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「なにそれ……」
私の体調が原因で、父が仕事をセーブしてるって、原屋敷さんは今そう言ったの?
私の体調に関しては、確かに音弥の留学のことがあって色々心配かけたりしたし、今も南先生のクリニックでお世話になってるから、あながち間違ってるとは言えないかもしれない。
だけどカウンセリングを受けたりお薬をいただくようになってからは、体の不具合も劇的に改善されてるし、何より父が仕事を控えめにしてるなんて、そんな事実はどこにもない。
だって今日からは小説の事前取材に出かけたし、編集の方にも積極的に面会しているのだから。
それで仕事をセーブって、いったいどこをどう曲げたらそんな誤った情報になるのだろう。
訝しむ気持ちが突出すると、原屋敷 百々子はなぜか少々ホッとした様子で「ああ、違うならいいのよ」と両手を振った。
続けて
「私もね、父親が仕事をセーブするくらいの病気にかかってるようには見えなっかったんだけど、見た目では判断できないこともあるし、もし本当にどこか体調が良くないのなら、この一か月ほど私がきつい言い方したりしたのも悪かったかなと思って………。でも違うのよね?」
彼女はちらりと私を窺うように尋ねてきた。
その様子は、いつもの強気で我が道を行くようなパワフルさは皆無だ。
喩えるなら、自分でも悪いことをした自覚がある子犬が飼い主の反応を上目遣いで確かめてくるような。
………いや、彼女が犬で私が飼い主なんて、いくら喩えでも申し訳ないかもしれないけれど。
でもそれだけ、彼女の態度がどこか可愛らしかったのだ。
それに、その可愛い態度には私への気遣いも含まれているのだろうから。
原屋敷 百々子……原屋敷さんは、思いの外優しい人だった。
だから私は、きっぱりと答えることにした。
彼女の心配を払拭するために。
「大丈夫よ。どこも悪くないから。それに私の父も別に仕事をセーブしてる様子はないと思う。今日も取材旅行に出かけたくらいだし。だから原屋敷さんの言ったことで私がどうのこうのってことはないから、安心して?」
それを聞いた原屋敷さんはパッと表情が戻って。
「それを聞けてよかったわ。だって私のせいであなたの体調がよけいに悪くなったとか、あとでそんなこと聞いたら寝覚めが悪いじゃない?でも違うなら、これからもはっきり言わせてもらうから。だいたい、あなたは…………」
わかりやすくコロッと態度を変えた原屋敷さんだったけれど、ふいに、流暢なセリフが足を止めたのだ。
彼女はじっと私を見つめたまま、けれどおもむろに顔を近寄せてきて、そして………
「あなた、香水か何か使ってるの?」
スン、と鼻をすすってきたのだ。
「香水?全然使ってないけど」
まったく身に覚えはない。
けれど原屋敷さんはそれでは納得できないようだった。
「本当に?でもこのニオイ、どこかで……」
「ねえ、それって私が臭うってこと?」
思わず体を反らしてしまう私。
でも今日は朝シャワーしてきたし、まだ本格的な夏じゃないしそんなに汗もかいてないんだけど……
「臭うっていっても、クサイとかじゃないわよ?でもなんだろう、このニオイ………」
クサイわけじゃないと言われても、特にフレグランスを纏っていないのだからいい気はしない。
私はなおも顔を近付けてくる原屋敷さんから逃げるように、「ごめん、私急ぐから!」と駆け出したのだった。
◇
「――――――っていうことがあったのよ」
『なんなん?!それってめっちゃ失礼ちゃうん?!』
『アイアグリーです!そのガールはベリーベリールードです!』
『そうねえ、お嬢ちゃんはフレグランスを使ってないのでしょう?だったらシャンプーとかお洗濯洗剤の匂いだったのだと思うけれど、それにしても言い方がちょっとエレガントではないわね』
『ホンマやホンマや!お嬢ちゃん、気にせんでええよ!全っ然におわへんから!』
『イグザクトリーです!気に病む必要はナッシングです!』
『その通り…………と言ってあげたいのは山々なんだけど、ねえ、あなたたち?アタシたちって、嗅覚ないんじゃなかった?』
「……………え?」
嗅覚がない?
だって今の今、そこの袴三つ編みと烏帽子男が私は全然におわないから気にしないでいいって…………ああ、そうか。何もにおわない、ね。
てっきり言葉のあやだったと思いきや、軍服マントの一言に、烏帽子男と袴三つ編みは揃ってびっくり顔になったのだ。
『Oh!そうでした。すっかりフォーガット、失念していました。Sorryです』
『せやせや、うちら、何もにおわへんのやったわ。いっつも忘れてまう』
『ミートゥーです』
『うちら、おっちょこちょい同盟やな』
ハハハッと笑い合う二人。
………ああ、そうですか。
彼らのマイペースはいつものこと過ぎて、私は呆れて相槌さえ面倒になった。
すると彼らの中では一番の新参者なれど一番の常識人っぽい軍服マントがハァ…と軽く芝居がかったため息を吐いた。
さすがは元俳優。いちいち動作が様になる。
『まあ仕方ないのよ。アタシたちはこの世界で起こる出来事をただ見てるだけの存在なんですもの。そこにニオイがないからといって、文句は言えないわ。だって映画やドラマからも何も香らないでしょう?それ同じことよ』
軍服マントは微笑みを浮かべて誰ともなしに諭したけれど、腕組みして頬に手を当てる仕草からは、そう思わないとやっていけない複雑な心境が滲み出ているようだった。
そしてそれにつられるようにして、しょんぼり肩を落とす烏帽子男と袴三つ編み。
『ホンマやなあ……』
『トゥーバッドです……』
そのマイペースっぷりには振り回されることばかりだけど、さすがに今の彼らは気の毒に思えてきて………………いや、待って。
いやいやいやいやいや!今って私の愚痴を聞いてもらってる時間でしたよねえ?!
大学で原屋敷さんに何かニオイがするとか言われて、私が先に落ち込んでたはずですよね?!
うっかり彼らに同情しかけたけど、今は私の話してたのに!
なんだかムカムカしてきた。
私はバンッとテーブルを叩き、彼らをじろっとひと睨みする。
けれど、彼らはきょとんとするばかりだ。
それどころか、
『アカンで、もう11時まわってるんやから静かにせな。弟くん起きてしもたらどないするん?』
『ユアマザーもトゥデイはハードワークでもうベッドの中ですよね?ゆっくりレストする時間をブレイクしてはNO、NO、NO、ですよ』
得意気になって私に注意してくる。
これにまたイラッとしてしまった私は、もう一度テーブルを叩いて言い返してやった。
「うちの母親も文哉も一度寝たら朝まではめったに目を覚まさないタイプなんで!心配無用です!ついでに父親はしばらく留守ですから!」
キッと視線を尖らせて、自分ではかなり厳しめの口調にしたつもりだった。
なのに、今度は一番常識が通用すると思っていた軍服マントが空気を読まないマイペースを発動してきたのだ。
「そうそうお嬢ちゃん、前から気になっていたことがあるのだけど、ちょっと言っていいかしら?」




