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「そうなんですよ。最近何か変わったことはないかって訊いてきて、それからはほとんど毎日声をかけてくるんです。学部が同じなのでしょっちゅう顔を合わせるのはしょうがないんですけど、そのたびに話しかけてくるから他の女子の視線も日に日に厳しくなっていくし、変に目立っちゃって家族のこととかも噂されたりして、もうすっごく迷惑なんです」
思い切り気持ちを込めて訴えた。
ここで愚痴ったところで状況が改善されるとは思わないけど、南先生からは日常のどんな些細な出来事でも、私の感情が動いたことは教えて欲しいと言われていたのだ。
そうでなくても、この部屋はとてもリラックスできるし、南先生は私が出会った人の中で誰よりも聞き上手聞き出し上手だったから。
南先生は「それは迷惑な話だね」と眉をしかめた。
それから、「芽衣ちゃんは何も悪くないのにね」とも言ってくれた。
具体的な解決策を得られなくても、こうやって同意と肯定をもらえたことで、私の心は安定を取り戻すことができる。
南先生は私がどうしてもらったら楽になれるのか、それを把握しているかのような、不思議な人だった。
もっとも、それが心療内科医としては普通のことなのかもしれないけれど。
「でも、その男子学生は大学でも一番かっこいいんだよね?だったら、芽衣ちゃんもちょっとときめいたりはしないのかい?」
「いえ、まったく」
「少しも?」
「はい、微塵も」
「本当に?みんなが憧れてる男子なのに?好きになりそうな予感もない?少なくとも向こうは芽衣ちゃんに好意は抱いてると思うけど」
「私はああいう目立つタイプは苦手ですし、あっちだって私をそういう対象としては見てないと思います。ただなんていうか、確かに私に興味はあるっぽいけど、たぶん、自分に靡かない女子が珍しいとか、そんなところだと思いますから」
あんな女子からモテまくってるのに愛想のひとつも振り撒かないクール男子が、私みたいな普通女子に恋愛感情を持つはずない。
「そうかな?芽衣ちゃんはこんなに可愛いんだから、どんな人に好かれても不思議じゃないと思うよ?」
「なに言ってるんですか?そんなわけないですよ。だいたい、もし本当に私を好きだったら、もっと会話を弾ませる努力はすると思うんですよね。無口なタイプか知らないですけど、私に声をかけてきても、特に話題を提供してくれるわけでもなくて、ただなんとなく天気の話とか講義のこととか、どうでもいいことばかり話してるんですよ?だから、周りには余計に親しく映ってしまうんですよ、たぶん」
まだ言葉を交わしてるうちはましだけど、天乃 北斗は会話が途切れても特に気にする素振りもなく、かといって私から離れることもなかった。
私だって無理に彼と話したくもないものだから、そうすると、時にはただ黙って歩いてるだけになったり、何も言わずにただ隣り同士席に着いてたり、そんな時間も少なくはなかった。
そしてそれが、人によっては ”二人だけの世界” をつくっているようにも見えてしまうらしい。
そんなのあり得ないのに。
まったくもって迷惑この上ない話だ。
…………やっぱり、今度天乃 北斗が話しかけてきたら、断固拒否してやる。
せっかく南先生の柔らか笑顔に癒されたのに、あんな男のせいで思い出しムカムカが湧き上がってくる。
ずっと周りにいる女子達の目を気にして遠慮してたけど、もうこれ以上私をよく知りもしない人たちに私や私の家族のことを噂されたくない。
それなら、ギャラリーの有無にかかわらず、きっちり文句言ってやらなきゃと決心しかけたところで、南先生から確認のような質問が届いた。
「じゃあ芽衣ちゃんは、その男子に特別な感情は持ってないんだね?」
「当たり前です」
「そう。だったら、もう大丈夫だよ」
「何がですか?」
あまりにもさらりと ”大丈夫” なんて慰め言葉を告げられて、南先生にしては安直すぎないかと不思議に感じた。
けれど南先生はやけに自信たっぷりに言ったのだ。
「その男の子のことだよ。たぶん、明日からは声をかけてくることもなくなるんじゃないかな」
やけに確信めいた言い方に、私は不思議さを拭うどころかより強まった。
「………どうしてそう思うんですか?」
「だって、芽衣ちゃんがそこまで嫌悪感を示してるんだよ?きっと相手にも伝わってるんじゃないかな」
「……そうでしょうか。今までもずっと煙たがってた自覚はあるんですけど……」
「だから、いい加減、そろそろ向こうも諦める頃だと思うよ?」
「だったらいいんですけど」
「じゃ、何か状況に変化があったらまた教えてくれるかな?」
「わかりました。……すみません、なんだか愚痴っぽくなってしまって」
「いいんだよ。前にも言っただろう?嬉しかったこと、嫌だったこと、なんでも話してほしいって。愚痴でも悪口でもクレームでもなんでもOK。相手は今日みたいに学校の人だったり、友達だったり、家族でもいいんだよ?こんな風に思っちゃいけないとか、間違ってるんじゃないかとか、躊躇わなくていいんだ。少なくとも、この部屋には僕しかいないし、僕は、この部屋で聞いたことは絶対に誰にも言わない。絶対にね。だから芽衣ちゃんは、心のままに思ったこと感じたことを話してくれたら嬉しいな」
でもあくまでその選択は私次第だ、そう言われているようで、おかげで義務感を抱えずに済んだ。
南先生は、そういう人なのだ。
それはさりげないようでいて、でも心のセンサーが敏感に反応してしまう私には、とても貴重な人だった。
「そう言ってもらえると、気持ちが楽です。ありがとうございます」
「どういたしまして。芽衣ちゃんが楽になってくれたなら僕も嬉しいよ。ところで話は変わるけど、そろそろ弟さんの学校は夏休みになるんじゃなかったかな?」
ふいに登場した弟に、凪ぎかけていた心がさざ波をたてはじめる。
「あ…………、そう、ですね。弟の学校は、夏の間だけ海外に音楽留学する人も多いので、6月の下旬からは自由登校になるんです」
「じゃあ、弟さんも外国に?それとも帰省されるのかな?」
「いえ、弟は、毎年国内のサマースクールやワークショップに行ってるので、実家に戻ってくるのはいつも夏休みの終わり頃なんです。今年の予定はまだ聞いてませんけど、去年もそうだったので、たぶん今年も同じだと……」
同じだと思います。
そう言いきれなかったのは、音弥の高校卒業後の留学が決まっているからだ。
まだ何も聞いてはいないけど、もしかしたら具体的な学校選びのために、この夏は音弥も海外に行くのかもしれない。
そうしたら、たぶん、夏の間は実家には帰ってはこられないだろう。
音弥のために防音設備を整えたピアノ室は、この夏も静かなままなのだろうか……
正直なところ、音弥が戻ってこない可能性にホッとしてしまう私もいた。
音弥が家でピアノを弾くようなことがあれば、また私の気持ちが騒がしくなるかもしれないから。
だけど、家で鳴らないピアノは、まるで音弥の帰りをじっと待っているようにも思えて、切なくなるときがあったのだ。
それはあの5人も感じていたようで、自分達が唯一侵入できないピアノ室のことを、よく気にかけていた。
まあ、彼らの場合はほとんどが好奇心だろうけど。
特に、もともと舞台俳優だった軍服マントはミュージカル経験もあるらしく、ピアノの音を聴いてみたいと何度か私に強請ってきたほどだ。
でもそのたびに万葉集女王が『無理強いの末の音楽は寂しいだろう』と私を庇ってくれていた。
無理強いの末の音楽………
私を庇ってくれたその言葉が、薄く引っ掻き傷を与えてくる。
もしかしたら彼女は、私が今も胸に沈めているコンプレックスの錘が見えているのだろうか。
音弥を応援したいのに、同時に嫉妬をつのらせ、それを音弥本人に悟られてしまうなんて、私は最低最悪の姉だ。
現に音弥は私が体調を崩して以来実家には帰ってきていないのだから。
もしこのまま音弥がずっと実家に帰ってこなかったらどうしよう。
そんな不安が付き纏った。
そして、その不安につられて、私はより一層ピアノからは遠ざかるのだ。
あのピアノは私なんかが触れちゃいけない、あのピアノを弾くのは音弥じゃないとだめなんだからと、いつの間にか心に深く刻み込んで。
「そうなのかい?そうか………弟さんとの再会は、もう少し先になりそうなんだね」
南先生は残念そうに言った。
音弥の留学がきっかけで私は体調を崩したわけで、主治医という立場からは、私と音弥の再会にも気を配ってくださってるのだろう。
だから私は、「もし音弥が実家に帰ってくるとわかったら、お知らせします」と返した。
私だって、南先生のおかげで回復しつつある体調を、また悪化させるようなことはしたくなかったから。
音弥との再会でまた異変が起こらないように、もしそうなった場合はどう対処すべきなのか、自分の心のご機嫌伺いを、私はもっと南先生から学びたいと思っていた。
そして南先生も私のその思いは理解してくれていて。
「そうしてもらえると嬉しいな。そのあとのことは、また来週、一緒に考えていこう」
柔らかなホッとできる笑顔をくれて、だから私は、音弥が実家に戻ってきても、案外大丈夫そうな予感もしていたのだった。




