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「吉野の桜?どうしたの急に」
けれど訝しむのは私だけで、彼らは誰も特別な違和感は示さなかった。
それどころか、袴三つ編みがやれやれといった相好で
『また出た。ホンマにアンタは吉野の桜が大好きやなあ』
揶揄うように言ったのだ。
『Oh、エクスキューズミー?あなたには言われたくありませんね!あなただってアースクエイクやレンガ造りのビルディングにはここぞとばかりに反応するではありませんか』
『それはしゃーないやろ!うちの記憶はほとんど消えてしもてんから。そん中でまだ憶えてるのがその二つやねん!』
『Me neither です!ですから、サクラと聞いて At first、吉野の桜を思い出したまでです!』
エキサイトしていく二人のやり取りを、小学生男子は苦々し気に、万葉集女王は微笑みながら見物している。
そして、二人のこんな刺々しいムードははじめてで戸惑っている私に、万葉集女王は翳をくるりと回転させて言った。
『この二人のこの光景は春の風物詩だが、其方ははじめてだったか?』
「いつものことなんですか?」
『あいつ、毎年春になると何度も何度も ”吉野の桜はもう咲きましたか?” とか訊いてきやがるんだ。そんなの知らねえっつうの。あっちの女は地震が起こる度に大騒ぎするし、煉瓦の建物を見かけると異様に食いつくしよ』
『どうやら、それぞれに記憶から消えぬ出来事があるようだ。我らは以前の記憶が薄れていくが、なにもすべてを失うわけではない、いくつか残っているうち、特にこびり付いて剥がれないことが、あの者達にはそれぞれ吉野の桜と、地震、煉瓦造りの建物なのだろう。そう言う其方にも、心当たりがあるのではないか?』
万葉集女王は優しく小学生男子に問いかける。
彼は小さな沈黙のあと、『まあ…』と認めた。
それは、もしかしたらクリスマス前に知った、あの交通事故のことを指してるのかもしれない。
あの日、出かける私に対して彼はやけに神妙な面持ちで気を付けるようにと注意してきたのだから。
そういえば、小学生男子が通っていたと思しき小学校は私立の名門校だった。
つまり、あんな小さな子供だけど、受験という競争をすでに経験していたわけで、だから ”サクラサク” の意味も知っていたのだろうか。
……やめよう。
あれこれ詮索しても無意味なだけだ。
そう自分を諭した私は、万葉集女王に残っている記憶も聞いてみたかったけれど、それは胸に閉じ込めた。
『されど、其方、弟御への報告はよいのか?其方のことだから、すぐさま手を合わせに向かうと思っておったが』
万葉集女王が小学生男子からふわりと私に視線を移す。
手を合わせるということは、ここでいう弟とは音弥のことだ。
「そのつもりだったんですけど……」
私は返事を濁した。
『あの者達のことなら気にせずともよい。早く弟御のもとへ行ってはどうだ?』
『そうだそうだ、とっとと行きやがれ』
繰り返しになるけれど、この乱暴なセリフも彼なりの思いやりのはずだ。
私は二人の気遣いを受けつつも、曖昧に笑った。
そして
「ねえ!吉野の桜はまだ咲いてないけど、私の桜は満開になったの。だから、これからお花見しない?」
ああでもないこうでもないと言い合いを続けている袴三つ編みと烏帽子男に、そして万葉集女王と小学生男子にも、明るく誘ったのだった。
『え?お花見?でも桜咲いてへんで?』
『Oh、お花見は別に桜でなく梅でも椿でも Anything is ok ですよ!』
『確かに以前は花見といっても桜に限ったものではなかったな』
『そうなんですか?初耳です』
『桜は神聖な樹木とされておったのだ。ゆえに、崇められるべき存在であり、容易く愛でるべきものではないとされておった。されど、桜以外にもここにはそれらしき花が見当たらぬ。其方はいったいどうやって花見をするつもりなのだ?』
さすがは万葉集女王といった知識に聞き入っていた他三人が、一斉に私に注目した。
私はパタンとPCを閉じ、立ち上がると
「そこは、私ならではのお花見を披露するわ」
そう言って、居間から廊下に出た。
『Hey、Where are you going?』
『お嬢ちゃん、どこ行くん?』
『おい、待ちやがれ』
『なにやら策があるのだろう。どれ、ついて参ろうではないか』
私の後を四人がついてくるのを確認し、廊下奥に進んでいく。
そこは、音弥の仏壇がある防音完備のピアノ室だ。
『え、お嬢ちゃん、こんなとこでお花見するん?』
『How?』
私は普通の扉より分厚くて重たい扉をガチャン、ガチャン、と開くと、ストッパーを下ろして固定させた。
まだ昼間だし、扉は開いたままでも構わないだろう。
中には入らず廊下から様子を窺う彼らを残して、まっすぐピアノの前に立ち、蓋を開く。
そして、右手で鍵盤に触れた。
タタンタタン……
取り留めのない音が跳ねていく。
「今日咲いたのは音大に受かった ”サクラ” だから、音大らしく、ピアノでお花見なんてどう?」
『Piano、 ですか?』
『ピアノでお花見?』
『なんだよ、それ』
『つまり、其方がピアノで桜を表現するというのだろうか?』
「正解。この世には桜の曲がたくさんあるのよ?耳でお花見…なんて、どう?というより……お花見という名の私の合格祝いに付き合ってくれない?だって今日は平日で、お父さんもお母さんも弟も友達もこの時間は仕事や学校で連絡取れないんだもの。そりゃ、まさか受かるとは思ってなかったから、いつも通りにしておいてってお願いしたのは私だけど」
自分で言いながらも、ちょっと強引だなとは思った。
自分が今ちょっと浮かれているのも感じていたし、らしくないなとも。
それでも、私はなんだか今のこの時間をみんなと共有していたかったのだ。
ひとりで合格を噛み締めるのは、夜寝る前のひと時でいい。
もしかしたら私は、まだ合格という結果に半信半疑で、だから、お花見という名の合格祝いをすることで彼らにその証人となってそばにいてもらいたいのかもしれない。
だってこれが自分一人きりなら、きっと信じられずに何度も何度も受験番号と合格発表の画面を見返す羽目になるのだろうから。
そんな下心をわずかにチラ見させると、彼らの不思議顔も解けていくのがわかった。
『Oh、それでは、お花見&セレブレーションパーティーですね!』
『めっちゃ楽しそうやん!!やろうやろう!』
『パーティーといえばアルコールですよね!オーマイガッシュ!1000年ぶりにアルコールをドリンクできるわけですね!ああああっ!』
『はあ?パーティーっちゅうたら食事やろ!お嬢ちゃん、何ご馳走してくれるん?』
『NO!パーティーといえばアルコールです!』
『いいや、食事やね!』
『アルコールです!!』
『食事やって!!』
一旦は収まりかけた口喧嘩がボッと再燃する。
『アルコール!!』
『食事!!』
『アルコールですよね?!』
『食事やんな?!お嬢ちゃん!』
唐突に、二人の口論のボールが私目がけて飛んでくる。
私はそれをキャッチして抱え込んだ。
「残念ながら、急な思いつきだから特別なメニューは用意できません。それに私はまだ19だからアルコール類の提供はできません」
『Oh、no……But、こちらはもう齢1000は過ぎてるのですがね…』
『まあ、お嬢ちゃんの真面目さを考えたらしゃーないか。でも本物やなくてもお花見はお花見やん?何か飲み食いしたいわあ』
「もちろん、何も出さないとは言ってないわよ。前からみんなが食べたがってたデパ地下スイーツのバームクーヘンと、炭酸ジュースでどう?」
『炭酸ですか?!それはグレイトです!ファンタスティック!マーベラス!イッツ ファーストタイムです!』
『バームクーヘン、ええやんええやん!早よ食べよ!』
『炭酸?炭酸って、コーラもあるのかよ?』
『Oh、boyも興味があるのですか?』
『うっせえな!悪いかよ!』
『ヒィッ、ソ、ソーリーです…』
『それよりお嬢ちゃん、早よ早よ!』
袴三つ編みに追い立てられるようにして、私はキッチンに急いだ。
数分と経たずに、バームクーヘンをカットするとクッキングペーパーでひとつずつ包み、それからコーラを含むジュースを何本かと人数分のグラスをトレーに乗せて戻った。
『待ってました!うわあ、めっちゃ美味しそう!』
『ベリーナイスです!』
『早くコーラ入れろ』
『其方の祝いなのに、其方に用意をさせて済まぬな』
ただ一人、気を遣ってくれた万葉集女王に、私は首を振った。
「私が合格できたのは、みんなのおかげでもあると思うから」
『………そうか』
万葉集女王は何をどこまで察したのかは掴めないけれど、とにかく何かを理解したようにフッと唇を上げた。
だって、私が通っていた大学を辞めてまで音楽の道に戻ったのは、彼らとの出会いなしには考えられないだろうから。
もちろん、音弥の存在が一番大きいのは間違いないけど、彼らだって重要な存在だ。
それに………
私がそこまで思い浮かべたとき、
『あらあらあら?まあまあまあ!アタシったら、お嬢ちゃんの合格祝いパーティーに乗り遅れちゃったみたいね』
軍服マントがヌッと壁の中から帰ってきたのである。
『あ、お帰り―――。先にやってるで』
『ご苦労であった』
『こここ、これが炭酸という飲み物ですか?お初です。どれ…………………んんんんっ!!!なんですかこの刺激はっ?!鼻の奥が非常にこの上なく痛いです!熱いです!ヒリヒリしますっ!!』
『オメエ、お得意の英語が抜けちまってるぞ』
『しかしながら!この刺激の前ではそれどころではありませんっ!!』
よほどの衝撃だったのだろう、烏帽子男はグラスを持ったまま頭を大きく振った。
と、その拍子にお決まりの烏帽子が飛ばされてしまう。
あわてて烏帽子を拾おうとするも、今度はグラスが傾いてしまいそうになって大慌てで体勢を戻したりしていた。
私はその様子を笑いながら眺めつつ、ピアノの前に座った。
鍵盤を撫でるのは、今の日本ではほとんどの人が知る桜の曲。
すると軍服マントが近寄ってきて『なんだかピアノの桜でちょっぴり早めのお花見みたいね』と微笑んだ。
さすが元俳優だけあって、感受性は他の4人よりも豊かなのだろう。
私は炭酸についてあれこれ騒々しい彼らには聞こえない大きさで、ピアノを弾きながら軍服マントにこっそりと尋ねる。
「私の合格、喜んでくれてた?」
あえて相手の名を出さずに訊いた私に、軍服マントは意図を探るように即答を避けた。
私は手を止めず、鍵盤を見つめたまま、告げる。
「あの初見問題、私があなたに渡したペンで書かれたものではなかった」
『あら………そう、だったかしら?』
「そうなの。だからきっと、あなた以外の人があの初見問題の曲を作ってくれたんでしょう?例えば、知り合いとか」
『あ………ああ、そうそう!そうなのよ!知り合いに得意な人がいたから、ちょっとお願いしたのよ。その人、お嬢ちゃんの合格を知ってと――――っても喜んでたわよ』
「そう………。だったら、その人に伝えて?私が合格したのはあなたの作った曲のおかげですって。ありがとうございますって」
『任せて!間違いなく伝えるわ!』
胸を叩く軍服マントは、心なしかとても嬉しそうだった。
私は少しだけテンポをあげてサクラを奏でる。
軍服マントが時おり私に提供してくれた初見問題用の小曲は、どれも、写譜ペンで書かれていた。
知る人ぞ知る、特徴のある線で。
《それなら、前に写譜ペンを買うのに紹介してもらった万年筆専門店を知ってるから、今度俺が帰省したときに一緒に買いに行こう》
「しゃふペン?」
《五線譜に書くためのペンだよ。それ用に作られてるから書きやすいんだ》
「へえ……そんなのがあるんだ」
《普通の鉛筆の方が書きやすいって人も多いけどね。母さんも作曲家なのに写譜ペンは一度も使ったことないって言ってたし》
「へえ……」
《………人それぞれだよ、姉さん》
今も残る、大切な思い出のページが開かれていく。
けれど、これ以上は追及しまい。
きっとそれは、誰も望まないことだから。
わずかに胸の底からせり上げってくる寂寥感に心を構えたとき、突然烏帽子男がピアノの脇で喚きだして、思わず手が止まってしまう。
『吉野の桜は、もう咲きましたか?!吉野の桜は!吉野の桜はぁぁぁぁっ!』
口調も態度も表情も、あきらかに酔っ払いのそれだった。
「………私、お酒出してないわよね?」
『なんや、炭酸で酔っぱらってしもたみたいやわ』
『ったく、これだから昔の人間はしょうがねえな』
『おや、それは我にも言っておるのか?』
『まさか!誤解です!誤解ですから!』
『わかったわかった。それにしても、此の者はよほど吉野の桜が咲く時期を気にしておるのだな。それが此の者にとって大切な記憶なのだろう。其方の祝いの席だが、ここは此の者の醜態も大目には見てくれぬか』
そう頼む万葉集女王の真横で、『吉野の桜はもう咲きましたかぁぁっ?!』と袴三つ編みに食ってかかる烏帽子男。
それが、彼の中に残った、大切な記憶。
私は「しょうがないな…」と苦笑いながら、今度はゆったりとした桜の曲を弾きはじめた。
いつか………
いつか、音弥の記憶が彼らのように薄れていってしまったとしても、音弥の中に私や家族のことが残ってくれたらいいのにな。
烏帽子男の中に残った吉野の桜のように、最後まで。
ひそかに浮かべた願いは、ピアノの音色の中に、そっと溶けていった。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




