表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/105






その日、母は夜遅くに帰ってきた。

明後日からのスタジオ入りに備えていろいろと忙しいらしい。

母は作曲担当だけど、作って終わり、ではなくて、演奏家やアーティストによってはレコーディング中に即興でアレンジを求められることも多いという。

なので、その期間中、母は大抵スタジオ近くのホテルで寝泊まりしていた。

母のスケジュールで ”スタジオ入り” というのがあると、私はその期間は帰ってこないものという理解でいた。


母が帰宅したとき文哉はとっくに二階で寝ていて、私は夜食用に軽めの雑炊を作って母に出した。

別に口止めされたわけではなかったけれど、疲労感が滲んでいる母を見ると、今日音弥が来たことは話さないでおこうと思った。

だけど、ひとつだけ尋ねたいことはあった。



「……ねえ、お母さん」

「ん………?このお雑炊、出汁が美味しいわね。あ、ごめんごめん、何?」

「あのね、ちょっと訊きたいんだけど………、私の名前って、5月生まれだから5月の英語読みで芽衣ってなったんだよね?」


質問というよりは確認するかたちで問うと、母はパッと手を止めた。


「いきなりどうしたの?」

「いや、なんとなく……。確か、前にそんなこと言われたなと思い出して…」


音弥の名前を出さない方がいいだろうかと、私は曖昧に濁した。

すると母は「そうねえ……」と当時を懐かしむように目を細めた。


「それも、ひとつの理由ね」

「え?じゃあ、他にも理由があるの?」


食い気味に問い質してしまった。

だって、私の中ではそれ(・・)が唯一の名前の由来だったからだ。


母は「うん………」と、しばし考え込むように俯いた。

でもそう時間は置かず、やがて心を決めたように、さっと顔を上げた。



「実はね、大切な思い出だから、私達夫婦二人だけの心にしまっておこうねって言ってたんだけど………」


そう切り出した母は、ほんの少し照れ臭そうに笑った。


「でも、芽衣にはちゃんと知らせた方がよかったわね」

「え、そんな大ごとなの?」


表情とは対照的に母の口ぶりがなんだか想像以上に真剣で、私はたじろぎを覚えた。


「そりゃ大ごとにもなるわよ。だってあなた、自分のせいで私が演奏家の夢を諦めたと思って、ずっと罪悪感を持ってたのでしょう?」

「どうしてそれを……」


さらりと告げられた内容は、私が母に秘し隠していた真実だった。

ただ、それを知る人間が一人だけいたのだ。



「ごめんなさい。南先生から聞いたの」

「………やっぱり」

「お医者様だから守秘義務はあるんだろうけど、この件に関しては私達は保護者として知っておくべきだと言われたのよ。だから、南先生を怒らないでね」

「わかってる。私だってもう子供じゃないんだから」


私の体調不良と家族は、まったくの無関係というわけでもないのだ。

南先生が私の治療内容を私の両親に報告するのは当然だろう。

なのに、母は「あなたは子供よ」と、私の言葉を否定したのだ。



「芽衣は、いつまで経っても私達の子供よ」



そう言うと、母はふわりと柔らかく微笑んだ。


「親にとって、子供はいつまでも子供に変わりないのよ。どんなに大きくなっても我儘言っていいし、自分の気持ちを我慢しなくていいはずなの。なのに………芽衣は、私達のために、子供でいられなかったのね。私達のために、しっかりした ”お姉ちゃん” でいてくれたのよね………ごめんなさい」


母はダイニングチェアに座ったまま、頭を下げた。


「そんなの……謝らないでよ。私が子供っぽくなかったのは別にお母さん達のせいじゃないし………。そりゃまあ、お父さんもお母さんも忙しかったから、我儘言っちゃいけないなとは気を付けてたけど、それは音弥や文哉にだって言えることでしょ?私一人が我慢してきたわけじゃないもの。ただ私は……私が訊きたかったのは私の名前の由来だけで………ねえ、それで、もう一つの私の名前の由来は何なのよ?」


この、どことなく仰々しい空気を払拭したくて、私はわざと軽めに尋ねた。

すると母もすぐに頭を上げた。

その表情にはもう堅苦しさは残ってなかった。



「それはね、プロポーズの言葉だったからよ」

「………はい?」


意味が分からず、つい気の抜けた声が出てしまった。

母はフフッと声を漏らした。


「私達の結婚のきっかけが芽衣を授かったことだっていうのは、もう知ってるわよね?」

「まあ……」


いわゆる、できちゃった結婚だ。

その呼び方にはいろいろな意見もあるだろうけど、私の両親の場合は私のことがなければ当時結婚には至ってなかっただろうから、言葉のニュアンスとしては正しいのかもしれない。

だって、私ができちゃったばかりに、母はピアノを諦めたのだから。

母はまるで私の心情を引き継いだかのように話を続けた。


「ま、できちゃった結婚はできちゃった結婚よ。そこは素直に認めるわ。その頃の私達に明確に結婚の約束があったわけじゃないから。あの頃、私もあの人も仕事が楽しくてしょうがなかった。だからあなたがお腹の中にいるとわかったとき、正直、”嬉しい” よりも ”びっくり” の方が先に感じたわ。でも………なんて言ったらいいのかしら、じわじわと、そうね、じわじわと、幸せを実感していったのよ」


嬉しいよりも先に驚きがあったのは、母の正直な想いだろう。

そして私がそれに傷付いたりしなかったのは、母がそうやって正直に話してくれているからだと思った。


「私はすぐにあの人に報告したわ。不思議と、躊躇いや不安はなかった。だって、私達は結婚の話こそしてなかったけど、お互いにお互いが好きなのは間違いなかったから。どんなに仕事に熱中してても、会えなくても、そう信じていたの。そしたらあの人、私よりもびっくりしちゃって、椅子から転げ落ちちゃったのよ?」

「ああ………なんか想像できそう」


父は、ちょっとそそっかしいところがあるから。


「まあ、そんなところも可愛いんだけどね。で、あの人ったら、椅子に座り直しながら、3分、3分だけ待ってくれって言ったのよ」

「3分?」

「そう。私はカップラーメンじゃないのにね?」

「それで、3分後にどうなったの?」

「プロポーズされたのよ。どうも、3分で一生の思い出になるプロポーズの文句を考えてたみたい」


一応は作家なんだから、それっぽいセリフを言いたかったんですって。

母はそこはかとなく嬉しそうだ。



「……で、そのプロポーズが、私の名前の由来になったわけ?」

「そうなのよ。とっても素敵な言葉だったの。だから、本当は私達の心だけにしまっておきたかったんだけど……」

「大事な思い出を聞き出すようで申し訳ないけど、何て言われたの?」


母は幸せの瞬間を噛み締めるように目を閉じて。



「俺達が出会ったのも、恋したのも、今一緒にいるのも、そしてこの子が来てくれたのも、全部運命なんだ。運命は、命を運ぶんだよ。この子の命も、俺達の命も、大切に運んでいきたい。命がある限り、ずっと………。ねえ、芽衣。あなたは、私達に運命を教えてくれたのよ。ピアニストになるよりも、あなたの母親に、3人で家族になる方が私にはよっぽど大切な運命だと感じたの。本当よ?だってこの世界にピアニストは数えきれないほどいるけれど、あなたの母親は世界でたった一人、私だけなんだもの。だからね、私はあなたのせいでピアニストを諦めたんじゃなくて、あなたのおかげで、母親になれたのよ。芽衣、私達に運命をくれて、ありがとう。そんな運命の子だから、運命の ”メイ” を取って、ちょうど新緑の若葉の季節に生まれたし、漢字も芽吹くという字を充てて、芽衣って…………芽衣、ほらほら、もうそんなに泣かないで?」




私ははじめて聞かされた自分の名前の秘密に、何の種類かわからない涙がとめどなく溢れ続けていたのだった。












評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ