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その、発音がいいんだか悪いんだかわからない英語混じりの声には、とてつもなく嫌な心当たりがあった。
できることなら永遠に聞きたくなかった男の声。
それと同時に、異様な姿格好がありありと思い返される。
私はそれを見たくなくて、廊下には振り向けなかった。
落としたスマホを拾いもできず、カチンコチンと体は硬直するばかりだった。
すると、またもや男の声が飛んできたのだ。
『おや?聞こえていない?ノンノンノン、イエスタディは間違いなく聞こえてましたよね?ハローハロー?』
イエスタディ……昨日のことを持ち出されて、もう振り返らずとも確定してしまった。
声の主が、昨日の烏帽子男だと。
私はぎゅうっと目を閉じた。
耳も塞いでしまいたかったけど、そんなことをしたら、このおかしな声が聞こえていると言ってるようなものだ。
…………やり過ごそう。
ここは一切無視して、声が聞こえなくなって、気配が消えてなくなるのをただ黙って待とう。
もし、万が一、絶対にあり得ないとは思うけどもしかしての話、この英語混じりの主が、この世に存在してはいない………つまり、幽霊とかお化け的なものだったとしたら、私が見えたり声が聞こえたりしてるのは知られない方がいいに決まってる。
見える人間だとばれたら厄介だって、漫画とか小説でよく出てくるお決まりの法則だもの。
だから振りむいちゃだめ。
声が聞こえてる素振りもしちゃだめ。
私は何も聞こえてない見えてない、私は何も聞こえてない見えてない………
呪文のように心の中で言い聞かせていたけれど、文哉を早く探しに行きたいという気持ちも相まって、今日一番の焦りが重たく圧し掛かってきた。
ところが、そんな私の心情を読み取ったかのように、英語混じりの男がぽつりと呟いたのである。
『あー、ミスアンダースタンディングだったのでしょうかね。But、リトルブラザーをお探しかと思いましたが……』
リトル、ブラザー…………?
………弟?
そう認識するや否や、私は廊下に飛び出ていた。
「今弟って言った?!」
そう叫んでから、しまった……と我に返る。
だって目の前でびっくり顔を爆発させていたのは、やっぱり、昨日の烏帽子男だったのだから。
男は急に私が駆け寄ったものだから、慌てふためいて、その拍子にまた烏帽子を落下させたのだ。
「あ………」
『Oh………』
まるで昨夜の再放送のような展開に、私はある意味、開き直れたのかもしれない。
ぷつり、と何かが弾けた感覚があった。
見ざる聞かざる作戦はひとまず中断することにする。
「――――ねえ、今弟って言ったわよね?!」
ぐいっと詰め寄ると、男は大急ぎで烏帽子を拾い、被り直してから、すんと姿勢を正したのだった。
『やはり見えてるのですね。クエスチョンの返事は、オフコースです。リトルブラザーをお探しなら、ぜひヘルプさせていただきたいと思いましてね』
澄まし顔になった男は、烏帽子の落下をなかったことにするかのように、扇を優雅に扱いながら答えた。
まじまじと見ると、男は非常に涼やかな美丈夫だった。
今の時代と平安時代の美的感覚は異なっているのだろうけど、私の目から見ると、かなりの美形に思える。
いや、そんなことはどうでもいい。今は文哉が最優先なんだから。
「弟がどこにいるか知ってるの?!」
ぐっとさらに詰め寄った。
『Oh、ソーリー。それはアイドントノウです』
「知らないの?」
『But、仲間が何か知ってるかもしれません』
「…………仲間?」
『Yes。まだミートしていませんか?』
「………あなた以外にもいるの?その……」
私は一瞬言葉を躊躇した。
だってこの烏帽子男、てっきり幽霊的な何かだと思ってたけど、間近で対面してみると、体が透けて見えるとか、足がないとか、宙に浮いてるとか、そんなこともなかったからだ。
いたって普通の人間に見える。ただ、おかしな格好と言葉遣いをしてるだけで。
でも、単なるコスプレと何ら違いはなさそうにも思えたとしても、私は昨夜、はっきりこの目で見てしまっているのだ。
壁の中に入っていくこの男を。
あれだけはどう考えても普通じゃない。
だからこそ、私はついさっきまで、この男のことはは私の見間違いだったと結論付けていたのだから。
烏帽子も壁の中に消えたのも、すべてが勘違いだったと、思い込もうとしていたのだ。
なのにこうして再び目撃してしまったら、その存在を、認めないわけにはいかない。
だけどこの男が普通じゃないと理解していて、じゃあ正体は何なのか、何て呼べばいいのか、それはわからなかった。
すると烏帽子男はひょいっと肩を上げるジェスチャーをした。
それは、海外の映画やドラマでよく見かける仕草のようだった。
『オフコース。このハウスにはあと数名いますよ』
「え……数名も?このハウスって………うちにいるってこと?じゃあもしかして、袴を着た三つ編みの女の人と、背の高いマントを着た男の人も?」
さっきちらりと見かけた違和感満載の二人も、やっぱりそっち方面だったんだ……
ずしんと、ショックや落胆といった負の感情が落ちてきた。
反して烏帽子男はにわかに嬉しそうに答えた。
『おや、もうミートしたのですか?ザッツライトです。まあ、今の説明にはリルビット、ミステイクがあるのですが、それもすぐにクリアーするでしょう。では、まずはその二人にヘルプをお願いしに行きましょうか』
男は言うなり、私の返事も待たずに階段に進んでいく。
「え、ちょっと待ってよ、あの人達、もう消えていなくなっちゃってたんだけど!」
慌てて烏帽子男に訴えてみるも、『ドントウォーリーです』と肩越しに扇を振ってくるだけで、どんどん一階に下りていった。
そしてすっかりこの家の間取りを把握してるような態度で、まっすぐに居間に向かったのだ。
『Oh、There you are。やはりここにいましたか』
男は満足したように頷いたけれど、小さく上下に揺れる烏帽子と男の幅広な平安貴族衣装のせいで居間の様子が窺えない。
私は焦れる想いで体を斜めに移動させた。
同時に烏帽子男も私のために横にずれてくれて、その先に居間の光景が広がった。
直後、
「――――っ!!」
私はとっさに両手で自分の口を押さえ、叫び声を飲み込ませていた。
すぐ近くのキッチンダイニングには母もいる。ただでさえ文哉の件で落ち着かない心境なのに、これ以上心配かけるわけにはいかない。
その強い想いが反射的に私の驚愕を宥めるように作用していたのだろう。
だって、驚くのが普通だと思う。
自分の家の居間で、袴姿と軍服姿の見知らぬ人物が寛いでいるなんて、普通の神経だったら絶叫してもおかしくはないのだから。
いや、絶叫するのが普通だろう。
なのにそんな私の狼狽を完全無視の勢いで、袴と軍服がソファから立ち上がったのだ。
『あーっ!この子が昨日言うてた女の子なん?めっちゃ可愛いやん』
『あらまあ、可愛らしい子じゃない。はじめまして、お嬢ちゃん』
喜々として私に話しかけてくる二人に、私は、ああ、また妙なのが出てきた………と盛大にため息を漏らしたのだった。




