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新年度というのは何かとバタバタするもので、その慌ただしさが多少は落ち着いてきた5月の日曜日。
我が家は引っ越し作業の真っ只中だった。
本来なら春には新しい場所で新生活を迎えるはずだったのだが、今年大学に入学したばかりの私が学校も家も一気に環境ががらりと変わるのは好ましくないだろうと、引っ越しだけ5月にずらしたのである。
そして本日、まさに引っ越し日和の晴れた空の下、私達は住処を移すこととなった。
私が生まれてからずっと住み慣れた家から、郊外にある若干年季の入った大きな家へと――――
「芽衣―――っ!この荷物もお願―――い!」
「はーい!」
二階に段ボールを運んでいた私は、階下から叫ぶ母に負けじと大声で返事した。
すると、私の隣でせっせと本を並べていた弟の文哉がパッと立ち上がった。
「芽衣ちゃん、僕も手伝うよ」
「ありがとう、文哉。じゃあ一緒に下行こっか」
「うん!」
小学二年生になったばかりの文哉は、誰かのお手伝いができることが嬉しくてたまらないお年頃らしい。
例え戦力としては微々たるものでも、我々の貴重な癒しとして立派に役立っているのだ。
それにしても……と、私は廊下に出る前にざっと部屋を見まわした。
ここは文哉の部屋になる予定だが、弱冠8歳にしてこれだけの読書量とは驚くばかりだ。
まだ低学年なので年相応に向けた読み物ばかりだが、世界の名作、ミステリー小説、伝記、さらにはホラーの類いまで。
間違いなくこの子はお父さん似だなと改めて実感しながら、私は階段を下りていった。
「二階に持っていくのはここにある分だけ?」
「今のところはね」
「でも荷物はもう全部届いてるんでしょ?」
「”二階” と書いてるのは引っ越し屋さんが運んでくれたけど、書き漏れてたのが結構あるのよ。だから、今の段階で発覚してる二階の荷物は、これだけ」
「なるほどね。で、お父さんは?」
「今さっき編集さんから電話があって、何か話し込んでるみたい」
私の父は小説家なのだ。
「仕事……?今日が引っ越しだっていうのは、もうずいぶん前から決まってたと思うんだけど」
「ねえ?困ったものよねえ」
「まさか、お母さんまで引っ越し片付け後まわしにして仕事はじめたりしないわよね?」
「やあね、さすがに今日は仕事にならないわよ」
「本当に?いいメロディが浮かんだとかいって私達の食事作りを放棄して仕事場に籠った前科、忘れてないからね」
そして私の母は作曲家だった。
「ごめんごめん、今日はなるべくそうならないように気をつけます」
「なるべくって……」
ちっとも悪びれない母に呆れていると、ふと、ついさっきまでそばにいたはずの文哉の姿が消えているのに気付いた。
「あれ?文哉は?」
「え?文哉なら、さっき居間の方へ行ってたような気がするけど」
「居間?居間って、一番広い縁側がある部屋よね?」
「そうそう。新しいカーペットを敷いたから、それを見に行ったんじゃないかしら」
「あ、そうなの?じゃあ私も先に見てこよっと」
「そのあとでいいから、ここの荷物お願いね」
「はーい」
トン、と段ボールを叩き、”居間” と呼ぶべき場所に向かう。
この家はいわゆるTHE・日本家屋で、ほとんどの部屋が和室だった。
正直なところ、はじめて案内されたときはそれを不安に感じたのだけど、あとあとフローリングやタイルにリフォームもできるし、畳の上にラグを敷いて古民家風インテリアにもアレンジできるからと思い直していた。
例えこの家に引っ越すことになったのは両親の仕事の都合だったとしても、私なりに楽しみを見つけて、新しい環境に一日でも早く順応したかったのだ。
ここは一階だけでも前の家よりも部屋数が多く、キッチンダイニングからも近い最も広い二間続きの部屋が居間になる。
そこには南側に広縁があり、引っ越し前の冬にここを訪れた際、私は、日当たりも良いからここにクッションか椅子を置きたいなと密かな野望を抱いたりしていた。
玄関から見て一番奥に位置するその部屋は、廊下との間に何枚もの襖があるものの、それらは引っ越し作業のために開け放たれていた。
その間を、5月の、気持ちいい風が通り抜けていく。
私は心地いい風を頬に受け止めて、階段側にある入り口から居間に入った。
けれど、
「文哉、新しいカーペットはど………あれ?文哉?」
文哉の姿はそこになかったのだ。
「………文哉?おーい。文哉、どこ―――?」
続きになっている部屋を覗いてみるも、やはりいない。
居間には母から聞いた通り新しいラグが敷かれており、ソファやテーブル、テレビボードなども置かれていたけれど、文哉が隠れられそうな場所も見当たらないのだ。
「もう!文哉?」
語気を荒げてみたものの、文哉が出てくる気配はなかった。
身内が言うのもあれだけど、なかなか賢い子なので、家族が引っ越し作業で忙しくしてる最中に黙ってふらふら遊びに出るというのも考えにくいのだけど……
可能性は低いだろうなとは思いつつ、念の為、私は広縁から庭に捜索範囲を広げてみた。
ところが、開いている窓から顔だけを覗き出してきょろきょろ見やると、居間よりもさらに奥の庭の隅に文哉を見つけたのだ。
「こら!文哉!裸足で外にでちゃだめでしょ!」
大声で呼ぶと、小さな肩がビクッと上下するのが遠目でもくっきりわかった。
そしてそろりそろりと振り返る文哉と目が合うよりも先に、
「今そっちに靴を持っていくから、そこで待ってなさい!」
そう言いつけて、私は玄関に駆け出したのだった。
「まったく、なんで裸足で飛び出したんだか…」
窓は開いていても、外用の履物はまだ用意していないのに。
ぶつぶつ呟きながら玄関でスニーカーを履くと、文哉の靴を持って玄関から裏庭にまわる。
賢い子だけど、そこはやはりまだ8歳の好奇心旺盛な男の子なので、私の言いつけよりも興味津々を優先させてしまうかもしれない。
そんな恐れに追い立てられるようにして足を速めた。
土でドロドロになった靴下を手洗いするのはなるべくなら回避したいのだ。
けれど、文哉は私の言ったことを守り、その場でおとなしく待っていた。
「文哉、靴持ってきたから履きなさい」
「はーい」
「どうして裸足で外に出たりなんかしたの?居間のカーペットを見に行ったんじゃなかったの?」
「そうだったんだけど、僕がカーペットの上でごろごろしてたら、ザアッて風がふいて、窓から葉っぱが入ってきたんだよ」
大和はそう答えて、靴を履き、つま先をトントンと地面に打った。
「葉っぱ?」
「うん。でもね……」
そこまでスラスラと説明していた文哉が、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「うん……。僕は、葉っぱが部屋に入ってくるのをちゃんと見たんだけど、どこにもなかったんだ」
「え?どういうこと?」
「だからね、葉っぱは見つからなかったの。それで、なんか気になって、庭に出てみたんだ」
「そうだったの。葉っぱね……」
この家の庭は広く、何本か木も植わっている。
私は裏庭で一番大きな木を指差して、「じゃあ、あの木の葉っぱだったかもしれないね」と言った。
「そうかなあ?あんなところから居間に入ってきたりする?」
「だって、どんな葉っぱかもわからないんでしょう?だったらあの木かもしれないじゃない」
私は文哉の手を引き、その大きな木の前に立った。
「もしもし、つかぬことを伺いますが、文哉の見た葉っぱは、あなたのものですか?」
芝居がかった口ぶりで尋ねると、文哉も不思議顔を消して面白そうに続けた。
「もしもし、僕が見た葉っぱはあなたの落とし物ですか?」
だけど当然ながら、返事が聞こえるわけもなくて。
「…………」
「…………」
ややあって、私達は顔を見合わせてプッと吹き出した。
「だめだね、やっぱりわからないね」
「でも僕、本当に葉っぱ見たんだよ?」
「そうだね。きっと、そのまま風でどこかに飛んで行っちゃったんだよ」
ぽん、と文哉の頭を撫でると、居間の方から母の声が飛んでくる。
「芽衣――――?どこ――――?」
「あ、いけない、荷物荷物。ほら、文哉も行こう?」
「んー、僕、もうちょっと庭にいてもいい?」
「いいけど……じゃあ、絶対に庭の外には出ないって約束できる?庭の外はまだ慣れない場所で危ないから」
「うん、わかった!」
文哉は元気に返事をすると、裏庭を走っていった。
四六時中目を離せない乳幼児でもないし、ひとまず庭だったら大丈夫だろうと安心していると、ふいに、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
「―――っ!」
驚いてパッと背後に顔を向けてみても、誰もいなくて。
辺りを見まわしてみるも、それでも異変はなくて。
おかしいなあと思いながら見上げると、まぶしい木漏れ日が輝いて降ってくるだけで。
「――――?」
気のせいだろうかと思い、居間の広縁から入ろうとしたが、そのときザアッと風が強く吹いた。
カサカサと葉が揺れるような、空気が躍るような、やわらかな雑音に混ざって、またもや笑い声のようなものが耳に届くと、さっきのはこの音だったのだろうと納得していた。
これが、私がはじめて彼らの存在に触れた瞬間だったとは、まったく想像もしないままに…………