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「………どうかした?」
怖いくらいに顔つきを変えた天乃 流星に、さすがに気になった。
けれど彼は「まさか、きみもこっちの………」と独り言にも満たない呟きを口にすると、その直後、
「――――ごめん、俺急用思い出したから帰るね」
と言い出したのだ。
「え?ちょ、天乃君?」
素早く荷物を片付ける天乃 流星。
それがあまりの慌てっぷりだったものだから、私は思わず声をかけてしまう。
彼は立ち上がりながらパッとこちらに横向いた。
「ごめんね、芽衣ちゃん。寂しいだろうけど、今日は一人で講義受けて?」
そう言ったときにはもういつもの軽い調子に戻っていたものの、表情にはわずかに強張りを残している気がした。
「寂しくはないけど、でも、」
「それじゃあね、また明日。バイバイ芽衣ちゃん」
私の返事など最初から聞くつもりもなかったように、彼は周りの席に着いていた友人知人達に手を振って、あっという間に退場したのだった。
すると当然、周囲の視線やら関心は残された私に集中してくる。
好奇の眼差しに、ひそひそ話声、心地悪いものばかりに囲まれて、私は一日のスタートを切る羽目になったのだった。
講義終了後、天乃従兄弟のファンと思しき女子が数名、私に彼らのことを尋ねてきた。
けれどそんなの私が知るわけないし、むしろ私が教えて欲しいくらいだ。
天乃 流星が突然帰ってしまったのは、どう考えても私がきっかけだったように思うから。
もちろん彼のファンにはそんなこと口が裂けても言わないけれど。
でも、私自身に心当たりがない以上、気になりもするし、なんだかちょっと気持ち悪い。
いったい何だったのか、今度彼らと顔を合わせたときには絶対に問い詰めてやる。
誰に言わずとも一人決心しながら帰っていると、ちょうど正門手前でこちらもまた面倒な相手と遭遇した。
原屋敷 百々子である。
彼女は私を見つけるや否や、知った風な顔で言ったのだ。
「流星があなたと喧嘩して講義をさぼって帰ったらしいわね」
「………はい?」
「だから、あなたと流星が何か揉めてたって噂になってるのよ。それで流星がいきなり席を立って帰ったってね」
「そんなことあるはずないでしょ」
「わかってるわよ。私もそれを聞いたとき、そう答えたわよ」
「だったらどうして……」
「でも、あなたと流星が噂になってるのは本当よ?もともとあなたには北斗との噂だってあるんだから、今回のことで噂がおかしな感じに捻じれっちゃったらどうしてくれるのよ」
「そんなのこっちが言いたいわよ」
「あら、最近言うようになったのね」
どの立場からの発言だと反論したくなるも、最初の頃は同い年にもかかわらず敬語で話していた私には、少々分が悪いのかもしれないと口を噤んだ。
私が黙ったせいか、原屋敷 百々子はそれ以上揶揄ったりはしなかった。
むしろ彼女はスッと引く姿勢を見せたのだ。
「ま、流星に何があったのかは、帰ってから直接本人に訊くわ」
天乃従兄弟と彼女の三人は幼馴染ということだけど、どうやらその距離の近さは私が想像している以上のもののようだ。
私だって、天乃 流星がなぜ私と会うなり講義をさぼって帰ってしまったのか気になってるけれど、大学外でまで彼らと関わりを持とうとは露ほども思わなかった。
けれど、気になっているということだけは顔に出ていたらしく、原屋敷 百々子に目聡く見抜かれてしまう
「なのよその顔。なにか言いたいことあるなら言いなさいよ、さっきみたいに」
「別に……」
「言っとくけどね、私の方があなたよりも北斗に近いんだからね」
これが漫画ならフンッ!と吹き出しを背負っていそうなほどに、あからさまな態度だった。
天乃 流星の話をしているのにわざわざ北斗の方を引き合いに出すなんて、なんというか、わかりやすい人だ。
「そんなことわかりきってると思うけど…」
あえて同意するまでもないけれど、黙ったままだと黙秘と取られかねない。
すると原屋敷 百々子は満足げに「そうでしょう?」と頷いた。
かと思えば、今度はふいに声のトーンを変えて
「ところで……」
かすかに神妙な面持ちを混ぜてきたのだ。
そして、ぽつりと呟いた。
「西中島 東」
「―――――っ」
彼女が告げた言葉に、私はキュッと喉の奥が締まる思いがした。
それは、私の父のペンネームだったのだから。
もちろん、大学内でも父のことを知ってる人間は何人もいるし、その中には正しくペンネームを把握してる人も多いだろう。
天乃従兄弟に絡まれるようになったここ最近では、面と向かって「西島さんのお父さんって西中島 東なの?」と尋ねてきた学生もいた。
私だって望んでいないとはいえ、抵抗感丸出しでは父の評判を下げてしまう恐れもあるので、そこは適当に常識ある返答をしておいたけれど。
でも、彼女、原屋敷 百々子は私に対し、これまで一度だって天乃 北斗、流星の話題以外を持ち出したことはなかったのだ。
これが身構えずにいられるだろうか。
すると、ややあって、彼女は表情の色を落としたまま続けてきた。
「…………って、あなたのお父さんよね?」
「………そうだけど」
「じゃあやっぱり、”娘さん” ってあなたのことだったんだ」
「………言ってる意味が見えないんだけど?」
一人勝手に納得する原屋敷 百々子に眉をしかめると、彼女は「ああ、ごめんなさい」と私と目を合わせた。
「実は、この前私を担当してくださった方が………ああ、私、モデル関係の仕事をちょっとだけやらせてもらってるんだけどね、そこではじめてお会いした出版社の方が以前は文芸の部署にいたらしくて、あなたのお父さんともお仕事されたことがあるんですって」
「へえ………そうなんだ」
そういえば彼女はファッション誌で読者モデルをしていると聞いた。
何の雑誌かまでは知らなかったけれど、出版社繋がりで父を知るのは考えられる範囲ではあった。
けれど、彼女の話はそこで終わらなかったのだ。
「それで、その人はあなたの名前とかまでは知らないみたいだったんだけど、どんな人の担当をしてたんですか?ってモデル仲間の誰かが訊いて、そこで西中島先生だよって答えて、そしたらその子があなたのお父さんのファンだったらしくて、最近西中島先生が仕事をセーブしてるんじゃないかって言い出して……」
「―――え?」
父が仕事をセーブ?
それは寝耳に水だった。
私の目から見て、父は以前も今現在も、ずっと忙しく仕事していたからだ。
けれど彼女の次の言葉に、私は耳を疑ったのだった。
「そしたら、出版社の人が言うには、それは娘さんのためだって。娘さんが体調を崩してるから、そのために仕事をセーブしてるんだって」




