風の便り
ジップロックの中に牛乳を百ミリリットル、卵を一つ、砂糖を小さじ一、塩コショウを思う存分入れ、ジッパーを閉める。さながら男の睾丸を愛撫するように、優しく卵を揉み崩しながら全体をよく混ぜる。卵液が完成したら食パンを入れ、空気を抜きながら再びジッパーを閉め、両面がよく浸るようにひっくり返したり僅かに残っている空気を利用して卵液を移動させたりして、納得のいく浸り具合になったら冷蔵庫の扉ポケットの牛乳の奥に、隠すように立てる。
明日の朝はこのためだけに来ればいい。
六畳の部屋と廊下兼キッチンしか機能がない部屋で暮らし始めて四年目の春が来る。一緒に暮らしていた夫は何者かに殺された。親兄弟も小さい頃に事故で亡くなり、飼っていた猫は気付いたら隣の家の猫になっていた。たった一人で、僅かな貯金で生活をしていくより他に選択肢がなかった。
今日はもうシャワーも済ませてある上、珍しく夕飯をきちんと作って食べたため、言いようのない幸福感に満たされている。だから久しぶりに、フレンチトーストなんてものが食べたくなり、下準備をしたのだった。寝間着に着替え、布団に入り、豆電球に切り替える。
***
不意に意識が冷たくなる。隣に夫と飼い猫が寝ていることを確認して安堵する。まだ肌寒いはずなのに、額から汗が伝って来た地肌が、うっすらと濡れている。まだ暗い。時計の針は、カチコチカチコチ。
声をかけて呼び起こそうとして、やめる。夫は今日、長期出張から帰ってきたばかりだ。酷く疲れた様子で眠りについた。代わりにぎゅ、と抱きついて深呼吸する。
ここのところ悪夢とまではいかない悪夢を、毎晩のように見る。外では風がひゅうひゅうと鳴っている。窓には雨が打ち付けている。昨日ニュースで嵐の予報がやっていたことを思い出す。
外では誰かが喧嘩をしているようだった。酷く甲高い声が鬱蒼とした夜の闇の中から聞こえる。耳を聳てると、会話が聞こえる。
「なあ、一晩だけなんだよ。助けてくれよ」
「私としては入れてあげたい気持ちは山々なのですが、この辺りを仕切っているお方の命令で、誰も入れてあげられないのです。申し訳ない」
「俺、ここにいたら死んじまうよ……なあ、ここに土産物なら沢山あるんだ。好きなだけ持って行って構わねえから、頼むよ」
「申し訳ありません」
気付くと窓にへばりついて外の様子を窺っていた。音を聴いているよりもずっと、外は酷い状況だった。向かいの家がよく見えて、何故か懐かしさを感じる。
どうやら宿がなく困っている様子だ。まだ小さいが、しっかりしている。しかし、長時間この雨に晒されては、どんなに強靭でも風邪をひいて死に至る。
私にも経験がある。心細さと寒さと飢えで、いっそのこと死んでしまった方が楽になれるのかもしれない、という思考にさせられる。宿に入れられない事情もよく分かる。自分以外の匂いがつくのは許せないというボスが仕切っているエリアだと、もう取り付く島もない。私はただ安全な場所からそのやり取りを見つめているばかりだ。
尋ねものは、どうやら向かいの家で風雨を凌ぐことに決めたようだった。魚と鼠の死骸を咥えて、軒下へと逃げ込む。酷く震えているようにも見えた。そして、私は気がつくと屋根裏を抜けて、尋ねものを追いかけていた。
「こっちへ来て。そこじゃあ明日の朝には風邪を拗らせて死んでしまうかもしれない」
「きみは?」
私は質問には答えず、迷わず入り口から三番目のドアノブに手を掛ける。ドアは重く、全体重を掛けて引くが、開かない。「ねえ、そのドアは開かないんじゃ……」「ちょっと黙ってて」
尋ねものは魚と鼠の死骸を抱え、不安げな視線を送り続ける。その姿は、ずっと思い出さないようにしていた、弟の存在を彷彿とさせた。私の下僕も親や兄弟がいないって、泣いてたな。夫がいなくなってからご飯が貰えなくなってしまったから、お腹を満たすためだけにあの家には居座っていたけれど、下僕のことが本当は心配で心配でたまらなかった。
そうだわ、ここが私の縄張りじゃない。私の家じゃない。
ドアノブをガチャリガチャリと繰り返しているうちに、隣にあった擦りガラスに灯りが灯る。目の前の景色がうっすらと歪んで見えるのは、きっと雨のせいだ。「とりあえず今咥えているものは、すべてここに捨てていって」
***
ドアを開けると、そこには隣の猫になったはずの私の猫と、雨で弱り切っている子猫がいた。私はすぐにドアを全開にした。ただいまと言わんばかりに堂々と入ってくる私の猫と、きょろきょろしながらも入ってくる子猫が、今までの不運なことは全部なかったのだと錯覚させる。この調子で、もしかしたら旦那も帰ってくるかもしれない。
「みゅう……?」
にゃあん。
私は謝りたい気持ちと泣きたい気持ちと抱き上げたい気持ちを抑えて、急いでバスタオルを取りにお風呂場に向かい、牛乳をレンジに放り込んだ。玄関に戻り、二匹を一緒に拭いてやると、喉を鳴らし、心なしか微笑んでいるようにさえ見えた。
「おかえり」
にゃあ、と鳴くみゅうの真っ白な毛の中に、ふと短い髪の毛がくっ付いているのを見つけた。見覚えがある、太くて硬い、直毛。外では風が威力を増し、雨粒がぱしぱしと窓に当たっては砕けてゆく。
「ねえ、みゅう。あの家にいるのかしら?」