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正直なところ、その老婦人が生きてる人なのかゴーストなのか、瞬時に判断はできなかった。
というのも、彼らが見えるようになってからというもの、家の外では、彼ら以外のゴーストに出くわすことも多かったからだ。
けれど、どのゴーストも、私に話しかけたり無闇に近付いてきたりはしなかった。
後で聞いた話では、音弥や南先生のおかげによるところが大きいらしい。
どの世界でも、自分より力の強い相手にはほとんどの者が従順なのだ。
中には天乃 流星のように歯向かっていく者もいるのだろけど、そういった輩には音弥や南先生が容赦なかったそうだ。
具体的に何をどうしたのかまでは聞いてないけれど。
だから、今目の前にいる老婦人が少し疲れているように、顔色が悪いように見えても、声をかけることには躊躇してしまった。
だって、私以外にも通行人は大勢いるのに、誰も彼女に声をかけたり気遣わし気な視線を送ったりしていないのだから。
交通量の多い都会ではごく当たり前の風景なのかもしれない。
そういう私だって都会生まれの都会育ちで、人のことは言えないかもしれないし。
でも、私はその女性が、なんだか妙に気になってしょうがなかった。
すると、私の視線を追った軍服マントが『あら、あの女の人、具合でも悪いのかしらね』と呟いたことで、私は彼女を人間認定し、躊躇を霧散させたのだった。
「ちょっと心配だから声かけてみるね」
一応軍服マントに小声で知らせてから、花壇の老婦人に歩き出す。
背後では『まったく、お嬢ちゃんは心配性ねえ』という呆れ声があがっていたけど、聞こえないふりをした。
「………あの、顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
不審者に思われないように、言葉を選びつつ声をかけると、老婦人が俯き加減だった顔をスッと上げた。
高齢の方と接する機会はあまりないので、この女性の年齢を推測するのは難しいけれど、しっかりした眼差しや背筋などは非常に若々しくも感じる。
女性は私と目を合わせるなり、ニコッと微笑んだ。
「まあ、ご親切にどうもありがとう。でも、ちょっと昔を思い出して懐かしんでいただけだから、平気よ。優しいお嬢さん、どうもありがとう」
上品な言葉遣いでハッキリした返事だった。
「そう……なんですか?それなら、よかったですけど……」
どうやら体調が悪いとかではなさそうだ。
余計なお世話だったかなと、私はすぐに失礼しようとした。
けれどその矢先、女性のそばに小さな小さな花束が置かれているのを見つけたのだ。
歩道と車道の境目あたりに、通行人の邪魔にならないほどにひっそりと、でも丁寧に置かれていた。
「………ああ、あれはね、昔の教え子へなの」
私が目を離せなくなってしまった花束を、老婦人は穏やかに説明してくれた。
「教え子……ということは、学校の先生をなさってたんですか?」
学校以外にも師と生徒の関係は成り立つけれど、なんとなく、この人は学校の先生という職業が似合っている気がしたのだ。
「そうなの。すぐ近くにある小学校の教師を定年まで勤め上げたわ」
誇らしげな答えに、私は「そうだったんですか。小学校の…」と納得しきりに返した。
彼女の優しそうな雰囲気は、中学高校よりも小学校や幼稚園向きだなと直感したからだ。
けれど、地面に置かれた花束が意味することを悟ると、そこから話を膨らませることはできなかった。
女性はフゥ…と短い息を吐いた。
「ごめんなさいね、見ず知らずのあなたにそんなお顔をさせてしまって」
「え……そんな顔、ですか?」
「そう。とても心配そうな、悲しそうな顔」
「いえ、別にそういうつもりは……」
首を振ったとき、ずっととなりにいる軍服マントが小声でこそっと言った。
『お嬢ちゃん、この方、お話を聞いてもらいたいんじゃないかしら?』
私もこそっと軍服マントを見上げ、頷く。
「……あの、失礼でなかったら、お聞かせください。ひょっとして、今思い出してらっしゃったのは、昔の教え子さんのことですか?」
プライバシーに踏み込むことは避けて、当たり障りなっそうなところで尋ねた。
すると女性は驚いたように目を大きくさせて
「………ええ、そうなの。学校帰りにあそこで事故に遭って、まだ十にもならないのに人生を終えてしまった男の子のことよ」
静かに、真空の中にいるように緩急も強弱も付けずに告げた。
「10歳にもなってない男の子が……」
私はとっさに弟の文哉が浮かんで、その小さな命が消えてしまうことの恐ろしさに眩暈を覚えた。
「今日はね、その子の月命日なの。数年前まではその子のご両親も月命日にはここにお花を持ってらしたんだけど、今は遠くに引っ越されてしまったから、命日以外は私が代わりに来させてもらってるのよ。ご両親はわざわざ毎月来なくていいですからと仰ったのだけど、私がどうしてもあの子に会いたくて、今日も来させてもらってるの。お墓は、ご両親の故郷の方にあるから、私にはもうここしかあの子と繋がれる場所がないのよ。もうこんな年だし、ずっと続けられるかわからないから、せめて動けるうちはと思ってるの」
そうなんですね……
同情を漂わせそう返事しようとしたものの、小さな侵入者にそれを遮られてしまった。
「あ、先生だ!さようなら!」
「まあ、先生、ご無沙汰しております」
制服姿のランドセルを背負った男の子とその母親と思しき女性が老婦人に挨拶しにやってきたのだ。
定年退職したとはいえ、在職時の教え子と保護者に声をかけられたのなら、見ず知らずの私はここで失礼した方がいい。
私は老婦人に「それじゃ私はこれで…」と耳打ちした。
彼女はにっこりと目を細めると、両手を胸の前で合わせて座ったまま小さくお辞儀した。
「どうもありがとう、心優しいお嬢さん」
私は親子連れに軽く会釈し、その場を立ち去った。
やがて、少し離れたところで、軍服マントがタイミングを待っていたかのように口を開いた。
『何も言わないのね、お嬢ちゃん』
そのひと言に、私は一瞬足を止めそうになって、でも止めずに楽器屋に歩みを続けた。
「………私が知るべきことではないと思ったから」
『でも、偶然知ってしまったことなら、別に約束違反にはならないと思うわよ?』
「それでもよ。それに、真相が確定できたわけでもないし、例え確定したとしても、だからってどうするわけでもないし。だったら、何も言わない、気付かない方がいいのよ」
軍服マントは私の歩幅にあわせて歩きながら『それもそうね』と同意をくれた。
そのうえで、
『でも、だから坊やはあんなことを言ったのね』
まるでひとり言のように呟いた。
「………あの子も、立派な心配性ってことよね」
私も、ひとり言のように感想を述べた。
さっきの小さな侵入者が着ていた制服は、”小学生男子” が着ているものと同じだったのだ。
彼がどういう経緯でゴーストになったのかはわからない。
そもそも、それを本人がまだ覚えているのかどうかも定かではない。
でも、私が今向かっている楽器店の名前を、彼は知っているようだった。
だったら、さっき玄関で見送ってくれた彼の言葉は、単なる偶然にも思えなくて………
………やめよう
勝手な憶測は、するだけ無駄だ。
………だけど
先生も、親御さんも、ずっとあの子のことを想っているのだと、その想いが、本人に伝わってるといいな。
そう願いながら、もう夕方に差し掛かりそうな街を急ぎ足で歩いていったのだった。




