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「ごちそうさまでした。おいしかったよ」
「ごちそうさまでした!」
私が食事を終えると、置いていかれると焦ったのか文哉も大慌てで最後のひと口を飲み込み、両手をパンと合わせた。
「文哉、そんなに急がなくていいんだよ?」
「ううん、僕もごちそうさまだから!ねえ芽衣ちゃん、僕、また庭で遊んできてもいい?」
「いいけど、絶対に庭の外に出ちゃだめだからね?」
「うん、わかった!じゃあ行ってきます」
返事するや否や、文哉はダイニングチェアを飛び降りて裏庭に駆け出した。
そんなに文哉の興味を煽るものがあるのだろうか?
まあ、あの年頃の子供の好奇心なんて日によって変わってしまうのだろうけど。
でも不思議に感じたのは私だけではなかったようだ。
「珍しいわね。あの文哉が本を読みたいじゃなく、外に行きたいなんて。裏庭に何があるの?」
母が私と文哉の食器を片付けながら訊いてくる。
「わかんない。でも、さっき居間にいるときに何かの葉っぱが風に吹かれて入ってきたらしくて、それがどの木なのか調べてたみたいだけどね」
「あらそうなの?じゃあ、庭の植木や植物に興味を持ったのかもしれないわね。あの子は知識欲の塊だから」
納得と感心を混ぜたように頷いた母は、キッチンに立って下げた食器を洗いはじめた。
「ああ、置いといてくれたら私が洗うよ?」
「いいのいいの。今日くらいは芽衣も家事から離れて、引っ越し作業頑張ってもらわなきゃ。ま、私がパパッと作れるのは冷凍チャーハンくらいだけど」
「でも、お母さんだってまだ引っ越しの片付け残ってるんでしょ?」
「私の分は大体終わったわ」
「そうなの?じゃあお父さんの……そういえば、お父さんってばお昼も食べないで仕事部屋にこもっちゃったわけ?」
「みたいね。いつものことだわ。食べてくれないと片付けられないのは困っちゃうけど」
「だったら、せっかく食洗機付けたんだし、お父さんが食べたあとでまとめて食洗機で洗っちゃえばいいんじゃない?」
「だめよ。だって、それは芽衣が最初に使うべきでしょう?」
「え?」
「我が家のキッチンは、ほとんど芽衣の仕事場みたいなものでしょう?たまにしか料理しない私なんかが新品の食洗機を先に使うわけにはいかないわよ」
「そ………んなことないと思うけど」
まさか母がそんな風に思ってるなんて露ほども知らず、私は恐縮する気持ちが芽生えてきやた。
ところが、
「そんなことあるわよ。引っ越し作業だってそうだもの。ほとんど芽衣が頑張ってくれてるじゃない?でも芽衣なら全部任せられるから、私もお父さんも引っ越し初日から自分の仕事に取り掛かれるのよね。感謝してるわ」
ごく自然の流れで母にまで仕事宣言されてしまい、にわかに恐縮が消沈する。
「………今、なんて?」
「だから、芽衣なら安心して引っ越しの後片付けも任せられるわって話よ。その感謝を示すためにお昼は私が用意したんだから、洗い物まではちゃんと全うしなくちゃ」
「………まさかとは思うけど、お母さんまで仕事はじめるわけ?引っ越しの片付けを放棄して?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。芽衣に一任するだけなんだから」
「………同じことよね?」
例え冷凍チャーハンだったとしても母が食事を用意してくれるのは久しぶりだったので、私はそこはかとなく嬉しかったのに。
なんだか軽く裏切られたような気分になりかけるも、微塵も悪びれる様子のない母には毒気を抜かれてしまった。
「あら、全然違うわよ。私が言いたいのは、芽衣がいてくれてよかったっていう話よ?」
どこをどう繋げればそんな話になるんだと言い返したくもなるけれど、私は、今自分がここで必要とされていることにホッとして、「しょうがないなあ」と呆れ笑いで母の主張を受け入れることにしたのだった。
「じゃあ、それが終わったら早く仕事部屋に行きなよ。どうせ何かいいメロディが浮かんでるんでしょ?」
「そうなのよ。今それを忘れないように頭で譜面にしてるところなの」
頭の中で譜面を書くなんて私には想像もできないことをさらりと口にする母は、やはり選ばれた才能の持ち主なのだろう。
母は作曲を主な仕事にする前は、演奏家でもあったくらいだから。
「なら、晩御飯は?作業しながらでも食べやすいものにしようか?」
あくまでも夕食は私が担当するという前提だ。
両親が仕事に集中してる期間は、作業を中断せず片手で食べられるようなメニューをよく用意していた。
「そうね、それでお願い。ここに置いてくれてたら各自取りにくるから」
「了解。じゃ、お仕事頑張って」
「ありがとう。……ああ、芽衣?」
「なに?」
他にもまだ頼みがあるのかと母に振り向くと、飛んできたのは意外な言葉だった。
「引っ越しが落ち着いたら、お誕生日しましょうね」
にっこりと目尻に皺を走らせた母に、一瞬、心がふわりと温まった気がした。
だけど両親の忙しさはよく理解しているので、「いいわよ、別に」とそっけない返事になってしまう。
「もう子供じゃないんだし、誕生日は友達とお祝いして楽しかったし、気にしないで」
私の誕生日は5月1日だった。
5月(May)生まれだから、芽衣。
安易な名前も、新緑まぶしい季節にはぴったりの字だと思えば最近はお気に入りにもなってきていた。
でも音弥が高校の寮に入ってからは、家族も揃わなくなったからと、家で誕生日を祝うことは遠慮していたのだ。
「でも、文哉も芽衣ちゃんのお誕生日パーティーしたいって言ってたわよ?」
「……だったら、今度散歩がてら文哉の好きなケーキを買いに行って、二人で食べるわ」
「どうして私とお父さんは仲間外れなのよ」
「それは簡単なことよ。その1、お父さんとお母さん二人が揃ってないと後で不参加だった方が激しく拗ねるから。その2、二人共に締め切りがなくて時間に余裕がある日がまず重ならないこと。よって、家では私の誕生日祝いをしなくてもいいと考えます」
「芽衣ってば、急に大人になっちゃって、なんかつまんないわ」
「はいはい。つまんなくて結構ですから、どうぞお仕事にお励みくださいまし」
恭しい手振りでお辞儀すると、母もクスクス笑ってくれる。
私はその反応に満足し、引っ越しの荷解きに戻ることにした。
「じゃあ片付けに戻るけど、音弥の部屋も私が勝手に片付けちゃっていいんだよね?」
今日引っ越すということは音弥にも伝えているけれど、寮に入って以来ほとんど家には帰ってこない音弥は、当然のごとく本日の引っ越しも欠席だった。
寮の規則で携帯電話の持ち込みは禁じられているので、そうそう頻繁に連絡を取ることもできなかったけれど、さすがに引っ越しの件で寮に電話をかけた母によると、音弥の部屋は勝手に片付けてくれて構わないと本人から許可を得たらしい。
とはいっても、高校生の繊細なお年頃でもあるし、万が一にも姉が見てはいけない物なんかがひょっこり出現したりしたら………と、そこは一応配慮すべきかとも思ったのだ。
だけど母はいたって涼しい顔で。
「いいんじゃない?あの子のことだから、どうせ大して面白い荷物もないだろうし」
「面白い荷物って……」
母の言い草がちょっとおかしかったけれど、そこまで言うのならと、私は一階と自分の部屋が終わったあとは音弥の部屋に取りかかることに決めて、ダイニングを後にした。