るもう一人の自分と目が合って。
「――――っ!」
鏡を見てるのだから自分が映っていて当たり前なのに、私は自分がもう一人いたことにギクリと震えてしまったのだ。
夢の中で泣いて泣いて音弥に謝り続けていた、もう一人の私……
暗闇に囲まれて姿は見えないのに、彼女が抱えているとんでもなく激しい後悔と懺悔は、ひしひしと伝染してきた。
今思い返しても、胸が締まって息苦しくなるほどに。
すると、あっという間に今の私の心も暗闇に囚われてしまったのだった。
ついさっきまで在ったはずの爽快感も清々しさも、まるで帳が降りたかのように全部色を塗り替えられてしまう。
…………ああ、私はまだ、こんなにも脆い。
浮上したと思っても、こんなにも容易く、また沈められてしまう。
記憶を失くしてしまうほどに心を痛めたのだから、簡単に回復できないのは仕方ないのかもしれない。
………でも、どうして?
音弥とも話せたし、自分の出生が母の未来を奪ったという思い込みも解けた。
それに、軍服マントみたいに寄り添ってくれる味方も増えた。
なのに、私の中にはいまだに黒い鉛のような濃い不安感が居座り続けているのだ。
そのせいで、一旦は前向きに歩けたとしても、また舞い戻ってしまう。
せっかく薬なしでも眠れるようになったし、南先生のおかげで過呼吸との付き合い方だって身に付いてるのに………
忙しなく巡る思考が ”南先生” の名前を刻んだとたん、ふと急停止した。
ああ、そうだった………まだそれが残っていたんだった。
昨日からいろんなことがありすぎて薄れていたけれど、南先生と天乃くんが兄弟だったことや、原屋敷さんとも知り合いだったこと、それに私を騙しているらしいこと……それらは何ひとつ解決していないのだ。
昨日の過呼吸のトリガーにもなったことなのに、それを宙ぶらりんにさせたままでは、心の底から不安を消滅させるなんて到底無理だろう。
そう察するや否や、深いため息が漏れる。
今日は午後から休講とはいえ、午前の講義は天乃くん達と一緒になるのだ。
昨日の電話も中途半端なところで終わってしまったし、しかも天乃 流星とはあんな別れ方をしたわけだし、いったい私はどんな顔で彼らと会えばいいのだろう……
大学に行く支度をしていたはずのに、私はすっかり気が重くなってしまった。
「…………サボろっかな」
『あら、いいんじゃない?リフレッシュも必要よ』
『ザッツライトです!』
『ええやんええやん!うちらも一緒にサボるで』
『堂々とサボるなんて、いい度胸してやがる』
『其方の好きにするといい』
ぽつりとこぼれたひとり言に、どこからともなく5人の返事が聞こえてきたような気がした。
でも実際は、誰もいなくて。
私は廊下に出て、家のほぼ中央に位置する階段に腰掛けた。
母も文哉も出かけてしまった家は、がらんと静かで、余計にひとりぼっちを実感させてくる。
この家、こんなに広かったっけ………
誰もいない家は、改まって見まわすと、まるで私の家ではないような変な感じがした。
まだ引っ越してきて二か月ほどなのだから、馴染みが薄くて当然だ。
自分をそう言い聞かせてもなお、違和感がぬぐえない。
視界に入る現実の空間と私の自宅での居心地がマッチしない、そんなズレがあちらこちらに出現してるようだった。
彼らがここにいてくれたら、そんな違和感は生じなかったのだろうか?
引っ越してきてからずっとどこかしらに彼らがいたから、こんなにも静かな我が家に違和感を覚えてしまうのだろうか?
すっかり5人のいる暮らしに慣れてしまって、こんなにも静かな一人きりは、不安を煽るばかりで。
「………大学、行きたくないな」
天乃くん達に会いたくないし、彼らには早く会いたかったから。
彼らに会えば、不安もいくらか和らぐはずだから。
大学に行くよりも家で待っていた方が、早く会えるだろうから。
私の心がほぼ固まったところで、
ピ――――――ッピ――――――ッピ―――――――ッ
けたたましく洗濯終了の合図が鳴り響いたのだった。
「――っ!」
ハッと、意識がクリアになると、私の目の前には朝の澄んだ空気が広がっていった。
静かで、穏やかな、朝の一人時間だ。
私は頭を振って、さらにパシンッと頬を両手で叩いた。
天乃くん達には会いたくなくても、大学のロッカーに薬を忘れてきてるじゃない。
それに、会いたくないからって、ずっと避けるわけにもいかないでしょ?
来週には南先生のカウンセリングの予約だってしてるんだから。
どんなに不安があっても、現実問題は勝手に解決してくれないのだ。
逃げて、苦しさから逃げた結果、私は記憶を失くしてしまった。
また逃げるつもり?
ううん、逃げてもいいのよ。
もし本当に辛くて、生きていくのも嫌になるくらいに辛かったなら、逃げたっていい。
でも今の私は、逃げて失った記憶と向き合おうとしてるのでしょう?
だったら、今ここで逃げちゃだめ。
天乃くん達からも、私を騙してるという南先生からも、失った記憶からも、得体の知れない不安からも、逃げたくない。
逃げない。
ちゃんと向き合うの。
音弥ともお母さんともちゃんと話して、向き合って、結果よかったでしょ?
だから、もう逃げない。
―――――よし。じゃあとりあえず、私の仕事のひとつでもある洗濯を、きっちりやり遂げよう。
私はずいぶん浮き上がった心に引き上げられるようにして、階段から立ち上がったのだった。




