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天乃、南…………?
「南って、苗字じゃなかったんですか?」
私は急いでるのも忘れて、つい尋ねていた。
「あら、ひょっとして、芽衣ちゃんずっと南先生って苗字だと思ってたの?」
「でも私だって最初はそう思ってましたよ?」
若いスタッフが私の味方をしてくれるけれど、誰だってそう思うだろう。
すると先輩の方のスタッフも「ま、それもそうだとは思うんだけど…」と、何やら物知り顔をのぞかせた。
「実はね、ここが開院した時って、南先生以外にも天乃さんが何人もいたのよ。皆さん南先生のご親戚だったんだけどね。それで呼び分けするために下の名前で呼ぶことになったわけ。今はもう他に天乃さんはいないんだけど、 ”天乃先生” って呼ぶより ”南先生” の方が柔らかくて、当時の患者さんからもそっちの方がいいって評判だったから、そのままの呼び方になってるのよ」
――――――――はじめまして。南です。西島 芽衣さん、これからよろしくね。
スタッフの説明を聞きながら、私は南先生との初対面を思い出していた。
すると、
「―――――っ!」
急に、頭を締め付けるような、鋭利な刃物で刺されるような、激しく揺さぶられるような、強烈な痛みが走った。
次いで、キ――――――ン、と金属を叩くような音と耳鳴りが混ざってくる。
どれもが不快この上なかった。
「芽衣ちゃん、どうかした?」
「あ………いえ……」
大丈夫です、という返事を口にする手前で、奥の診察室から人の気配が聞こえてきて、私はとっさに頭痛と耳鳴りを振り払った。
まずい。
彼らと顔を合わせるのはどうしても避けたい。
私は慌てて「それじゃ、私はこれで。あの、本当に私が来たこと、内緒にしておいてくださいね」と告げると、スタッフの返事も確認せずにクリニックを飛び出したのだった。
◇
予定よりもかなり早く帰宅した私に、彼らは一様に心配そうな顔をした。
どうやら私の顔色が相当優れなかったらしい。
私は大丈夫だと答え、夕飯の支度までは部屋で休むと伝えた。
こう言っておけば、彼らは無断で私の部屋に近寄ってこないはずだから。
とにかく一人になる時間が必要だった。
考えを整理するためにも、心をなだめるためにも。
南先生、天乃くん、天乃 流星、原屋敷さん……
彼らが私とかかわったのは、偶然じゃなかったのだろうか。
いやでも、私が南先生のカウンセリングを受けるようになったのは、両親の勧めがあったからだ。
その両親は別の医師から紹介状を書いてもらったと話していた。
でも………
正直、そのあたりの出来事についてはほとんど記憶がないので、後々家族や南先生から教えられた情報ばかりだったのだ。
音弥の留学が決まって、母親が大喜びして自慢する毎日が続いて、私の心が疲弊していって、それで、とうとう…………その先は、クリアな記憶としては何一つ残っていなかった。
ただ、音弥が真っ先に私の異変を察してくれたことは覚えている。
後から気付いたことではあるけれど、私が倒れる少し前から、音弥が家でピアノをあまり弾かなくなったり、音楽そのものの話をしなくなっていたということも。
つまり音弥は、私が倒れるよりもずっと前から私の変化の兆しを見抜き、警戒していたわけだ。
ひょっとしたら、音弥が寮のある高校を選んだのだって、私のことが原因のひとつになったのかもしれない。
そして私は、そうやって知らず知らずのうちに音弥に気を遣わせて、傷付けていたのだろうかと、ようやく自分の愚かさを悟るのだ。
自分の成功を祝福してくれない姉なんて、音弥は本心ではどう思っていたのだろう。
今なら当時の自分を心から悔いて申し訳なく思えるし、昨日も久々に会えた音弥に言葉では謝ることもできたけれど、私自身のその頃の記憶が曖昧なままでは、どんな言葉を紡いだところで上滑りになってしまいそうで……
できることなら、あの当時のことを思い出すべきなのだろう。
忘れたままでは、根本的な快復は望めないから。
でも、思い出した後の自分自身がどうなるのか、それが想像つかなくて、怖い。
最近ではもうだいぶ改善してると余裕さえ持っていたけれど、今日久しぶりの過呼吸が起こって、その自信が容易く揺らいでしまう。
それでも……、今は、対処方法も会得していて、症状についても、理解している。
自分の心や……体の状態を、何も…知らなかったあの頃とは、雲泥の差……なのだ。
だから、思い出して……みるのも、ひとつの……手段の、ようには……思えた。
そして、そのため………には、どうして……も、南先生………の、助けが……必要、なのだ……
薬だって、きっとまだ、飲み続け…なけれ……ば…………
だか…ら………もし……先生が………私…を……騙し…て…いた………として……も……………
「―――――――姉さん!」
すぐ近くで、音弥の呼ぶ声がした。
だから私は、ああ、これは夢なんだなと思った。
だって音弥は、今は高校の寮にいるはずだもの。
それに、私の目の前は真っ暗闇だったから。
どれほど目を凝らしても、音弥の姿は見えないのだ。
もしかしたら、これは、私の中に眠るあの頃の記憶の一部なんじゃないだろうか。
私が倒れた後とか、そのあたりの……
そうでないなら、音弥はここまで焦ったりはしないだろう。
こんなに声を荒らげる音弥を、私は知らない。
きっと、ロッカールームで飲んだ薬の影響が残っていて、考えごとをしているうちに眠りに落ちたのだろう。
「――――――姉さん!」
再び呼びかけられる。
だけど私は返事することができなかった。
声を出そうにも、喉がまったく機能してくれなかったのだ。
気管がひしゃげてるような感覚がして、とたんに息苦しくなってくる。
スゥ、ハァ……、スゥ、ハァ……、かろうじて呼吸はできるものの、それはごく浅いもので、体じゅうに十分な空気が行き渡らない。
音弥がすぐそばにいるのに。
私はここだと報せることさえもできない。
心配かけたくないのに。
今なら、音弥の留学も成功も、ピアニストとして有望な未来も全部全部、心から祝福できるのに。
なのにどうして声が出ないの?
音弥に伝えたいこと伝えたかったことがいくつもあるのに。
ちゃんと謝りたいのに!
声を出そうとすればするほどに、行先を失った感情や言葉達が私の内側に逆戻りして溜まっていって、どんどんどんどん膨れ上がっていく。
それはすぐに熱を帯びて、これまでに私が培ってきた心の平安まで溶かしてしまいそうで。
どうしたらいいの?
真っ暗な闇でさえも救いを求めて手を伸ばさずにいられなくなったそのとき、
――――――――カチャン
何かの音が、闇全体に響き渡ったのだった。




