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あれは間違いなく、南先生の声だった。
私が聞き誤ることなんてあり得ない。
でも…………この世の中には、そっくりな声の持ち主もいるのかもしれないし……
淡い可能性を浮かべてみるも、
アレグロ、ヴィヴァーチェ、プレスト………
呼吸の速度は上がっていく一方で。
混乱の最中にあっても真っ先に頭に浮かぶのは音楽用語なんて、我ながら因縁めいたものを感じてしまう。
でも今はそんなこと考えてる場合じゃない。
だめだ、このままじゃ………
ハァハァハァハァハァ……と体全体を揺さぶる息づかいに意識も遠退きかかったとき、ふと、昨夜薬を飲み忘れたせいでこんなことになってるのだろうかと後悔した。
同時に、今朝、いつもは持ち歩いてない薬を念のためポーチに入れてきたことも思い出したのだ。
「…………そうだ……薬………」
目を開くのも精々な状況で、私は意識を振り絞って体を起こした。
幸いバッグはすぐ脇にあったので、痺れながら震える手でポーチを探った。
中から一錠ずつカットしてある薬を取り出し、常にバッグに忍ばせているペットボトルの水とともに喉に流し入れた。
…………これで、少しは、楽に…………
そう祈るばかりだったけれど、この薬はよく眠るための薬であって、服薬後は車の運転などを禁止されている。
つまり、私は、このあと、いつ眠ってもおかしくない状態になるわけで…………
午後からの講義は欠席すべきだろう。
自分で蒔いた種なんだから仕方ない、私はそう諦めながら、水をもう一度口に含んだ。
でも、ただでさえ気を遣ってくれてる友人達にこれ以上の心配はかけたくないから、彼女達には帰りの電車でメッセージを送ることにしよう。
今のこんな姿を見せたら、家まで送るとか言い出しかねないから……
そんな段取りを組み立てつつも、私は、この後のことを考えられるほどには気持ちも呼吸も脈拍も徐々に冷静を取り戻しつつあるのだと、心からホッとした。
けれど、ガチャガチャガチャと、ロッカールームの扉を開く音が聞こえ、ほとんど反射的に飛び起きたのだった。
だいぶ落ち着いてはきたけれど、まだ人と顔を合わせられる状況じゃない。
どうしよう………
焦った私は、ひとまず自分のロッカーを開いてその陰に隠れることにした。
荷物を漁ってるふりをしていれば怪しまれないだろう。
ここは年間契約してる一部の学生しか利用してないし、昼休みで用事があったとしても、それが済めばすぐに帰っていくはずだからと、私はロッカーの扉を盾にできたことに安堵していた。
ところが、
「あれ……………西島さん?」
私の精いっぱいの防御をあっけなく掻い潜られてしまったのだ。
そしてその声は、おそらく今私の中で会いたくない人物TOP5に入るであろう、原屋敷さんだった。
私がこうなってる引き金になった天乃くんの幼馴染で、いつも彼らのことで突っかかってくる原屋敷さん。
きっと今朝の出来事もすでに彼女の耳には入っているのだろう。
このロッカールームは学部問わず誰でも契約できるので、原屋敷さんが来たとしてもおかしくはない。でも、今までは一度だって遭遇しなかったのに……
さっきとは別の意味で息苦しさが増してくるようだ。
私はまだ整いきれていない呼吸を誤魔化すように、手にしていたポーチを棚に押し込み、ガシャン!とロッカーの扉を閉めた。
硬質の大きな音が、私の乱れた息遣いをカモフラージュしてくれることを願って。
「あ………原屋敷、さん」
こちらの様子を悟られぬよう短めの深呼吸をしてから、さもたった今気付いたように普段通りを心がけて応じた。
ところが。
「ちょっと大丈夫?めちゃくちゃ顔色悪いけど」
原屋敷さんは私の顔を見るなり慌てて駆け寄ってきたのだ。
私はとっさに顔を逸らした。
「大丈夫よ。ちょっと貧血っぽいから、今日はこれで帰ろうかなと思って……」
「そうなの?あ、もしかして今朝流星が言ったことと関係してたりする?」
身内口調で尋ねてくる原屋敷さんに、やっぱり今朝の情報は彼女間で届いていたのかと納得した。
「そんなことないけど……」
ここで ”大丈夫” とにっこりと微笑み返せたらよかったのだろうけど、残念ながらそこまでの余力はなかった。
それに、実際のところは私の顔色の原因は天乃くんなのだから、綺麗に嘘を吐き通すだけの度胸も私は持ち合わせていなかったのだ。
すると原屋敷さんは思わぬ反応を見せてきた。
「それならいいんだけど………。でもちょうどよかった。ねえ、西島さん。流星のことなんだけどね……」
彼女が天乃 北斗ではなく流星の方を先に話題にするなんて珍しい。
しかも、これまでになく控えめな態度というか、しおらしい温度で。
けれど天乃従兄弟への不信感を高めていた私は、原屋敷さんの何か含みを持たせてるような発言にも渾身で警戒した。
ドクドクと、過呼吸とは似て異なる鼓動の速さを感じながら、彼女の話を聞くか否かを逡巡する。
………だめだ、これ以上は完全にキャパオーバーだ。
薬だって飲んでるし、もうそろそろ効いてくるだろう。
そんな状態で原屋敷さんの話をきちんと頭に入れられるかも定かではない。
だったら、私のとるべき選択は一つだった。
「………ごめんなさい、今、ちょっと…」
時間がないから、そう断ろうとしたそのとき、賑やかな話し声とともにガチャガチャッとロッカールームの扉が無遠慮に開かれたのだった。
その無闇に大きな音に思わずビクッと体が震えた。
けれどそのおかげで、原屋敷さんの注意もそちらに流れてくれたので、その隙に私は大急ぎでロッカーの鍵をまわし、「じゃあ、私、もう行くね」とその場から離れることに成功した。
「あ、ちょっと!」
原屋敷さんは私を呼び止めようとしたけれど、入れ違いでガヤガヤとロッカールームに入り込んできた学生達の声にかき消されてしまう。
私がそのままロッカールームから出て行くのは、容易いことだった。
なのに。
学生の一人が、「あ、原さんだ。お疲れー」と親しげに声かけるのを聞いてしまったのだ。




