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―――――――おい。
遠くで、そう呼びかける声がした。
いや、もしかしたら言葉自体は違っていたかもしれない。
でも例えそれが ”なあ” でも ”ねえ” だったとしても、それはどうでもよかった。
問題は、その声が、私の聞き覚えがある声だったということなのだから。
物心ついた頃からピアノに触れ、演奏の腕前はともかく ”音” に対しては敏感で繊細だと自負している。
だからといって、誰にも聞こえないようなボリュームの囁き声を判別できるとか、そういう耳の良さではないけれど、でも鼓膜に届いた ”音” は、どんなささやかなものでも完璧に何の音か判別できる自信があったのだ。
少なくとも、一度記憶にインプットしたものか否かは瞬時に判定を下せるほどには。
だから今の声の主は…………
《………ごめん、西島さん。せっかく電話貰ったのに申し訳ないけど、俺もう行かなきゃ》
言葉通り、申し訳なさそうに天乃くんが言った。
《でもまだ全然話せてないから、今度、また西島さんの家に伺ってもいいかな?大学だと人目があってちゃんと話せそうにないし》
話せてないというのは確かにその通りだと思った。でも…
《明日とか、予定空いてない?ちょうど雨漏りの修繕工事で午後からの講義はキャンセルになったはずだし。どうかな?……………西島さん?聞こえてる?》
「え、………あ、ごめんなさい。今何て?」
名前を呼ばれて、私はハッと思考のトンネルを抜け出した。
《だから、明日の都合を…》
「あ、ごめんなさい、明日は、………もしかしたらまた弟が帰ってくるかもしれないから」
《弟さんって、この前俺が見かけた弟さん?》
「そうよ……?」
嘘は言ってない。
明日から母がスタジオに入って不在になるとは音弥にも伝えているのだから、ひょっとしたら音弥が昨日みたいにひょっこり家に戻ってくるかもしれない。
音弥と天乃くん、どちらを優先するかなんて考えるまでもないのだから。
それに………天乃くんのこと、もう信用できなくなってしまった。
だって、今さっき後ろで聞こえた声は…………
―――――っ!
突然、激しい痛みが胸と頭を支配した。
私は目の前のベンチに落ちるように座り込み、スマホを持つ手が震え出すのを目撃した。
心臓が全速力で走りだしそうなほどにドクドク叫び、頭の中では大きな鐘が連打されてるような音が鳴り響き、猛烈な吐き気が腹の底から這い上がってきた。
《そうか、それなら仕方ない。でも今度、―――――西島さん?どうかした?》
天乃くんも異変を察したのか、心配げな声に変わった。
「………ううん、なんでもない。あ……じゃ、私ももう行くね。昼休みが終わっちゃうから……」
声が詰まる寸前のところでどうにかとっさに誤魔化した。
姿が見えないおかげもあってか、天乃くんの方も変に疑うことはなかった。
《ああ、貴重な時間をごめん。じゃあ、また。今度は俺の方から電話するよ》
いえもう電話もいいから………そう伝えたかったけれど、今は何よりも早くこの通話を切断したかった。
「うん………じゃあ、切るね」
一方的にそう告げると天乃くんの返事なんか待たずに通話を終了させる。
そしてそのままベンチに体を横たえたのだった。
息を吐いてるのか吸っているのかさえもわからなかった。
手の指先が痺れるように感覚を失っていって、
喉が締め付けられるように苦しくて、
熱いのか寒いのか、冷たいのか痛いのかもハッキリしない。
ハァ…ハァ…ハァ…、ハッ…ハッ…ハッ…、呼吸はどんどん浅く、薄く。
息継ぎが、うまくできない。
そもそもどうやって息をしていたのかも曖昧で、記憶が徐々に濁っていくと、麻酔でも打たれたかのように五感すべてが鈍くなってきた。
私は、このまま死んでしまうんじゃないかと大きな恐怖に襲われた。
まるで、ドス黒い塊が一粒、私の真ん中に落とされて、でもそれはあっという間に私の全部を制御不能の暗闇に引きずり込んだようだった。
そうしてるうちにも息はどこまでも速くなっていって。
そのたびに肩や胸、肋骨が激しく上下するのを見た私は、靄がかっていく頭の中ぎりぎりのところで、この発作の正体を思い出したのだった。
――――――これは、過呼吸だ。
正式名称は忘れたけれど、この尋常じゃない速度の呼吸と手指から血の気が引いていく感覚、そして死をも思い起こさせる大きな不安感には覚えがあったから。
音弥の留学が決まって、母がこの上なく喜んでた頃に、私が何度も経験した症状だった。
はじめは何が何だかわからず、ただただ不安で怖くて、それから、全身で速い呼吸を繰り返す肉体的疲労に困憊する毎日で、一人で途方に暮れていた。
でも、今は違う。
極限まで我慢して我慢して、結局倒れてしまった後、医師からはちゃんと正しい情報を教えられたのだから。
それに南先生からは、然るべき対処方法も伝授してもらった。
だから、私は知っている。
この症状で決して死んだりはしないのだということを。
袋を顔に被せたらいいとか、そういう対処法を持ち出す人もいるだろうけど、それは却って悪化する場合もあるのだということを。
でも、怖がる必要なんてまったくないんだということを。
この症状が出た場合の私にとって最も有効な対処方法は、ただひとつ、”落ち着くこと” だ。
大丈夫、大丈夫……そう自分に言い聞かせて、自分を励まして、慰めて説得して、心に理解させるんだ。
怖がることは何もない。誰も悪くない。私も悪くない。大丈夫。
何度も呪文のように繰り返していくうち、恐怖心や不安感は少しずつ薄れていく。
そうしたら次の段階だ。
今度はせっかちになってる呼吸を、ゆっくり心がけるだけ。
1、2、3、4、5…………私の場合は数字を数えると効果があった。
10まで数えたらまた1からやり直し。
そうやって、だんだんとカウント速度を遅らせていくと、やがて、呪いが解けたようにフッと晴れる瞬間がやってくるはず。
どれも、南先生と一緒に色々試しながら習得していった対処方法だった。
以前なら、この方法で問題なかったのだ。
だけど今日は………
「南、先生………」
治まりかけていた症状が、その名前を口にしたとたんに復活してしまった。
でもそれは、私のせいなんかじゃなくて。
さっき、電話越しの天乃くんの後ろにいたのが、間違いなく南先生その人だったからだ。




