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そのあと、私は泣き疲れたようにいつの間にか眠ってしまった。

かろうじて自分の部屋には戻ったものの、ベッドに倒れ込むようにして深い深い眠りの中に落ちていったのだ。

その途中、遠くの方で彼ら(・・)のおしゃべりが聞こえてくると、それがなんだか子守唄のように心地良かったりした。




『ぐずっ………むっちゃええお母さんやん。アカン、涙が止まらへん』

『ズズッ、ズズ………ワンダフルマザーです………Oh、ティアドロップスが………ズズズズズッ』

『本当にねえ………ピアニストはたくさんいても、母親は世界に一人、運命をくれてありがとうだなんて………なんて素敵な言葉かしら。ねえ、坊やもそう思わない?あら、もしかして涙ぐんでるの?』

『う、うるせえうるせえっ!こっち見るんじゃねえよ!』

『なにも涙を恥じることはない。其方(そなた)が優しい心の持ち主だという証だ。我も、この家族は思いやりに溢れた家族だと思う。我らのそばにある人間がこのような思いやりある家族で、よかった』

『ぐずんっ、ぐずっ………お嬢ちゃん、ほんまによかったなあ……』

『イ…グザク……トリィィィ……ズズズズッ、ズズッ』

『わ、おめえ、鼻水垂らしてんじゃねえぞ!』

『あらあら、大変』

『ほら、其方たち、騒がしくしては眠りを妨げてしまうではないか』

『お嬢ちゃん、幸せそうに眠ってるわ。おやすみ』

『おやずみなざいぃぃぃ………アカン、うちも鼻水が………』

『グッドナイトです……グズンッ』

『とっとと寝やがれ………よく寝るんだぞ』

『其方を傷付けるものはここにはない。安心して休むといい』




5人の声を聞いてるうちに、私は朝を迎えていたのだった。


そして、朝になってから気付いたのだ。

薬を飲み忘れていたことに。


いや、薬がなくても朝までぐっすり眠れたのだから、それは別に問題なかったのかもしれない。

でも、南先生にお世話になってからというもの、この薬を飲み忘れたことは一度もなかった。

つまり、昨夜はじめて、私は薬を飲まなかったのだ。



…………たぶん、大丈夫。………だよね?


夜眠れて、朝も普通に起きられたのだから、何も問題はないはずだ。

なのに、飲み忘れてたと気付いたその瞬間から、しきりに不安が付き纏ってくる。

本当に大丈夫なのか、後々体調に異変が出てこないのか、もしそうなった場合は昼間でもこの薬を飲んだ方がいいのか………


気がかりなことが次から次から浮かんできて、私は朝食の準備も上の空で、文哉に「芽衣ちゃん大丈夫?」と心配されてしまった。

それでも焦げ焦げの目玉焼きを美味しいと頬張ってくれる文哉に何度も謝りつつ、私は気もそぞろ状態で出かける準備をした。

そして万が一のことを考え、念のため、薬袋をポーチに入れたのだった。




薬なしでじゅうぶんな睡眠をとれたことに自信が湧いてきた私は、昨夜のことを思い返しながら大学に向かった。


これまで母が私の名前の由来を正しく知らせなかったのは、父のプロポーズの言葉を夫婦二人だけの胸にしまっておきたかった、というのもあったらしいけれど、”運命” の ”(めい)” だなんて、なんだか安易すぎるし、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、ダサさも感じていたからだという。

でもこれは父も同意していたらしく、作家として今一つ誇れない自分がいたらしい。

だから、私にはもちろん、他の誰にも一切打ち明けていないのだと、母はばつが悪そうに告げた。


…………いや、でも音弥は知ってる風だったけど?

疑問を口にすると、母も不思議そうにしていた。

ただ、私達が物心つく以前だったり、お酒が入った時なんかはついぽろっとこぼしてしまうこともあったから、それをどこかで耳にして記憶していたのかもしれない。でも両親が隠したがってるのを察し、ずっと黙っていたのだろう……そんな分析を披露してくれた。


さすがは音弥だ。

物静かでクールな振りして、さらりとこちらの心情を汲み取ってしまう。

でも余計なお節介なんかはしないのだ。

誰よりも家族思いなくせに、決してそんな風には思わせないところがとても、音弥らしい。


今度会ったときは、音弥のおかげで母と話せたことを報告しよう。

”ありがとう” と伝えたところで、音弥が素直に受け取るとは思わないけど、昨日の後のことはきっと気になってるはずだから。

そうしたら、音弥も嬉しそうに笑ってくれるかな。

無感情無表情というわけではないものの、ピアノ以外、普段の感情表現が極めて薄い弟のことを考えていると、あっという間に大学に着いた。

この春に入学して以来、最も移動時間を短く感じたかもしれない。

そう思って、つい笑みが漏れたときだった。




「おはよう、西島さん」


もうすっかり耳に染み込んだ声が背中から聞こえてきたのだった。


声の主が誰かなんて、今さら確認するまでもない。

私は足を止めないままに顔だけを振り返らせた。


すると昨日ぶりの天乃 北斗 が、いつもとは心なしか距離を保った状態で、とびきり整った顔にはやわらかく微笑みを浮かべていた。

昨日、天乃くんからは挨拶程度の声かけは許してほしいと言われていたので、今朝のこの展開も驚くものではなかった。



「……おはよう、天乃くん」


周りの目があるので昨日の話題は出さなかったけれど、その目は ”昨日は悪かった” と訴えてるようにも感じた。

そして私は、そういえば天乃くんが昨日私の家を訪れた理由をまだ聞いてなかったと思い出したのだ。


大学で一番の有名人である天乃くんは、この今の瞬間もちらちらと学生達の注目を集めている。

そんな中で込み入った話などできるはずもないけれど、私はどうにかして昨日の理由を聞き出せないかと考えを巡らせていた。


けれど上手く会話も運べずに、なんとなく二人で並んで歩き出したところへ、今度はもう一人の天乃くんが登場したのだった。

けれどそれは、いつものように軽やかに私を呼び止めるものではなくて。




「―――――北斗。お前どういうつもりだ?」




天乃 流星の声は、今まで聞いたこともない鋭さで、怒気に満ちたものだったのだ。



私をちらりと一瞥すると、天乃 流星はハッと短く息を吐き捨てた。


「お前が彼女に絡んだ理由がやっとわかったよ」


刺々しく、憎らしいものを語るときのような口調だ。

私は、急速に体の内側から冷えていくのを感じた。



「やめろ。ここで話すことじゃないだろ」


天乃 北斗も負けずと冷えた言葉を打ち返す。

けれど何かに(・・・)怒りの炎を燃やす従兄弟には通用しなかったようだ。

苛立ちを隠そうともせず、天乃 流星は言い放ったのである。



「そんなだから、お前達は甘いって言われるんだよ!」



その瞬間、ギャラリーが足を止めてひそひそ噂をはじめるのがわかった。

まるで怒鳴りつけるようなセリフに、居合わせた全員が驚いていたのだ。



「なになに、兄弟喧嘩?」

「珍しい、あの二人がケンカするなんて…」

「流星くんがあんなに怒るなんて、はじめて見た」

「それを言うなら北斗くんでしょ。いつもクールなのに、明らかに怒ってるじゃん」

「でもさ、一緒にいるあの子は何なの?」

「ああ、最近天乃くん達とよく一緒にいる子じゃない?確か家族が有名人とかで……」

「え?有名人って誰よ?」



小声なのに私の耳にはどんどん噂話が大きく聞こえてきて、その主人公が私にすり替わると、心臓まで冷えてしまいそうになった。

すると、天乃 流星の矛先も急に私に移ったのだ。


「ところで西島さん」

「え……?」


ニヤッと彼の唇の端が持ち上がった。

けれど、それはいつもの人懐こい明るいものではなく、完全に嫌な感じの笑みだった。


「きみ、本当に知らないの?こいつがなんできみの…」

「流星!」



天乃 流星が私に一歩近付くや否や、天乃 北斗の空気を破壊するかのような大声が響き渡った。


私も含めてこの場にいる全員が、ビクリと体を震わせたことだろう。

それほどにその声は絶対的な威圧感を孕んでいたのだ。

そしてもちろん、それは天乃 流星にも言えることで。

名指しで責められた彼は私達以上に体を強張らせたようだった。


天乃 北斗は続けざまに責め立てたりはせず、たった一言だけ、従兄弟を制する言葉を告げた。



「―――――やめろ」



低く低く、だけど遠くにまで届く鐘の音のように轟く声。

まるで支配者のようであり、聞く者すべてを否応なしに服従者にさせてしまうような音色だった。

それは決して大袈裟なんかではなくて。

天乃 流星が唇を締めたことがその証だ。

ついさっきまでの彼はすべてを理解してるような言い草だったのに、今は一言すら発言しないでいるのだから。


その後数秒、天乃従兄弟は睨み合っていた。

やがて天乃 北斗の方が先に「とにかくお前はもう今日は帰れ」と、ため息混じりに言った。


一瞬、天乃 流星は反論するかのように見えた。

けれどすぐ、思い直したように全身の怒気をゆるめた。

ゆるめたけれど………



「俺は認めないからな。お前達キョウダイの甘さは、絶対に認めない!」



乱暴にそう言い捨てて、くるりと背を向けたのである。

途中、かすかに目が合った私へは、まるで毒づくような眼差しを送りながら。


紛れもなく、あからさまな拒否感に満ちた背中が、ギャラリーの中に消えていく。



私は、彼の変貌ぶりが信じられないまま、呆然と立ち尽くすばかりだった。













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