姉が傘を買った
最近傘を買ったので書きました。
姉が、傘を買ってきた。
何の変哲もない、ビニール傘だった。
持ち手と、骨組みと、雨垂れと、ボタンだけが黒い、半透明のビニール傘。
百均で買った、三百円のビニール傘。
姉の傘は、これで三本目。ついに姉は、三本の傘の所有者になった。
ただ、一番古い一本は車の中に、もう一本は最近傘が壊れた母がこっそり使っていた。
ある朝、自分の傘が一本も見当たらないことに気づいた姉は、バイトの帰り道に傘を買ってきた。
「これ、共用の傘ね」
そう言って、姉は玄関の傘立てにビニール傘を飾った。薄汚れた色の布の傘の群れの中、たった一本だけのビニール傘。
何故か、とても眩しく見えた。
*
ある雨の日、コンビニに行こうと傘立てを見ると、傘がなかった。
学校に傘を忘れてきたので、共用と言われたビニール傘を使おうとしたのに、どこにもなかった。
姉の傘は母が買い物に連れていったのだろうが、当の姉は家にいるはずだから、あのビニール傘は残っているはずだった。
姉に聞こうと、部屋に向かうと、物が散乱した部屋の真ん中で、姉は油性ペンを持って、ビニール傘に絵を描いていた。
「何してるの」
「落書きしてる」
姉の奇行は、今に始まったことではない。姉は、昔からどこかズレた行動をする人だった。
傘の縁を水色で彩り、ポツリポツリと猫だか犬だかの肉球を黒で描く。頼むから、ハートだけは止めてくれよ、と内心で呟く。
「できた」
満足げに傘を掲げた姉。ささやかに色づいたビニール傘。
姉は、そこらに落ちていた雑誌でパタパタとおざなりに扇いで乾かすと、くるくると畳んで手渡してきた。それを傘立てに戻すと、自分の部屋に戻った。
結局、コンビニには行かなかった。
*
ある日、姉はずぶ濡れで帰ってきた。
今朝、その手に持っていたビニール傘は、どこにもなかった。
半分呆れたような顔でタオルを差し出しつつ母が、どうしたの、と聞くと。
「傘、失くしちゃったぁ」
と姉は笑った。苦笑いにも、微笑みにも見える、変な笑顔だった。
母は、あらまそう、と興味なさげに答えると姉を風呂へと追い立てた。
数日後、街で姉の傘を見かけた。
小さな子どもを抱えた、若いお母さんが差していた。親子で、姉の傘の下で、楽しそうに笑っていた。
姉は、本当に傘を失くしたのだろうか?
本当は、譲ったのではないか?
本当は、盗まれたのではないか?
そんなことを考えている内に、親子の姿は見えなくなっていた。
翌日、梅雨明け宣言をニュースで聞いた。
あの傘を見ることは、二度となかった。
*
しばらくして、姉が傘を買った。
また、何の変哲もない、ビニール傘だった。
このビニール傘も、いつか眩しく見える日が来るのだろうか。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。