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原さん―――――最近よく聞く名前で、どこにでもありそうなのに私のまわりには一人もいなかった名前。
だから思わず足を止めてしまったけれど、振り向いた先では数人の女子学生が原屋敷さんに楽しげに話しかけているところで。
「原さん、もう帰るの?」
「あー……うん、ちょっと急な仕事が入ったから」
「大変だね、モデルさんも」
「私も原ちゃんくらい可愛かったらモデルしてみたかったなあ」
………ああ、そうよね。原屋敷さんだから、原さん、原ちゃん……そう呼ばれても全然おかしくはない。
どうしてすぐに気付かなかったんだろう?
どうやら私は、自分で思ってる以上に神経が細かくなってしまってるようだた。
でもしょうがないじゃない。
だって今の今まで過呼吸の発作が起こっていて、まだ完全には治まってないんだし……
だいたい、原屋敷さんが彼らの話題に出てくる ”原さん” なわけないんだから。
気にし過ぎよ。
そう思い直した私は、すっと彼女達から目を逸らした。
また原屋敷さんに捕まる前にさっさと行ってしまおう。
弾む声でモデル仕事の内情をあれこれ質問している女子学生達を尻目に、私は足早にロッカールームを後にしたのだった。
どうにか駅まで辿り着いた私が体の異変を感じたのは、電車がホームに滑り込んできたときだった。
スウ―――ッと、頭のてっぺんから魂を吸い抜かれるような感覚に襲われたのだ。
でも慌てることはない、この症状は毎晩薬を飲んだあと、私の身に起こってることでもあるのだから。
幸い過呼吸の方は落ち着いたし、あとは乗り換えで降り損ねないように適当なアラームをスマホでセットしておけば大丈夫に思えた。
私は焦ることなく、座席に腰を下ろすと意識を保っていられるうちにスマホを操作した。
そうしてる間にも、フワフワと、意識の浮遊がはじまっていく。
いつもはベッドで横になってるときに起こるもので、眠りの中に落ちていく予兆とでも言えばいいのだろうか、下に下に、意識が沈み込んでいくような………だめだ、もう、限界…………
意識を手放した私の目の前に広がったのは、真っ暗な闇だった。
黒をさらに黒く塗り潰したような、ほんのかすかな光さえ瞬殺してしまうような闇の中に私はいた。
ここは、どこなんだろう………?
前も後ろも、上も下も左も右も分からぬ中で、ひたひたと冷えた空気が体を覆っていく。
かろうじて自分が立っている姿勢なのは理解できたものの、何もしていないのにふらふらと目がまわってしまう。
私はこれ以上目で情報を探るのは諦めることにした。
視覚を奪われてしまえば、次に頼るのは耳だろう。
だけど音は皆無。
まったくの無音だった。
にもかかわらず、ずしん、と重たい圧が私の体目がけて落ちてくる気配は感じ取ったのだ。
苦しい……、寒い……、辛い………
腹の中に黒い石がちょっとずつ、ちょっとずつ溜まっていくようだった。
ひとりぼっち、誰もいない、誰も見えない………
どちらに行けばいいのか、そもそも進んでいいものかもわからない。
身動きひとつ取れず、誰かに救いを求めていいのか、声に出して助けを求めていいのかさえも判断できなくて。
途方もない孤独感に気持ちを攫われそうになったときだった。
突然、
「――――――姉さん?」
音弥が私を呼ぶ声がしたのだ。
と同時に、明るい光がパアッ…と私を照らした。
ほんの短い瞬間だったけれど、確かにその光は私を、私のまわりに明るさを与えたのだ。
そのおかげで、私はやっと知ることができた。
私のそばにあったのは、暗闇だけではないということを。
何も見えない、何も聞こえない…………でも、ちゃんと私のそばには、音弥をはじめ文哉にお父さん、お母さん、家族みんながいてくれたのだ。
「姉さん………」
音弥が心配そうにもう一度呼んだ。
今度は眩い光に照らされることはなかったけれど、すぐそばにいる音弥の顔は、暗闇の中でもはっきり見ることができた。
…………大丈夫。私は、もう大丈夫。私を包んでいた闇は、もうこんなに薄まっているのだから。
自分自身に思い知らせるように繰り返していると、またもや音弥が私の名前を口にした。
けれどさっきとは違って、その様子は明らかに慌てふためいていたのだ。
「――――――姉さん!」
音弥にしては珍しく、ほとんど叫び声だった。
でもだからこそ、私は記憶の底に沈殿させていた出来事を浮上させることができたのかもしれない。
………そうだ、間違いない。
この慌て方は、私がはじめて倒れたときの音弥だ。
あの日、音弥の留学が決まって以来昼夜なく喜んでいた母が、たまたま我が家を訪問していた仕事関係の数名に声高に自慢していたのを聞いたのだ。
いや、それはいい。母が音弥のことを自慢するのなんて日常茶飯事だったのだから。
問題は、私がそんな母の反応を、疎ましく思ってしまったことだった。
はじめの頃は、傷付いたとか、自尊心が疼くとか、せいぜいその程度だったはずだ。
でもそれは疎外感を育み、劣等感をおおいに成長させてしまった。
やがて少しずつ、少しずつ積み上がっていった痛みは、とうとう私の心の限界を超えて、破裂した。
結果、過呼吸を引き起こし、私から意識を奪い、その後の記憶を曖昧に濁した。
数センチ先も見渡せないほどの、濃い霧で私の記憶は囲まれたのだ。
それは自分の心を守るための防衛反応だったらしい。
でも今日は、どうしてだかあの当時のことが断片的に、ぼんやりと浮かんでくるのだ。
来客に音弥の自慢を続ける母、
喉が焼けるような息苦しさ、
来客が帰った後の片付け、
ガクガク震え出す手足、
ちょうど寮から帰省してきた音弥の「ただいま」、
それから「――――姉さん!」という心配そうな顔と叫び声………
記憶はまだまだ続く。
家族がばたばた動きまわる気配、
救急車のサイレン、
救急隊員の男性の大声、
担架の上で揺れる体、
白衣、
点滴、
悲しそうな両親の顔、
南先生の自己紹介、
そして全編通して常に私を支配していた莫大な不安と恐怖………
どうしよう、どうしよう…………
みんなに知られてしまう。
私が、弟の成功も祝福できない冷たい人間だということが、ばれてしまう………
嫌だ、入院なんて絶対にしたくない!
だって私がいなくなったら家のことは誰がするの?
やめて!
私から存在価値を奪わないで!
だって私が家にいなくても家族が普通に過ごせてしまったら、私が家族と一緒にいる理由がなくなってしまうじゃない!
盗らないで!
私から家族を取らないで!
盗らないで!
盗らないで!
盗らないで!!
もっと家のこと頑張るから!
睡眠時間だって惜しくないから!
だってそうじゃないと、私、いったい何のために生まれてきたの?
家族のために役にも立たないなんて、そんな私なんて、私なんて…………っ!
「――――――っ!!」
バッと目を覚ました私は、ハァハァハァと息を刻み、体じゅうを汗で湿らせていた。




