5
人を―――――
その意味を理解した刹那、ゴクリと、大きく唾を飲み込んでいた。
聞かなければよかった。
いや、今聞いておいてよかった。
じゃないと、きっと私はこのまま彼らの前で文哉と音弥の名前を呼び続けていただろうし、そうしたら、うっかり彼らが文哉と音弥の名前を口にしてしまう可能性が高かったのだろう。
つまり、それは………
「―――――っ!」
自分の考えがその結論に達すると、声にならない悲鳴が喉の奥に落下していった。
だってつまり、私のせいで、弟達が………
そんなの想像もしたくない。
想像もしたくないけど、でも考えたら、とてもじゃないけど怖すぎる。
まだ彼らにルール厳守の意志があったからよかったものの、それは本当にギリギリの線上だったというわけだ。
再び、ゴクリと喉が鳴った。
だけど次の瞬間、
『ひぃぃぃぃぃっっ――――――っ!!!!』
『NOOOOOOOOOO――――――っ!!!!』
袴三つ編みと烏帽子男が跳び上がり、あらん限りの絶叫の大合唱を響かせたのだった。
「……………え?……………あなたたち、知らなかった………の?」
まさかよね?
そんな疑惑を持ちつつ問うたけど、私の背後にまわって軍服マントから必死に隠れようとしている二人の姿を見ると、どうやらそのまさかだったようだ。
『ひひひひ人殺しぃぃぃっっ!』
『ユーアー、ベリーベリーベリーバッドパーソンです!』
二人のただならぬ怯えように、却って私は冷静さを取り戻してきた。
だって、名前を呼ばない限りは大丈夫なのだから。…………大丈夫、なんだよね?
ちらりと軍服マントを見やると、色を無くしていた表情が、パッと笑顔に変わった。
『やあねえ、あくまでもその可能性もある、って話よ。アタシにその力があるかどうかなんて、わかるわけないじゃない。だってこうなってからは一度も人の名前を呼んだことないんですもの』
すると、私を盾にしてる二人が、恐る恐る、そおっと、顔だけをそれぞれ左右から覗かせた。
…………生身の人間を盾代わりにしないでほしい。
『………それ、ホンマ?』
『………トゥ、トゥルー、ですか?』
ひょこっと顔を出す二人は、私の肩を掴んでくる。
もちろん、彼らはこの世の物には触れられないので、あくまでもそんなポーズをとっているだけだ。
それでも、不思議と二人に掴まれている感覚はあった。
二人の顔が私のすぐ耳元にあったからだ。
そしてそんな二人が面白かったのか、軍服マントはクスクス笑い出してしまった。
『やあねえ、お嬢ちゃんならともかく、どうしてあなた達がそんなに怖がるのよ?もしかしたらあなた達だってその力があるかもしれないのに』
『NOOOOOOO WAAAAAAYっ!そんな力はアイドントハブです!』
『うちかてそうや!そんなん自分でわかるやん!あんたと違てうちらは一般ピープルゴーストやねんから!』
………一般ピープルゴースト……人間なのかゴーストなのか、どっちなの?
というか、ゴーストに一般とか一般外とか、そんなのあるわけ?
『ザッツライト!ウィーアー、IPPANです!』
『あら、アタシだって一般よ?ただちょびっとだけパワフルなだけで。一般じゃないのはあのヒトくらいじゃない?』
「あの人って?」
思わず質問を挟んでしまった。
軍服マントはくるりと私に顔を向け、いつもの穏やかな口調で答えた。
『ほら、あのヒトよ。飛鳥時代とか奈良時代っぽいお洋服の女の人』
「万葉…」
つい ”万葉集女王” と言いかけて、慌てて噤んだ。
これは私が勝手にそう呼んでるだけなのだから。
それに、名前に関しては下手に深入りしない方がよさそうな気もする。
彼らが人の名前を呼んではいけないように、私も、彼らの名前や呼び方には細心の注意を払った方がいいかもしれない。
「………ああ、あの女の人ね。確かにあの人は別格な雰囲気があるかも」
『そう言われたらそうやなぁ、あのお坊ちゃんなんかまるで神様みたいに接してるもんなぁ』
『I see、あの人はまさにスペシャルと言えるでしょう。But!ということはつまり、あの人ならば人の名前を呼ぶだけで、その人を………オーマイガ――――ッシュ!!』
『ひぃぃぃぃっっ!うちら、そんなとんでもない人といつも一緒におったん?!』
烏帽子男と袴三つ編みが振り出しに戻ったところで、軍服マントがパンパンパン!と手を叩いた。
不思議と、それは音としてはっきり聞こえた。
『はいはいはいはい、もうそのへんにしておきなさいよ?あなた達が怖がったりしたら、お嬢ちゃんまで怖がっちゃうかもしれないじゃない。いいの?そうなったら、もうお嬢ちゃんアタシ達とおしゃべりしてくれないかもよ?』
一番の新入りのくせに、やはり一番の纏め役である軍服マントに意地悪く微笑まれたものだから、残りの二人はまた絶叫だ。
『ええっ?そんなの嫌や―――――っ!この後深夜の漫才特番あるのに!お嬢ちゃんがおらんかったら見られへんやん!』
『NOOOOOOOOOっ!トークできなくなると、いったい誰がTVのチャンネルをチェンジしてくれるのですか?!WHO?!』
………二人にとって私は、テレビのチャンネル変更要員だったらしい。
『だったら、もうこの話はおしまいにしましょう?』
烏帽子男と袴三つ編みは軍服マントにコクコクと頷いた。
そして私の背後からひょいっと抜け出ると、再びテレビ前の特等席に並んで陣取った。
………この二人は私が出会ってきた誰よりもテレビっ子のようだ。
すると軍服マントが『ごめんなさいね、怖がらせちゃったかしら?』とマントをパサリと揺らした。
「それは………、でも、実際のところはあなたにも分からないんでしょう?」
『そうねえ、人を殺める可能性もある、とは聞かされてるけれど、アタシにその力があるとは思わないわね』
「原さんって人から聞いたの?」
『そうよ?アタシたちのことはぜーんぶあの人から教わったから』
両手を左右に広げて話す軍服マントは、やはり舞台俳優の名残りが強く出ているように見えた。
そう感じたとき、ふと、さっき過った疑問を思い出した。
騒がしい烏帽子と三つ編みはテレビに夢中だし、今なら軍服マントにちゃんと訊けるかもしれない。
私は「それじゃ、私も教えて欲しいことがあるんだけど」とテーブル越しで前のめりになった。
『あら、何かしら?アタシでわかることなら何でも答えちゃうわよ』
軍服マントはフフッと艶っぽく微笑んだ。
外見はどう見てもイケメン俳優なのに、こうして会話を続けていると、口調や仕草だけでなく、すべてが女性のように感じられる。
もっとも、これが素の状態なのか、それともそう演じているのかは、私には判断できないけれど。
「………名前のことなんだけど」
『アタシが弟ちゃんの名前を呼ばないでって言ったことについてかしら?』
「ううん、そうじゃなくて………。あなた達が人間の名前を呼ぶと、何かしらのよくないことが起こるのはわかったんだけど、じゃあその逆は?」
『逆?というと……』
「例えば私があなたの名前を、本名じゃなくて芸名だったとしてもどこかで知って、それを呼ぶとどうなるの?もし本当の名前じゃなくても、私が勝手にあだ名みたいなのを付けて呼ぶのは?」
やや早口になって言うと、軍服マントは意外そうに顎を引いた。
『そうねえ………ま、アタシの以前の名前をお嬢ちゃんが知ってしまったとしたら、それはもう以前のアタシを知ってるということになるわけだから、それはルール違反になっちゃうでしょうね』
「あ、そうね……」
『それと、もしお嬢ちゃんがアタシたちにあだ名を付けてたとしても、それをお嬢ちゃんが心の中で呼ぶだけなら大丈夫なんじゃないかしら?だってアタシたちはそのあだ名を知らないんだから、それは名前としては成り立っていないと思うもの』
「確かに…」
『でも、それを声に出して呼ぶのは、念の為避けた方がいいかもしれないわね。お嬢ちゃんに何かあったら大変だもの。とりあえず、問題ないかどうかの確認がとれるまでは、慎重になった方がいいと思うの』
「わかった。心配してくれてありがとう」
軍服マントからの返答はどれも筋が通っていて納得できた。
だから素直に了承と礼を伝えると、軍服マントはパッと華やかな笑顔に変わった。
『どういたしまして!』
さすが元俳優の満面の笑顔は眩しい。
私は直視できずに、何となく話をつないで誤魔化した。
「でも、それなら、あなた達の前では俳優さんとか、有名人とかの名前も口に出さない方がよさそうね。ひょっとしたらあなた達の誰かの名前と偶然一致しちゃうかもしれないし」
烏帽子男や万葉集女王ならともかく、他の三人は偶然同じ名前の有名人が健在していてもおかしくはないだろうから。
さほど重たくもない調子で言ったのだけど、軍服マントは急に顔つきを変えた。
心なしか、寂しげに。
そして、
『それは、問題ないと思うわ』
やけにきっぱり告げたのだった。
「どうして?」
『そうね………アタシはまだ、こうなってから日が浅いけど、他の4人はもうずいぶん時間が経ってるようだから、きっと、以前の名前はもう覚えてないと思うの』
「え……?覚えてないの?」
『実はアタシもね、自分の名前はまだ覚えてるんだけど、以前の俳優仲間がたまにテレビに出てるのを見かけても、ぼんやりとしか思い出せないの。中には完全に名前を忘れちゃってる人もいるわ。どうも、こうなってしまうと、以前の記憶はどんどん薄くなってしまうみたい。とても速いスピードでね』
薄っすらと、今度は頼りなく微笑んだ軍服マント。
「そうなんだ………」
『ああ、ごめんなさい。お嬢ちゃんにそんな顔させるつもりなかったのよ?それに、今のアタシは結構気に入ってるの。以前はファンのためにかっこいい男でなくちゃいけないって気を張ってたから』
「じゃあ、その……」
『ごめんなさい、気を遣わせちゃったかしら?遠慮せず訊いてくれていいのよ?アタシ、以前は本当の自分を装っていたのよ。ま、役者なんて自分を装うのが仕事なんだけどね』
「そうなんだ…」
『アタシは本当の自分を隠すつもりはなかったんだけどね、ほら、アタシってかっこいいでしょう?だからデビューした途端、女の子からすごく人気が出ちゃって。そうしたら事務所からは絶対に素の自分を出すなって命じられちゃったのよ』
「それは……色々大変だったんだね」
『アタシは別によかったのよ?好きなお芝居の仕事ができるのなら、本当の自分を隠すことくらい平気だった。演じきってみせる自信もあったしね。でも、ファンの子達を騙し続けてしまったことは………申し訳なかったなと今でも思っているの』
「でもそれは仕方ないじゃない。そう命じられてたんだから」
とっさに反論していた。
私がどうこう言ったところで軍服マントの憂いを拭えるとは思えないけど、言わずにはいられなかった。
だって、本当に申し訳なさそうな懺悔だったから……
「………それに、あなたのお芝居を観てあなたのファンになった人は、本当のあなたがどうであれ関係ないと思う。そりゃ、あなたの外見とかを好きになって、疑似恋愛みたいな感じになってた人からしたら、本当のあなたを知らない方が良かったのかもしれないけど………世の中には、そうやって、知らない方がいいことだってあるのよ。だからあなたは、なんにも悪くない」
伝えたいことは明確なのに、それに見合う言葉がうまく紡げない。
こんなとき、父や文哉ならきっともっと上手に伝えられるだろうに。
私はまだ大人になりきれてない、ストレート過ぎる子供じみた言いまわしが情けなかった。
けれど、軍服マントはふっと目を細めたのだった。
『ありがとう。……どうもありがとう、お嬢ちゃん。でもだからね、お嬢ちゃんに伝えておきたいのよ。死んでから後悔しても手遅れだってね』
後悔………
穏やかに絞りだした声は、私が今まで聞いたどの格言名言よりも、ずしんと重たかった。
なのに、しんみりと話し込んでいた私達の目の前では、烏帽子男と袴三つ編みが騒ぎ出したのだ。
『なあなあ、チャンネル変えてくれへん?』
『ハリーハリー!プリーズです!』
またもや私をテレビのチャンネル変更係と扱う二人に、無性にイラッとした。
私はテーブルの上にあったリモコンをバッと手に取ると、
「うるさいわね!そんなにチャンネル変えたいなら、自分でやりなさいよ!」
二人の手にパシッと叩くようにして当ててやった。
もちろん、二人がリモコンに触れられないとわかってのことだ。
どうせリモコンは二人の手のひらを通り抜けて結局は私がチャンネルを変える………………え?パシッ?
しばし、静寂が流れる。
けれど次の瞬間、
『◇★♭〇☆@&£〒÷●♪℃――――――っっっ?????!!!!!!』
『℉♫□¥♯◆/~☆◎△♮√――――――っっっ??????!!!!!』
烏帽子と三つ編みが激しく揺れ動いたのだった。
『あらあららあら、リモコン、あなた達触れちゃったじゃない。あらまあ………』
その後のお祭り騒ぎが深夜遅くまで続いたことは、言うまでもない。




