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音弥はどこまでも感情を乗せずに告げた。
だけどそれは、懐かしい思い出話でもなく、ピアノをやめてしまった私を励ます言葉でもなく、ただただ苦しげな、音弥の心の叫びにも聞こえた。
なのに、はじめて聞く話ばかりで信じられなかった私は、「そんな、大袈裟だよ…」と、苦笑いで返してしまった。
だって、まさか音弥が私のピアノをそんな風に思っていたなんて、微塵も想像していなかったのだ。
「それに、私が小1のときの話でしょ?たぶん、好き勝手に弾いてただけだもの」
そんな幼い頃の演奏を今になって言われても、自分がどんな音を鳴らしていたかなんて、さすがに覚えていない。
「たくさんの人を感動させる音弥のピアノとは、全然比べものにならないわよ」
「感動させるだけじゃだめなんだよ、姉さん………」
私のセリフに被さるようにして、音弥は全否定してきた。
それが諦めなのか悲しみなのか、やはり感情の波は漂ってこない。
淡々としているのはいつもの音弥なのに、それが今日はなんだかやけに不安を誘ってきた。
だからこそ私はあえて明るく反論した。
「その感動さえ与えることができない私からしたら、羨ましいかぎりだけど?」
音弥に面と向かって躊躇いなく ”羨ましい” と伝えられたことは、私の中では大きな進展だった。
でも残念ながら、音弥には少しも響いてはくれなかったようで。
「………俺はずっと、姉さんが羨ましかったよ。あんな風に楽しそうにピアノが弾けて、聴いてる人を楽しくさせる姉さんのピアノが、羨ましかった」
さすがにこうまで言われてしまえば、それ以上の反論は意味がなさそうに感じた。
むしろ………
「ねえ音弥、なにかあった?」
ストレートに、正面から問いかける以外の方法は思い浮かばなかった。
姉の私よりも大人びて達観してるところがある音弥。
その音弥が、今日は断固として私の話を聞き入れないのだから、私がいくら年上風吹かせたところで無駄だろう。
音弥はスッと立ち上がると、縁側の方に進んでいく。
そして徐々に雷が近付いてきている雨空を見上げながら、
「――――別に。ただ、上には上がいる。それだけだ」
静かに、静かに呟いた。
そのひと言は、雨音と雷のアンサンブルにかき消されそうだった。
でもそのひと言だけで、音弥が急に連絡もなく家に帰ってきた理由はじゅうぶんな気もした。
それなら、今ここで私が音弥のためにできることは、いったいなんだろう?
話を聞く、なんて偉そうに決心だけはしていた私だったけれど、私が話を聞いたところで、具体的な解決策を用意できるはずもないのに。
だったら、私ができることは、ひとつだけ。
「ね、音弥。お昼、食べてく?」
すると音弥は振り向いて、一瞬、眉を動かした。
それは、まるで泣き出しそうな表情にも見えた。
そんなわけないのに。
その証拠に、音弥はすぐに、ゆっくりと首を振ったのだ。
「そうしたいとこだけど、今日は学校外のセミナーに参加する名目で寮を出てきてるから。昼過ぎには戻らないと」
「そう………」
そのセミナーに行かずにここにいるのは大丈夫なのか、そう訊きたかったけど、それは音弥を追い詰めてしまいそうで。
だけど、察しのいい音弥は私の心の内が透けて見えるようだ。
「心配しないで。子供のお稽古事とは違うんだから、出席しなくても学校や親に連絡がいくなんてことはないから」
「そうなんだ……?」
「でもセミナーの費用は父さんと母さんに出してもらってるから、もし二人が今日家にいたら、顔を合わせるのは気まずかったかも」
「それでなかなかインターホン押さなかったの?」
「まあ………。でも、姉さんがいてくれて……話せてよかったよ」
そう言った音弥は、もういつもの音弥だった。
だからこそ、それが本心なのだとわかる。
音弥は家族相手に下手なお世辞なんか口にしないから。
「私もよ。ずっと、音弥に言いたかったの。私はもう大丈夫だからって」
そう返すと、音弥はじっと私の顔を見つめてきた。
私の体調に本当に問題がないのか、私の自己申告を信じてもいいのか、思案でもしているのかもしれない。
けれどそんなに長くは続かなかった。
音弥はふいっと目を逸らすと、「でも、薬はちゃんと飲んで」と言いながらソファに戻り、バッグに手をかけたのだ。
「え、もう行くの?」
「今から戻って、寮に着くのはちょうどいい時間になると思うから」
「そうなんだ……」
「……あのさ、姉さん」
バッグを斜め掛けしながら、音弥が私を呼ぶ。
言おうかどうしようか迷ってるような、そんな言い回しだ。
「なに?」
「姉さんは俺にピアノの才能があるとか、天才だとか言ってくれてたけど、俺だって、同じように姉さんのことを才能あるとか、天才だと思ってたんだよ」
「やだ、もしかしてさっきの ”超高速猫ふんじゃった” のこと?」
まだその話が続くのかと、私は苦笑いをクスクス声に出した。
ところが、音弥の言いたかったのはそれとは違ったようだ。
「それもあるけど、他にも、姉さんにはすごい才能があると思う」
「え……なんだろう?」
自分じゃ到底思いつかない。
だって私は、非凡な家族の中でとても浮いている自覚があったから。マイナスの意味で。
すると音弥はスッと私の目に視線を戻し、
「家族を支える才能だよ」
まっすぐ告げたのだった。
「家族を支える………ああ、ああそうよね、私、その点についてはちょっと自信あるわ」
家事を含む家の用事は、私が役に立てる唯一の方法だと自負している。
にっこり微笑んだ私に、音弥はさらに詳細を付け加えてきた。
「忙しい父さんと母さんに変わって俺達弟の面倒をよく見てくれたし、掃除や洗濯だけじゃなくて、名前すらないような些細な家事も毎日してくれてた。それに、姉さんの料理はいつも家族を思う気持ちであふれてる。例えそれが失敗作やレトルトのカレーだったとしても、姉さんが俺達のために用意してくれた食事にはすべて、姉さんからの想いがこもってると思う。それが、一杯の麦茶だったとしても」
「麦茶……」
私はテーブルの上にぽつんと乗っているグラスが視界に入った。
「姉さん、ずっと言ってこなかったけど、いつも、俺達家族のためにありがとう。ずっと感謝してたよ。俺は、さっきも言ったように姉さんのピアノが好きだし、才能もあると思ってるけど、当の姉さん自身がそれを認めてくれないから……。でも、もうひとつのこっちの才能だったら、姉さんも納得してくれるよね?」
ずいぶん背の伸びた音弥が、私を見下ろしてくる。
私は、いつの間にか体も中身も、発言までもがもこんなに成長していた弟に、くすぐったい気持ちを覚えた。
「……そうね、家族のために役に立ちたいという想いは、誰にも負けない自信はあるわね」
そこは素直に認める。
でもひとつだけ、音弥に返したい言葉があった。
「それから、私も、音弥のピアノが大好きよ。もし音弥が自分よりも上手な演奏に出会ったとしても、私は世界中で音弥のピアノが一番好き。音弥のピアノが世界で一番上手だと思ってる。ここだけの話、お母さんのピアノよりもね。まあ、もう何年もお母さんのちゃんとした演奏を聴いたことはないんだけど」
「姉さん……」
「だからね、もしかして、今の音弥はちょっとだけ自信がなくなってたりするのかもしれないけど、そんなときだって、いつでも、24時間365日、私にとって音弥は世界一のピアニストなんだからね」
そう言うと、音弥はまた泣きそうな顔をした。
今度のは見間違いじゃないと思う。
だから私は、変にしんみりしないように、最後は軽く冗談で締めくくろうとした。
「だって音弥はお父さんお母さんから名前に ”音” をもらってるんだから。ただの5月生まれだから ”芽衣(May)” なんて安易な名付けの私とは全然違うんだからね?」
「え………?姉さん、それは…」
音弥が何か言いかけたとき、二階の方からダン!という物音が聞こえてきた。
私達は二人同時に天井を仰いだ。
「びっくりした……なにか落ちたのかな」
独り言のように呟くと、音弥が「そう言えば、まだ俺の部屋見てなかったな」と今思い出した風に言ったのだ。
「そうだね。帰る前にちょっとだけ見ていく?」
「………そうしようかな」
「案内しようか?」
「いや、いいよ。二階だよね?すぐにわかると思う。ちょっと行ってくる」
言うや否や、音弥はバッグを掛けたまま居間から出ていったのだった。
そしてその直後――――――
『う………ううっ…………』
『グズッ………グス、グスン………』
『ええ話、めっちゃええ話やなあ……』
『ベリーベリービューティフォーブラザー&シスターです………ズズッ』
壁の向こう側から、むせび泣く声が聞こえてきたのである。
あと、鼻をすする大きな音も。




