7
…………ここは?
夢に追い立てられるようにして現実に引き戻された私は、咄嗟には状況を把握できなかった。
ただ、こんなに荒い息遣いを不審がられてやしないかと、慌てて首をまわした。
すると、ここがよく見知ったターミナル駅だということがわかった。
膝に乗せたバッグのポケットでは、虚しくスマホがアラームの振動を続けている。
どうやら私は、アラームが鳴っていることすら気付けぬほどに深い眠りの中を彷徨っていたらしい。
家に戻るための乗換駅は、とっくに過ぎていた。
この電車はここで折り返し運転となるはずで、私はほぼ無人の扉が開け放たれた電車に一人残されていたのだ。
間もなく、奥の車両から誰かがこちらに近付いてきてる気配がした。
おそらくは、折り返し運転前の車両確認をしている車掌だろう。
私は大急ぎで立ち上がり、逃げるように駅に降りた。
平日のこの時間でもかなりの乗降者数だったけれど、私のよろよろとした足取りでも近くにあったベンチに辿り着けた。
くるりと身を回転させ、腰をおろす。
ようやく、一息付けた気がした。
…………さっきのは、全部、私の夢の中の出来事だ。だから大丈夫。
よみがえった恐怖心も、不安感も、全部全部夢の中の幻なんだから。
フゥ………と長めの息を吐き出して、心地を整えると、悪夢の残り香はだいぶ薄まっていった。
もう少し休んでいた方がいいだろうか、そんなことを考えながらぼんやりと周囲の風景を眺める。
このターミナル駅は普段の通学では利用しないものの、クリニックの最寄り駅なので私は月に何度かは立ち寄っていて、非常に馴染みのある駅だった。
そういえば、この時間はもう午後の診察がはじまってるはずだけど、まだ南先生と天乃くんは一緒にいるのかな………
…………ちょっと、行ってみようか。
ふと、ほとんど衝動的にそう思っていた。
でもすぐに却下する。
だって、なんだかこの件に関してはあまり知らない方がいいような予感もしていたのだ。
さっき私が過呼吸になったきっかけは、天乃くんの電話越しに南先生の声が聞こえたからだった。
二人が知り合いであることを二人は私に隠していた、そう察したとたん、得も言われぬ負の感情が流れ込んできたのである。
それは、明確な疎外感だった。
別に二人が知り合いだろうと、私には関係ない話なのに。
でも家族の中で自分一人だけ浮いてる感覚だった私への刺激としては、充分だったのかもしれない。
それでも、二人の関係が明らかになったところで、私が南先生のクリニックに通うのをやめるわけにはいかないだろう。
たった一晩薬を飲まなかっただけでこの有り様なんだから。
………でももし、天乃くんが私に声をかけてきたのが南先生と関係していたら?
南先生が私のことを天乃くんに教えていた?
だとしたら、天乃 流星の豹変にも南先生が関わってるの?
………いや、そんなまさか。そんなわけない。
あの南先生が患者の個人情報を勝手に漏らすとは思えないもの。
南先生はそんな人じゃない。
じゃあ、どういうことなんだろう?どうして天乃くんは南先生と一緒にいたの…………?
呼吸が規則正しくなってくると、引き替えに疑問が膨らんでくる。
すると絶妙のタイミングで、私は薬を入れていたポーチを大学のロッカーに置いてきてしまったことに気付いたのだった。
しまった………
今夜の分もポーチの中だ。
私が今こんな状態になってしまってるのは、おそらく昨夜の薬の飲み忘れも大きく響いてるはずで、なのに今夜も…なんて、あり得ない。
幸い、この駅からクリニックは歩いてすぐの距離で、今は診療時間内。
予約はしていないとはいえ、私が南先生のクリニックを訪れるのにこれ以上の口実はないだろう。
そこまで考えると、もう体が勝手に動いていた。
薬を忘れてきたことは大問題に違いないけれど、それと同等、いやそれ以上の割合で、私は南先生と天乃くんの関係性への回答を知りたかったのだ。
大義名分、正当な口実があるのはこの上ない後押しとなって、私の足を速めた。
でも不思議と、心は凪いでいた。
ロッカールームで過呼吸になったのは、確かに天乃くんと南先生のことがきっかけだったのに、その答え合わせに向かってる今は、胸がざわめくこともなかったのだ。
薬を飲んだおかげかもしれないし、真相を知りたい、その思いが強まっていたせいかもしれない。
ともかく、これが嵐の前の静けさでないことを祈りつつ、改札を抜けて表通りから右に曲がり、一本奥に入った。
駅前でありながらも表通りとは違い人通りが少ないそこは、心療内科のクリニックとしては100点満点の立地なのだろう。
誰かに出入りを見られることもないのだから。
ただし、その分静かな通りにタクシーが入ってくると余計に目立ってしまう。
私が入っていった角とは反対の向こう側から、客を乗せたタクシーが減速してこちらに向かってきたのである。
そしてそのまま、南先生のクリニックの前で停止した。
―――――っ?
クリニックにタクシーで乗り付ける人を見たことがなかった私は、珍しいなと思いつつも、降車の邪魔にならないよう、手前で足を止めた。
けれど、
―――――っ!?
中から降りてきた人物を認めたとたん、思わず、手近な店の看板に身を隠してしまう。
なぜなら、それは私のよく知る女性だったからだ。
「……………原屋敷、さん?」
のどがカラカラに干上がったように、掠れ声しか出てこなかった。
さっき大学のロッカールームで遭遇した原屋敷さんが、まったく同じ格好のまま、私よりも先に目の前に現れたのだから。
でも、どうして………?
私は身を潜めながら原屋敷さんの様子をうかがった。
彼女はタクシーを降りたあと、まっすぐ正面のクリニックに入っていった。
そこにある建物が何なのかを確かめるような素振りはなく、まるで慣れきった態度で。
つまり原屋敷さんは、そこが南先生のクリニックであると把握しており、タクシーで乗り付けるほどの目的の場所でもあったわけだ。
そして、すでに何度も訪れたことがある……………じゃあ、原屋敷さんも南先生と知り合いだったの?
湧き上がった疑惑は、凪いでいた感情の水面に波紋を描こうとしていた。




