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でもよく考えてみて。
おそらく天乃くんは南先生と何らかの関係がある。
少なくとも顔見知り程度以上には。
そして原屋敷さんは天乃くんの幼馴染だ。
だったら、原屋敷さんと南先生も繋がりがあったとしても不思議はないはず。
………じゃあ、はじめから三人、いやもしかしたら天乃 流星も含めて四人は、知り合いだったの?
互いに知った上で、私に接触していたということ………?
原屋敷さんの姿が完全にクリニックの中に消えていっても、私はしばらくは身動きできなかった。
南先生と天乃くん達が知り合いだったことと、私が南先生の患者だったという事実が、本当にただの偶然………その可能性がないわけではない。
大学のロッカールームで、原屋敷さんは後からやって来た友人達に対し、これから仕事があるのだと告げていたから、もしかしたらこのクリニックでバイトでもしているのかもしれない。
もちろん、原屋敷さんがこのクリニックに通う患者という可能性だってじゅうぶん有り得るだろう。
でも心と頭の片隅では、そんな偶然あるわけないじゃないと諦めている私もいて。
真相を得るためには、この止まってる足をクリニックに向けて動かさなければ
ならないのに。
―――――世の中には、そうやって、知らない方がいいことだってあるのよ。
ふと、私が軍服マントに告げた言葉が脳裏をかすめた。
でもそれは、まさしく今の私に当てはまる言葉だった。
ロッカーに忘れてきた薬なら、今から大学に戻ればいいだけの話だし、天乃くんももう大学では表立っては接してこないと言ってくれた。
この先、もう私が天乃従兄弟や原屋敷さんに関わる機会は少なくなっていくだろう。
それなら、今クリニックに乗り込む必要はなさそうにも思える。
知らないで済むことなら、知らないままでいいこともあるのだから。
だけど………
―――――誤解したままだとしたら、もったいないから。時間も、気持ちも。
昨日の別れ際、音弥が残していったセリフが、穏やかに流れ込んできたのだ。
実際、母に確かめた真相は、私が長い間抱えていた切ない気持ちを溶かしてくれた。
誤解だったのだ。
………よし、行ってみよう。また私の勝手な誤解かもしれないのだから。
躊躇いを捨てた私はもう隠れるのをやめて、クリニックを訪ねることにしたのだった。
ガラス扉を開く段階で中の様子をうかがうと、原屋敷さんの姿はそこにはなかった。
心療内科という性質から完全予約制なので、待合に患者の姿はなかった。
奥には人目を避けたい患者のために仕切りで囲われた半個室のようなスペースもあるので、そちらにいるのなら把握はできないだろうけど、なんとなく、原屋敷さんは患者ではなく、南先生に個人的に会いに来たような気がしていた。
これは直感としか言いようがないけれど。
このクリニックでバイトしてるという線はまだ生きているものの、もしそうなら、私が通院してるこの数か月で何らかの接点が生まれるようにも思えたからだ。
「こんにち…………あら、芽衣ちゃん?」
私を知る受付スタッフが、小首を傾げて不思議そうに出迎えてくれる。
無理もない。私の予約なんて入ってないのだから。
「こんにちは。あの………ちょっと、お薬を学校に忘れてきてしまって……」
ストレートに口実を伝えると、スタッフの女性は「あら大変。すぐ南先生に訊いてみるわね」と親切な反応をくれた。
けれど直後、「あ、でも今はだめだわ」と内線電話に伸ばしかけ手を引いてしまう。
「ごめんなさい、今は来客中で、連絡するのをとめられてるの。しばらく待っててもらえるかしら?」
来客とは、原屋敷さんのことだろうか?
ひょっとしたら、天乃くんもまだ一緒にいるのかもしれない。
私は正直に薬の件を話してしまったことを悔いた。
出来るならば、天乃くんや原屋敷さんには、私の来院を知られたくないと思ってしまったのだ。
「あ、いえ……お客様がいらしてるなら、私は大丈夫です。学校に取りに戻ればいいだけですので……」
「あらそう?でもせっかく来てもらったんだから…」
女性スタッフは何かを申し出てくれそうだったけれど、話の途中で受付の電話が鳴り出した。
わずかにスッタフの意識が電話に逸れるのを見た私は、「どうぞ、出てください」と手のひらで促してみせた。
するとスタッフは「ごめんなさいね」と言って受話器を取る。
私は、これ幸いと院内を見まわした。
特に変わった様子は見て取れず、私のよく知る受付に待合だ。
電話は患者からだったらしく、何やら長引きそうな雰囲気だった。
だったら………
一計した私は、電話中のスタッフに小声で「ちょっとお手洗いに行ってきます」と伝え、スタッフが片手でOKを作ったので、いそいそとトイレの方に向かった。
受付からトイレに行く途中に診察室があるからだ。
そこで中の様子が漏れ聞こえないか探るつもりだった。
すると、本当に嘘のようにぴったりのタイミングで、診察室から話し声が聞こえてきたのである。
「でもそれは兄貴の問題だろう?」
それは、天乃くんの声だった。
診察室の中にどれだけの人数がいるのかわからないし、会話の流れも明確ではない以上推測しかできないけれど、天乃くんが言った ”兄貴” というのは、ひょっとして南先生のことなのだろうか………?
いやでも、苗字が違う。
でも、この世の中には苗字の違う兄弟なんていくらでも………
けれど、私が扉の外で考えを巡らせる必要はなかったようだ。
その答えは、当の本人の口から聞かれたのだから。
「俺の問題ということは、お前の問題でもあるだろう?」
そう言ったのは、確かに南先生だった。
自分のことを ”俺” と呼ぶ南先生ははじめてで、私はわずかばかりに怯んでしまう。
この人は、本当に私の主治医の、あの穏やかで、優しい笑顔がトレードマークの南先生なのだろうか………と。
だって扉の向こうで天乃くんと話している南先生の声は、そこはかとなく威圧的で、私がよく知ってる南先生とはまったく違ってるのだ。
もちろん身内に対する気安さだと思えば、少しは納得できるのかもしれない。
でも今壁の向こうで繰り広げられている会話の雰囲気は、兄弟というよりも、むしろ………
「どちらの問題だったとしても、このままでいいわけありませんよね?」
南先生と天乃くんの間に割って入ってきたのは、原屋敷さんだった。
やっぱり彼女は患者ではなく、南先生の個人的な知り合いだったようだ。
南先生と天乃くんが兄弟だったのだとしたら、天乃くんの幼馴染である原屋敷さんは南先生とも昔からの親しい関係だと考えるべきだろうか。
それでも、南先生に対する原屋敷さんの態度は一線引いてるというか、どこか他人行儀にも聞こえた。
敬語は敬語でも、単に年長者だからとか、そんな形ばかりの敬語ではなくて、その中にははっきりとした立場の違いが滲み出ているように感じたのだ。
そのせいか、だいたい一言二言あればその人達の関係性やポジションが見えてきそうなものなのに、彼らの場合はまったく読み解けなかった。
「このままにしておくとは誰も言ってない」
ピシャリと、冷えた一言が原屋敷さんに放たれた。
彼女がビクリと息を呑んだのが、壁越しでもしっかり伝わってくるようだった。
「…………それなら、西島さんのことはどうなさるつもりですか?」
前触れもなく登場した自分の名前に、今度は私が大いにビクリと震えた。
やはり彼らの共通点は、”私” だったのだ。
でも、どうして……?
恐る恐る、全神経を扉の向こうに集中させる。
ここにきてもまだ私は、真相解明を求めていた。
「彼女のことをどうしてきみが気にするんだい?彼女は俺の大切な患者だ。俺が責任持って対応してるつもりだが?それともきみは、俺の今の対応じゃ不足だとでも言いたいのかい?」
氷点下にまで下がりに下がった物言いに、原屋敷さんは凍えたように口を噤んでしまう。
けれど天乃くんは臆することはなく、原屋敷さんの代わりに南先生に反論したのだ。
「西島さんを騙してることにはどう責任取るつもりなんだよ」
そのひと言に、私は心の底から後悔した。
ああ、これは ”誤解” ではなく、 ”知らない方がいいこと” だったのか………と。




