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それは、聞き覚えのあるような、ないような、はっきりしない音だった。
日常の中にある音なら、だいたいは聞き分けることができるけれど、音というのはとても繊細で、例えば聞く角度とか、天気なんかでもまったく違って聞こえることもあるのだ。
ただ、私はこの正体不明の音に、なぜだか非常に執着を抱いたのである。
失ってはいけないと焦燥に駆られるような、手放せないと縋りつきたくなるような………
その音がどちらから聞こえたのかもわからないくせに、私はひたすらに両腕を左右両側に伸ばして、懸命にそれを探した。
どこ?
どこなの?
体を右に、左にまわし、見えもしないのにきょろきょろ見まわして。
どこ?
どこなのよっ!
すると、じたばたする私に、今度は音弥じゃない声が投げかけられたのだ。
「芽衣ちゃん!」
姿なんか見えなくてもわかる。
もう一人の弟、文哉の可愛らしい声。
文哉?文哉もいるの?
そう叫びたいのに、やっぱり喉が生きていない。
苛立った私は己の喉を掻きむしらずにはいられなかった。
爪が皮膚に傷みを与えても、止められない。
それだけ、私は必死に弟達に呼びかけていた。
音弥!文哉!音弥!文哉!
真っ暗な中、二人の気配はそこはかとなく感じるのに。
音弥?文哉?そこにいるの?
早く二人を見つけないと、二人がいなくなってしまいそうで。
でも、ここにいたのは二人だけじゃなかった。
「―――――芽衣?」
「芽衣!」
お母さん………?待って、お父さんもいるの?
「ゆっくりで大丈夫よ、芽衣」
「なにも心配しなくていいんだ、芽衣」
二人は、私が体調を崩すといつもそう言ってくれた。
過呼吸で倒れるたびに寄り添ってくれて、眠れない夜は一緒に夜更かししてくれて、食事もままならない時はお菓子でも何でもいいから一口食べてと、わざわざ私の好きなお菓子を買ってきてくれて…………
本当に、私はこの数か月、家族に支えられてきたのだ。
私がこうなった原因は家族だったかもしれないけど、癒してくれたのも確かに家族だった。
音弥みたいにピアノが弾けなくても、文哉みたいに文才がなくても、
私は生きてるだけで意味があるのだと、
存在してるだけで価値があるのだと、
私が家事をすることは、家族の大きな支えになってるのだと、
それがなくなったら家族みんなが困るのだと、
何度も何度も何度も、繰り返し繰り返し、父も母も弟も家族みんなでそう言って私に自信を取り戻させてくれて…………
「姉さん」
「芽衣ちゃん」
「芽衣」
「芽衣」
なのに私は、家族の姿が見えないの。
どこにいるの?ねえみんなどこにいるの!?
「姉さん……」
「芽衣ちゃん!」
「芽衣?」
「芽衣……」
みんなの声が、どんどん遠くになっていく気がした。
待って!みんな行かないで!
どこにいるの?どこに行くのよ!
私を一人にしないで!
私だって西島家の一員なんでしょ?だったら置いていかないでよ!
一人は嫌なの!独りは、もう嫌―――――――っ!
「――――――行かないでっ!!」
ガバッと起き上がり、やっと吐き出せた声とともに、ハッ、ハッ、ハッ…と刻んだ息遣いを聞いた。
夢…………?
現との境界線を跨いでるような感覚に、わけもなく涙がせり上がってきそうになる。
それを拭おうとしたそのとき、ようやく気がついた。
起き上がる際、目一杯伸ばした私の右手が、大きな手のひらに優しく包まれていることに。
『…………お嬢ちゃん?』
「あ………」
ようやく夢から抜け出せた私は、自由にならない自分の手を見て、涙の影さえも追い越しとっさに口走っていた。
「なんだ、やっぱり、触れるじゃない……」
烏帽子男と袴三つ編みはまったく私に触れることができなかったのに、今目の前で心配そうな顔をしている軍服マントは、両手で私の手を握っていたのだから。
普通の人間が、普通の人間にそうするように。
すると軍服マントは一瞬驚いたように眉を動かしたものの、すぐに心配色を溶かし、ひょいっと肩をすくめた。
『あの子達にはナイショね?ヤキモチ焼いちゃうでしょ?』
まるで映画俳優のような仕草とセリフまわしだ。
まあ、実際に本物の俳優さんだったのだから、ごく自然に出てきたものなんだろうけど。
でも、なんで軍服マントが私の部屋にいるの?
私は悪夢の残り香よりも、乱れた息を整えるよりも先に、それを不思議に思った。
軍服マントの方も自分が本来ここにいるべきでないとはきちんと自覚している様子で、そっと手を離しながら『勝手にお部屋に入っちゃって、ごめんなさいね』と言った。
ベッドの上で考えごとをしていた私がいつの間にか眠ってしまっていたのは間違いない。
軍服マントがこの部屋に来たのはその後のことで、私は目を覚ましもしないほど深く眠っていたということだろう。
だってその間、私はあの頃の夢を……………あの頃の夢?
「――――ちょっと待って」
私は勢いよく落ちてきた困惑を飲み込むように、両手で口を覆っていた。
『そうよね、お嬢ちゃんが怒るのも無理ないわ。だってアタシ達、お嬢ちゃんの部屋には勝手に入らないって約束していたんだもの。その約束を破っちゃって申し訳ないとは反省してるのよ?でもね、さっき帰ってきたときのお嬢ちゃんがあまりにも顔色が悪かったから、アタシ達すっごく心配だったのよ。そうしたらお嬢ちゃんの部屋からお嬢ちゃんがうなされる声が聞こえてくるじゃない?それでね、三人で話し合って、代表でアタシが様子を見に来たわけ』
「違う、そうじゃない」
『そうよね、そんなの違うわよね。でもアタシ達がお嬢ちゃんをすっごく心配してたってことは信じてほしいのよ』
「そうじゃなくて、私………」
『うんうん、お嬢ちゃんだってそう簡単に信じられないわよね。わかってる。わかってるわ。でもね、』
「私………、思い出してきてる…………」
『そうね、確かにお嬢ちゃんは思い出して――――――え?思い出してきてる?』
軍服マントのおしゃべりが急停止する。
私は構わず、恐る恐る、たった今見ていた夢を撒き戻し、辿りなおした。
真っ暗闇。
でも、家族みんながそこにいて、口々に私を呼んで、それで、みんなが私を心配していて………
どうしてだか、私はそれが、あの頃の出来事だと認識していた。
私が音弥の留学を知り、心から祝福できずに、ついには倒れてしまったあの頃のことだと。




