13
バタバタバタッと一階の廊下を駆ける音、階段を上ってくる音が近付いてくる。
母は朝から打ち合わせに出かけていて、本来なら文哉は私が大学から帰ってくるまでの間一人で留守番するはずだった。
それが玄関に私の靴があったものだから、不思議に思ったのだろう。
『じゃあ、アタシは消えるわね』
”私ひとりのとき以外は姿を見せないこと” という約束に従い、軍服マントが壁にスッと向かっていく。
けれど私は、ふわりと目の前を過るマントの裾をつかんでいた。
「……いい。私が部屋を出るから。あなたはここでちょっと待ってて」
なんとなく、軍服マントとはまだ話をしていたかったのだ。
『あら、そう?わかったわ』
ぴんと張っていたマントが緩むのを見届けてから、私は手を離し、廊下に出た。
「あ、やっぱり芽衣ちゃん帰ってたんだ!……大丈夫?しんどいの?」
ちょうど階段を上りきって廊下の角を曲がったところだった文哉が、ランドセルを背負ったまま心配そうに訊いてきた。
これは私の顔色をうかがっての反応ではなく、こんな時間に私が家に帰ってきてるせいだろう。
「大丈夫よ。大学は授業時間がよく変わるの。この前も急にお休みになってたでしょう?」
嘘と真実をミックスして説明すると、文哉は「あ、そっか!」と納得してくれた。
文哉の小学校は今日は給食を食べてすぐに下校だったはずなので、私はそんなに長い時間は悪夢の中に滞在していなかったようだ。
「文哉、おやついる?用意しようか?」
「ううん、いい。ぼく、自分の部屋で遊んでるから、晩ご飯の時間になったら教えてね。お手伝いするから」
文哉は自分の部屋に向かいながら、いそいそとランドセルを下ろしていく。
きっと、図書館で何か借りてきたのだろう。
早く本を読みたい、おやつの時間も勿体ない、そんな様子だった。
「ありがとう。文哉もお腹空いたら言ってね」
「うん、わかった!」
私は文哉が部屋に入るのを待ってから、自分の部屋に戻った。
『弟くん、とっても優しい子ね』
「ありがとう。自慢の弟よ」
軍服マントは立ったまま腕組みをして壁に身を預けていた。
その格好が雑誌に載ってるモデルのようで、こういうポーズも自然とできてしまう軍服マントは、やっぱり芸能人なんだなと思う。
『お嬢ちゃんには自慢の弟が2人もいるのね』
「そうよ。2人とも、自慢の大事な弟よ」
『ふふふ、素敵ね。ところでお嬢ちゃんは平気?顔色はだいぶ良くなったようだけど』
私の顔を覗き込むように体を曲げてくる軍服マント。
至近距離になっても相変わらず体温的なものは何も感じないけれど、私を心配する瞳の中にはちゃんと私が映っている。
「もう大丈夫よ。また具合は悪くなるかもしれないけど、少なくとも今は」
完全に大丈夫だとは宣言できないけれど、悪夢から目覚めたとき、ひとりじゃなかったおかげで、ずいぶん救われた。
『そう。よかったわ』
「ありがとう。あなたがいてくれてよかった」
『勝手にお部屋に入っちゃったことは、ごめんなさいね』
「まあ、今回は緊急事態だったわけだし……」
『そう言ってもらえてよかったわ。アタシもそうだけど、あの子達も心配性なところがあるのよね。お節介に見えるかもしれないけど、許してちょうだいね。ああ、でも、お嬢ちゃんも弟さんのことになると心配性よね。ふふ、アタシ達、似た者同士ね』
そう言うと、軍服マントは綺麗なウィンクを寄越した。
「………別に、許すもなにも、私との約束はあなた達と原さんの間の決まりごととは違って強制力はないわけだし………」
自分でも、家族…特に音弥と文哉が絡んでくると、途端に心配性みたいになってしまうのは自覚している。
図星を突かれて気恥ずかしくなる私だったけれど、軍服マントが『ハラさんといえば………』と、さも今思い出したように話題を変えてくれた。
でもそれは、私をまたもや落ち着かなくさせたのだった。
『お嬢ちゃん、今日ハラさんと会ってたの?』
「え………原さん?」
唐突すぎる質問に、即答するより戸惑いが先走ってしまう。
私と ”原さん” という人物の接点がいったいどこにあるというのだろう?
今朝から今現在に至るまでの間、特に初対面の相手もいなかったのに。
けれど、
「全然…」
全然心当たりはないけど…そう答えかけたところで、私は、大学のロッカールームでの出来事を思い出したのだ。
そして、もしかして…と、逆に軍服マントに尋ね返してみた。
「…ねえ、その原さんって、私と同じ大学の女の子だったりするの?」
原屋敷さんは、遅れてやってきた友人と思しき学生達に ”原さん” と呼ばれていた。
そのときは、確かに私も一瞬は、彼らの言う ”原さん” と原屋敷をリンクさせて疑ったりもした。
でもすぐに、おそらく単純に原屋敷という名前からとった呼び方なのだろうと思い直したのだ。
だって、確率的に考えてもそう判断するのが普通だろう。
だけど………
なんだか、妙な胸騒ぎが起こりはじめていた。
だってクリニックで天乃くんが言ってたじゃない。
私は騙されてるって。
いったい何のことを指してるのかまではわからないけど、万が一みんながグルで私を騙しているのだとしたら、原屋敷さんが ”原さん” という可能性だってなくはないと思う。
ところが軍服マントの返事は正否ではなく、『あら、どうして?』とさらに質問を重ねてきたのだ。
「それは………実は、今日会った大学の知り合いで、”原さん” って呼ばれてる女の子がいて………」
腹の探り合いに突入するのかと思いきや、軍服マントは私の言い訳を聞くなり声をあげて笑い出した。
『それはただの偶然よ。だってアタシ達の知ってる ”ハラさん” は大人の男性だもの』
「え………男性?大人……?」
焦らしたわりにはあっさり正解をくれて、私は胸騒ぎが萎んでいくのを感じた。
『そうよ?学生さんじゃないわ。だからお嬢ちゃんのお友達の原さんは、”ハラさん” じゃないわ』
「そう、なんだ……?でもそれなら、なんで今日私が ”原さん” と会っていたかなんて訊いたの?」
『ああ、それはね、お嬢ちゃんからハラさんの気配を強く感じたからよ。わかりやすく言うと、残り香、みたいなものかしらね。アタシ達に嗅覚はないけれど』
「残り香……それって、食べ物の匂いとか香水とかみたいに、近くにいたら移っちゃうものなの?」
『そうねえ……』
軍服マントは顎に指を当てて考え込む。
『……普通は、移らないと思うわ。でもハラさんほどの強い力だと移っちゃうこともあるみたい。でもそれって、自分の位置を相手に筒抜けにさせちゃう天然のGPSみたいじゃない?だからハラさんは、普段は自分の気配が残らないようにコントロールしてるらしいんだけど………今回はどうしてだか、お嬢ちゃんから濃厚な気配を感じるのよね』
他に心当たりはないかしら?
再度問われて、私は今日の出来事を思い返す。
といってもまだ半日しか経っていないので、思い浮かぶ人物も知れている。
まず学生ではないということから、天乃くん、天乃 流星をはじめとする大学内の知人友人達は除外だ。
だとしたら、職員、もしくは学外………
「―――――あ!」
『なになに?何か思い出したのかしら?』
まさかとは思うけど、今日私が接近した中で大人の男性といえば、一人浮かんできた人物がいたのだ。
「………その人って、背が高くて、物腰が柔らかくて、眼鏡をかけてる?」
南先生しか、思いつかなかった。
けれどこれもまた外れだったらしく、軍服マントは『眼鏡はかけてないわね』とあっさりNOを告げたのだ。
『まあ、背は高い方かもしれないけれど。でも物腰が柔らかいというのもあり得ないわね。それはアタシじゃなくあの子達から聞いた方がリアリティがあると思うわよ?ね、あの子達も心配してたから、ちょっとお顔を見せてあげてくれないかしら?居間で待ってるはずだから』
「それは構わないけど……」
”原さん” の件はもういいのだろうか。
私としては、私の近くにいるのなら、その正体が誰なのか明らかにしておきたいところだ。
でも、すれ違っただけとか、その程度でも移ってしまうのなら、もう探りようがない。
原屋敷さん以外に私の周りで ”原” のつく名前の人はいないわけで、だとしたら私が名前すら知らない人物の可能性が………
そこまで考えたところで、私ははたと違和感を覚えた。
…………名前?
「………ねえ、ちょっと確認なんだけど、あなた達って、人の名前を呼んじゃいけないって規則があるのよね?」
『ええ、そうよ』
何をいまさら、といった目つきで頷く軍服マント。
私はその平然とした態度に食ってかかるように問い詰めた。
「じゃあ、どうして ”原さん” は名前で呼んでいいの?」
とても強い力を持っている人のようだから、もしかしたらそのあたりが考慮されてのことかもしれない。
でももしかしたらそれ以外に特別な理由があるのかもしれない。
だったら、それが ”原さん” を探す手がかりになり得ると思ったのだ。
けれど軍服マントはその整った顔をきょとん、とさせた。
やがて、
『やあねえ、ハラさんっていうのは、アタシ達が便宜上勝手に付けただけで、本当の名前じゃないわよ』
と笑い出してしまった。
「え……、本当の名前じゃないの?」
その可能性はまったく頭になかった。
私の方こそ盛大にきょとんとしてしまう。
『そうよ?アタシ達5人で共有してるあだ名みたいな感じね。ほら、学校の先生とかにもつけなかった?仲間内でしか通じないような秘密のあだ名。あれよ。だからハラさん本人は自分がそう呼ばれてることも知らないわ。つまり、本人が認識していない以上、これは名前ではないのよ』
「それなら、”原さん” なんていったいどこから付けたわけ?」
『あら簡単なことよ。”祓い屋” だから ”ハラさん”。ね?安易なネーミングでしょ?』
自虐的に答えた軍服マントは、笑いながら『それじゃ、下に行きましょうか』と、すたすた部屋を出て行こうとする。
一方の私は、
「祓い屋って………ねえ、ちょっと待ってよ!」
慌ててひらりと舞うマントに呼びかけた。
”原さん” なる人物がそういった職種の人だろうというのは何となく予見できたものの、まさかそんな人物が私の周りに潜んでいるなんて………
けれど二階には文哉もいることを思い出し、思わず唇を固く閉じた。
そうしてる間にも、正攻法でぐんぐん一階の居間に向かう軍服マント。
私はその背中を追いかけながらも、どこの誰とも定かでない祓い屋の存在に、全身の肌が粟立っていくのを抑えられなかった。




