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それは、いかにもツンデレな彼らしい見送りのセリフだった。
『まったく、あの坊やったら素直じゃないんだから。でもそこが可愛らしいのよねえ』
家を出てから、軍服マントがクスクス笑いながら言った。
小学生男子の姿が完全に見えなくなるのを待ったのは、出発時間をこれ以上遅らせたくない私には大正解だった。
「でも、なんだかいつもよりしおらしいようにも見えたけど。私の気のせいかな?」
彼がツンツンしてるのはいつものことだけど、さっきはちょっとだけ元気がないようにも感じたのだ。
『そうねえ、そう言われてみれば、そんな気もするかも……しれないことはないかもしれないわねえ』
「……どっちなのよ」
『うふふ。お嬢ちゃんはいちいち真面目に受け取りすぎなのよ。もっと適当に生きなくちゃ。あらやだ、アタシったら死んでるくせによく言うわね。ほらほらお嬢ちゃん、ここは笑うところよ?』
「……どこで笑うのよ」
『でもそんなことより、さっき坊やも言ってたみたいに、受験が目の前に迫ってる今になって、新しい楽譜が必要なの?そりゃ、息抜きも必要だとは思うけれど』
軍服マントがふわりと笑みを減らして尋ねてきた。
確かに、そう疑問に思うのも無理はないだろう。
これが一般的な楽譜だったら、受験の直前にずいぶん余裕だなと私でも思うはずだ。
けれど
「楽譜といっても、初見問題集だから」
一般的にはあまり知られてないであろう楽譜の名前を告げてみた。
すると軍服マントは『ああ、なるほど』とすぐに納得したのだ。
「やっぱり、役者さんともなると、音楽関係にも詳しいんだ?前に大学の友達に初見問題が苦手だって話したことがあったんだけど、その子はすぐにはわからないみたいだったんだよね」
『あらそうなの?そうねえ、アタシはお芝居以外にもボイトレや声楽なんかも習ってたし、オーディションでは初見視唱とかもしょっちゅうだったもの。でも、音楽をプレイする側じゃなかった人にとったら、あまり馴染みのある言葉ではないのかもしれないわね。もちろん、ちょっと考えれば、その文字からすぐに気付くんでしょうけど』
”オーディション”
元俳優なら、それは日常の出来事だったのだろう。
だけど私は、わずかばかりにビクリとしていた。
軍服マントが具体的に以前の暮らしぶりを口にしたせいだ。
彼らは徐々に生前の記憶が薄れていくそうで、毎日騒がしく繰り広げられるおしゃべりの中でも、当時のことが話題にあがっているのはあまり聞かなかった。
話したくても忘れてしまって話せないのか、意識無意識にかかわらず避けているのか。
ハラさんこと南先生からは、生前の自分を知る人間の近くにいることは禁じられていても、話をするなとまでは言われてないようで、たまに、かろうじて記憶に残っているエピソードを誰かが持ち出すと、私は彼らの死をリアルに感じてささやかに胸がつまってしまうのだった。
いい加減、慣れてきてもいい頃なのにな……
私は、自分の知らない彼らの過去の気配が、ほんの少し怖いのかもしれない。
”気の毒” だとか、”かわいそうに…” とか、そんな感情を彼らに向けたくはなかったから。
「………そうだね」
半分空気が入ってないような同意だったけれど、勘のいい軍服マントはあえて突っ込んだりはしてこなかった。
『でも、初見の練習なら、わざわざ新しく買わなくてもお家に残ってる弟さんの楽譜を借りたらいいんじゃないかしら?』
適度に話題を移行した軍服マントに、私はいくらかホッとしながら答えた。
「それはそうなんだけど、やっぱり一度でも譜読みした曲は、純粋には初見練習にはならないから……」
『ま、それもそうね。でも、ということはつまり、お嬢ちゃんがこれまで一度も見たことも聴いたこともない曲の楽譜だったら、初見練習になるということよね?』
突然、閃いたようにパッと表情を弾ませる軍服マント。
「まあ、そうなるけど……」
彼らが妙に張り切るときは、何かしらの厄介を引き連れてくるので、警戒は怠らない方がいい。
私は密やかに心を構えた。
そしてそんな私の内心をよそに、軍服マントは意気揚々と提案したのだった。
『じゃあ、アタシが作ってあげるわよ。お嬢ちゃんの初見の練習問題』
「え……?作曲、できるの?言っとくけど、右手のメロディーだけとかじゃなくて、ちゃんと両手用だよ?」
『もちろんよ。ちょっと時間をもらったら、パパッと作っちゃうわよ?』
軍服マントは自信満々だ。
「本当にできるの?……でも、作ったとしても、どうやって楽譜に起こすつもり………ああそっか、私がペンと譜面を手渡せばいいんだ?」
『正解。うふふふ、いいこと考えついたでしょ?帰ったら早速渡してくれるかしら?』
「それは構わないけど………じゃあ、お願いしようかな」
軍服マントの作曲スキルはまったくの予測不明だけど、何であれ、色んなタイプの曲を経験しておくのはいいことだ。
「あ、でも、あまり長いのは初見練習には向かないから、なるべく短めに作ってね?あと、コードとかテンポとかもなるべく種類多めにしてもらえると有難いんだけど」
せっかくならとリクエストを付け加えると、軍服マントは『任せて!』と胸を叩いた。
そんなことを話してるうちに私達は駅に着き、人目も増えてきたので、軍服マントはおしゃべりを一休みさせ、私の隣にただ付き添うボディガードとなって一緒に電車に乗り込んだのだった。
目当ての楽器屋までは前に通っていた大学と同じルートなので、懐かしく感じながら私は電車に揺られていた。
帰宅ラッシュまではまだ早い時間帯ということもあり、そこまでの混雑は見られない。
この様子だったら、軍服マントとも小声でなら会話できそうだけど、とりあえず電車内では互いに無言で通した。
それでも、電車を降り、ホリデーシーズンのクライマックスを迎えようとしていたターミナル駅の装飾を目にした途端、どちらからともなく「わあ、きれい…」『今年も素敵ねえ…』と感嘆の声が漏れたのだった。
それから二人で顔を見合わせ、クスッと笑い合う。
軍服マントを認識できない周囲の人から見たら、私は一人で思い出し笑いでも浮かべてると思われるのかもしれないけど、ここ都会のど真ん中では、そこまで通りすがりの他人に注目してる人もいなそうだ。
だから私達は、駅から楽器屋までの道すがら、この時季ならではの街景色を味わいながら、時々小声で感想を交わしていった。
ところが、交差点の信号待ちで立ち止まった際、近くにある腰高ほどの花壇の縁に頼りなく腰掛けている老婦人を見かけると、なんだか無性に気になってしまい、おしゃべりが急停止したのだった。




