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「私、私思い出してる。あの頃のことは記憶がなかったはずなのに!」


私はガバッと軍服マントの腕に掴みかかっていた。

はじめて触れた衣装は思いの外さらりとしていたけれど、そんなのはどうでもよかった。


『え?ちょ、記憶って?』

「だから記憶よ!私、弟の留学が決まって、喜びまくるお母さんとかにショックを受けて、自分の存在価値とかがわからなくなって、でもそれ以上に普通に ”おめでとう” って言えない自分がショックで、それで倒れちゃって、その前後のことは記憶がなくなってて…………。さっき電車の中で見た夢は倒れた時のことだけだったのに、今度のはその後のことまで次から次から出てきてて………。ああ、どうしよう………どうして?こんな急に思い出してくるなんて」


ぐいぐい軍服マントを揺さぶる。

けれど次の瞬間にはパッと離し、今度は自分自身を抱きしめるように両腕を体にまわした。


「もしかして、私が思い出した方がいいかもとか考えたから?それで自分でも知らないうちに記憶の蓋を外してたわけ?それとも、過呼吸?今日久しぶりに過呼吸になんかなったから、あの頃の自分と重ねて、それが引き金になっちゃったの?そうじゃなかったら……………まさか、薬?………ううん、そんなことない。昨夜はお母さんとちゃんと話せて、私は幸せな気持ちで眠れたはずだもの。でもそれならなんで………」


眠りに落ちる直前、根本的な快復のためには忘れている記憶を思い出すべきだと、そんな考えが過ったのは事実だ。

その考えに嘘はなかったけれど、思い出したら思い出したで、その後自分がどうなるのかが不安で怖かった。

なのに急にこんな風に蘇ってきてしまうなんて………



『ねえ、ちょっと待って、お嬢ちゃん!』



「………え?」



自分を抱きしめる力がどんどん強まっていく私の両腕を、軍服マントのもっと力強い腕が解放させた。


『え?じゃないわよ。アタシの声が聞こえてるわね?いいこと?それじゃ、はい、息を吸って―――ほら、やって。はやく!』


いつにない軍服マントの強引な言い方に、反射的に私は従っていた。


『そうそう、ゆっくりね。はい、吐いて――――。そう、上手よ。そしたらもう一度、吸って―――――吐いて―――――。次は背筋を伸ばして、う―――んと腕をうえに伸ばして――――――はい、下ろして―――――もう一度伸ばして―――――下ろして―――――。うん、顔色が戻ってきたわね』



にっこり微笑まれて、確かに私も幾分気持ちが落ち着いてくるのを感じた。

ベッドの上で居住まいを正し、軍服マントを見上げる。



「………ごめんなさい。ちょっと、悪い夢見ちゃって……」


軍服マントがいなければ、危うく不安に負けて自分を見失うところだった。

そうなったらきっとまた過呼吸になっていただろう。

一日に二度は、さすがにきつすぎる。



『いいのよ。ところでお嬢ちゃん、今日過呼吸になったの?』

「ああ、うん、まあ……ちょっとね」

『大学で?それで早退してきたのかしら?』

「そうだけど、でもそれはもう大丈夫なの。お薬も飲んだし」

『お薬って、毎晩寝る前に飲んでるお薬?そういえば昨夜はお母様とおしゃべりしてたみたいだけど、そのあとお薬は飲んだの?』


鋭い指摘に、ギクリとする。

軍服マントは本当に聡いというか、洞察力が優れていて、優しいけれど、ちょっとやそっとでは誤魔化しきれない。

私は早々に降伏した。



「………実は、忘れてたの。もしかしたら今日過呼吸になったのも、それが原因のひとつかもしれない」

『そう………。原因のひとつ、ということは、引き金になる出来事は別にもあった、ということかしら?』

「………うん」


天乃くんとの電話だ。

電話の向こうで南先生の声が聞こえて、それからおかしくなった。

でも今はとてもその反芻ができる状態じゃなかった。

するとまたもや軍服マントは察してくれたのだろう、『ああ、何があったのかなんて話してくれなくていいのよ?』と柔らかく制した。


『もちろんお嬢ちゃんが話したいならぜひ聞かせてほしいけど、そうじゃないなら、何も言わなくていいのよ。でもね、さっきお嬢ちゃんが言ってたことで、ちょっと気になったことがあるから、話してもいいかしら?』

「………なに?」


私が聞く素振りを見せると、軍服マントはふわりとマントをなびかせてベッドの端に腰掛けた。



『きっとさっき言ってた留学というのは、上の弟さんのことよね?お嬢ちゃんはピアノのことでいろいろ複雑な想いがあるのかもしれないけれど、これだけは言わせて。自分以外の人の成功を祝福できないなんて、そんなの普通。当り前よ』



長い脚を組みながら、軍服マントはそれこそ至って普通に言ってのけたのだった。



「それは、ないんじゃ……。普通は、親しい人の成功は祝ってあげられるものなんじゃないの?」


家族ならなおさらだ。


表向き(・・・)はね。だけど、アタシの前の仕事知ってるでしょう?そこじゃいくら仲間内でも、自分以外の成功を心から祝福してる人間なんか一人もいなかったわよ?』


「………まさか」


『ま、中には本当に、純粋に心の底から自分以外の誰かが有名になったり賞をとったりするのを喜んでる人もいたかもしれないけど、そういう役者はそこ止まりよ。悔しい、どうして自分じゃなくてアイツが、負けたくない、そんな想いがなかったら、成長できっこないわ。だってそれだけ、自分が真剣に向き合ってるってことだもの。だからお嬢ちゃんが弟さんの留学を手放しで喜べなかったのは、それだけお嬢ちゃんもピアノに真剣に向き合ってた証なんじゃないかしら?』


「………そりゃ、昔は本気でレッスンもしてたけど……」


『本気で取り組んでたことで、誰かが自分よりもいい結果を出す。それを祝福できないなんてごく自然な感情だと思わない?むしろそうならない方が嘘くさいわよ。アタシなんて祝福できないどころか、自分がオーディションで落ちた役に友人が選ばれたとき、体調崩して代役まわってこないかしら…とまで思ったものよ。もちろん口に出したりはしないわよ?相手を傷付けたいわけじゃないから。でも、お酒が入ってきたりすると、ついぽろっとこぼしちゃう人もいたわ。そして誰もその人を責めたりお説教したりなんかしなかった。みんなが、真剣にその役を取りに行ってたからよ。お嬢ちゃんは弟さんの留学を妨害したり阻止しようとしたわけじゃないんだから、祝えなかったことくらいで自分を責めたりしないで。そんな風に人の成功を祝えないのは、みんな同じだから』



”心から祝えなくてもしょうがない、自分を責めるな”


それは、私が倒れて以来、何度も何度も、南先生を筆頭にいろんな人から言われ続けた慰めの言葉だった。

だから、誰もが経験するような、正論なんだろう。

でもそんな正論は私には全然響かなくて。

なのに、この軍服マントが生前の俳優時代に実際に感じていたという想いは、私の中にすんなり浸透していったのだ。


軍服マントはにこやかに続けた。



『それにね、昨日、お嬢ちゃんが弟さんに言ってた ”24時間365日ファン” っていうのは嘘じゃないでしょう?』




――――だからね、もしかして、今の音弥はちょっとだけ自信がなくなってたりするのかもしれないけど、そんなときだって、いつでも、24時間365日、私にとって音弥は世界一のピアニストなんだからね―――――




昨日、突然帰ってきた音弥の様子がおかしくて、そんな音弥に私がかけたセリフだ。

もちろん、その言葉に嘘なんかない。

壁にぶつかって悩んでいた音弥に、周りが何を言おうと私は絶対に音弥の味方なんだと知っておいてほしくて、そう伝えた。


軍服マントは、『だから、大丈夫』と断言し、私の頭をぽんぽん、と軽く叩くような素振りをした。


『お嬢ちゃんが抱いた感情は、生きてる人間なら当たり前の感情なのよ。それに、祝福できないだけでそんなに罪悪感持たれちゃったら、急病で代役まわってこないかしら…なんて祈っちゃったアタシはどうなるの?悪魔みたいじゃない。そんなの死んだら地獄行き確定でしょ。でも、アタシはちゃーんとここに、お嬢ちゃんの目の前にいるわよ?地獄には落ちてないの。だから、お嬢ちゃんも、悪くない。でも、そうやって自分を責めるのもまた、悪いことじゃないわ。それがお嬢ちゃんの優しさなのよね?それだけ弟くんのことを、大事に想ってる証拠だと思うもの。きっと弟さんも、ちゃんとわかってるはずよ。そうじゃないと、昨日、あんな風に自分の悩みを打ち明けたりなんかできないでしょ』


おしゃべりの本領発揮なのか、軍服マントは私の相槌さえ許さないほどにすらすらと語った。

でもブラックユーモア混じりのそれは、決して説教がましいものではなくて。

舞台役者をしていただけあって、この人の声は、心地いい。


すると軍服マントは今度はおもむろに腕を組んだ。


『だけど、これでようやく納得できたわ』

「………なにが?」


『ほら、アタシ達ってお嬢ちゃん家族がこの家に引っ越してきたときからずっと見てきたわけじゃない?それでね、いくらお仕事が忙しいからって、ちょっと子供に家のことを押し付けすぎなんじゃないかって話してたのよ。でも、少しずつお嬢ちゃんや弟さんやご両親のことを知っていって、昨日の弟さんの話も踏まえて思ったのだけど………きっとご両親は、お嬢ちゃんが自分に自信を持てるように、わざと家の用事をたくさんお願いしてたのね』


素敵なご両親ね。


軍服マントは腕組みをほどき、そのまま胸の前で手を合わせ、まるで幸せいっぱいな映画を観終わったときのような表情で言った。



「家事は、私の存在価値だから………」


私には、それくらいしかできないと思っていたから。


『そうね。たくさんある存在価値のうちのひとつね』

「たくさんあると、いいんだけど………」


私には、それくらいしかないと思っていたから。


『あら、たくさんあるわよ。人間は生きてるだけで価値があるんですもの。あら?ということはつまり、アタシは存在価値をひとつ失くしちゃったわけね。やあねえ、もう、これだからゴーストって損だわ』


「損……」


その言いまわしが妙で、思わずフッと笑みが漏れてしまう。

今にはじまったことではないけれど、彼ら(・・)の感性は独特すぎる。

でも緩急のある軍服マントとの会話のおかげで、ずいぶん心の空模様が変わったのは確かだった。



『ところでお嬢ちゃん』

「なに?」


軍服マントはすっと立ち上がると、御自慢のマントをバサッと揺らした。


『さっき、記憶がどうのと言っていたけど……』

「ああ、うん………。お医者さん曰く、心の安全装置が作動しちゃったみたいで、辛かったころの記憶がずっとなかったのよ」

『でもそれを思い出したということ?』

「うん……」

『全部?』

「ううん、たぶん、まだ少しだとは思う。でも少しずつ記憶の範囲っていうか、思い出す量が増えてる感じはする……」

『そう。確認なんだけど、それは、お嬢ちゃんにとっては望んでいなかったことなのね?』

「全然望んでなかったと言えば、嘘になるかもしれない……」

『じゃあ、訊き方を変えるわね。思い出さないままの方が良かった?思い出したら、また辛くなっちゃうのかしら?』


いい声で、穏やかに問われて。

私は、黙って自分自身の気持ちと対峙した。

そして


「…………わからない」


目を伏せて答えた。

これ以上ない率直な想いだ。



『わからない?』

「うん……。正直、急に思い出したのは驚いたけど、でも忘れたままじゃ前に進めないような気がしてたのも事実で………そろそろ、思い出すべきなんじゃないかなとは思ってた。だけどね、あの頃何があったのか具体的に思い出して、また倒れたりしたら……とか考えると、不安でたまらなくなるの」


素直に吐露すると、軍服マントはあっけらかんと『それなら大丈夫よ』と返してきた。


「そんな簡単に言わないでよ」


いささか言葉が尖ってしまう。

けれど軍服マントは腰に手を当てて、自信たっぷりに胸を張ったのだ。


『あら、簡単よ。いいこと?お嬢ちゃんはひとりぼっちじゃないのよ?例えもし同じようなことになったとしても、その時はまたお嬢ちゃんを支えてくれる人がいるでしょう?弟くんも、ご両親も、その上、以前と違って今はアタシ達もいるじゃない。5人は確実に味方が増えてるのよ?あ、もしかしてゴーストなんかに何が出来るの?とか侮ってないでしょうね?言っておくけど………』


軍服マントは今度はしっかりと私の頭の上に手のひらを乗せた。


『ほうら、アタシはこうやってお嬢ちゃんに直接触れることだってできるのよ?お嬢ちゃんが過呼吸になったとしても、ちゃんと支えることだってできちゃうんですからね。だから……………安心して、思い出しなさいな』


ぽん、と軍服マントが私の頭をやわらかく叩いたそのとき、玄関の鍵がガチャガチャ鳴った。

やがて


「ただいま――――っ!あれ?芽衣ちゃん帰ってるの?」



今日も元気溌剌の文哉が、学校から帰ってきたのだった。









誤字をお知らせいただき、ありがとうございました。

ご指摘の箇所を訂正させていただきました。

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― 新着の感想 ―
[一言] いろんな事が起きて過呼吸の発作まで出た上に、忘れていた記憶が戻ってきたという状況に戸惑う芽衣ちゃん。 こんな時に一人じゃなく、ゴーストとはいえ軍服マントさんが居てくれて良かったです。 南先生…
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