とある少女の世界
ジリリリリッ
目覚まし時計のけたたましい音が頭上で鳴り響いた。
まだぼんやりとした意識の中、少女は手を伸ばす。手探りで時計を見つけると慣れた手つきでその音を止めた。
「――んーーーー……」
止めたその手で目覚まし時計を間近に引き寄せると、鉛のように重い―少女にはそう感じられた―瞼を微かに開いて文字盤を眺めた。
――八時を示している。
いつも通りの時間。
いつも通りの不愉快な朝だ。
「ぅ、うーーっ、ん! ふあぁあ……よく寝たぁ」
伸びをすると、特に意味もなくそんな言葉が口をついた。
ベッドのすぐ傍の窓からは、眩いばかりの光が射し込んでいる。
少女は素早く制服に着替えると、簡単な朝食を作り始めた。フライパンにハムと卵を落とし込む。
焼きあがったものを皿の上に移した直後、チン、という小気味よい音とともに食パンがトースターから飛び出した。
香ばしい香りが部屋の中に広がる。
今日も一日が始まる。
BGM代わりにテレビを点けると、少女はゆっくりと食事を始めた。
ニュースを読み上げるアナウンサーの声を適当に聞き流しながら食パンにかじりつく。
やがて、少女が食事を終え、テレビ画面の左上を見つめると、ちょうど時刻表示が8:29から8:30に変わるところだった。
「やば! 遅刻だッ」
少女は急いでカバンを手に取ると、慌てた様子で玄関へ向かった。靴を突っ掛けてドアノブを捻る。
「行ってきまーす!」
誰にともなく叫びながら、一歩前に足を踏み出した。その瞬間、視界のすべてを光が包みこんでいった。
「ただいま」
気が付くと、目の前にひとりの少年が立っていた。見たところ、年齢は自分とそう違わない。少し茶色がかった黒髪に既視感を覚えた。
「……何してんの? 玄関に突っ立って」
「……へ?」
少女は、玄関に立て掛けてある姿見で自分の姿を確認した。
制服じゃない。
私服というか……いつもの格好だ。……いつもの?
それよりも……
「……いつ着替えたんだっけ……?」
少年が笑った。
「知らないよ」
少年はそう言って靴を脱ぎ捨てると、さも当然のように勝手に家に上がりこんできた。
「ちょっと……なに勝手に……タケル!!」
……タ……ケ……ル……?
当の少年は、少女がそう呼ぶと弾かれたように即座に振り向いた。
その顔には驚愕の色が浮かんでいた。少女にはそう思えた。
少年はすぐに笑顔を作って
「なに? 姉ちゃん」
と笑いかけてくる。
そう。この少年の名はタケル。少女の弟だ。
少女は、その笑顔と名前に不思議な懐かしさを感じていた。
おかしな話だ。毎日顔を合わせているはずなのに……。しかし、そんな感情の動きもすぐにフェードアウトしていった。
「タケル。ちゃんと靴ぐらい揃えなさいよ」
『いつもの』ように小言を言う。
「うっさいなぁ。姉ちゃん、やっといてよ」
タケルは面倒くさそうに、しかし、どこか嬉しそうに背中越しに呟き、そのまま少女を置いてリビングへ入っていった。
すぐに、テレビの――バラエティ番組かなにかの騒がしい音が、部屋の中から零れてきた。
「……タケル……タケルか。」
少年が、確かめるようにそう呟いたことを少女は知らない。
――弟じゃん。
どうして分からなかったのだろう。少女には、一瞬とはいえ、弟のことを忘れていた自分が信じられなかった。
……どうしたんだろ、アタシ……疲れてんのかな――
さっ、とタケルの靴を揃えると少女も後に続いた。
部屋の中は、窓から射し込む光で赤く染まっていた。
少女はイスに腰掛け、見るともなくテレビ画面を見つめた。
予想と違い、お笑い番組のようだ。タケルはそれを見て、時折クスクスと笑っているが……。彼女にはそれの何が面白いのかが分からない。特に最近は、同じようなものばかりのように思えた。
おもむろに弟に話しかける。
「タケル……上着、自分の部屋に持って行きな。それに、手、洗ってないでしょ」
しばらくして、面倒くさそうに立ち上がったタケルは上着を掴んだ。
「うるっさいなぁ……母さんみたいなこと言わないでよ」
……母さん?
そういえば、母さんは?
母さんだけではない。父さんもだ。
アタシ達にはちゃんと両親がいる。離れて暮らしている訳でも、旅行中でもない。
では、どこへ行ったのか。……見当もつかなかった。
ふと気が付くと、タケルが不思議そうにこっちを見ている。
「……どうしたの?」
「……え? ううん……別に――」
タケルに聞いてみようかとも思ったが、上手く言葉にならなかった。
タケルは
「変なの」と呟くと、リビングから出て行った。
――父さん。
――母さん。
……顔も思い出せなかった。
窓の外がすっかり暗くなっているのを見て、少女は慌てて夕食の準備を始めた。今夜のメニューはオムライスの予定だった。
しかし。
「ああッ……卵、一個しかなぁい!!」
頭を抱えて叫んだ。
冷蔵庫の中には卵が一個。かといっていまさら他の料理に変えるには、材料が足りない。
タケルが駆け寄ってくる。
「うっそ!? どうすんの?」
「どう……って……買ってくるしかないじゃない」
「え」
タケルが驚いた。
……驚くようなことは言っていないつもりだけど。
「なによ?」
タケルは困ったような顔になったが、すぐに、笑顔を作って
「驚かないで」
そう言った。やけに真剣な様子で、少女は少したじろいだ。
「驚く? なにに?」
その質問に、タケルは視線を彷徨わせ、おどけた調子で
「……外、大雨だからさ!」
雨粒が窓を叩く音が聞こえてきた。
と同時に、タケルは背を向けリビングへと戻っていく。
相変わらずのお笑い番組の音が漏れ出してきた。
「……行ってくるか」
さっきのは……なんだったのだろう。
あそこまで真剣な弟の顔を少女は見たことがなかった。
「驚かないで」
少年の呟いた言葉を頭の中で反芻しながら、少女は傘立てから赤い傘を選んで手に取り、ドアノブを捻った。
雨音の中、視界のすべてを光が包みこんでいった。
「遅いよ姉ちゃん! 何してたんだよ!?」
「へ?」
玄関にタケルが仁王立ちしている。少女はというと、右手にスーパーのビニール袋を提げ、上から下までずぶ濡れになっている。
「あれ……? な、に……してたん、だっ……け?」
頭がぼんやりして上手く思い出せない。扉越しに微かに雨音が聞こえる。
――雨?
「……いいからッ! あ〜あーもう、ビッショビショじゃんか! こりゃあ拭くだけ無駄だね。そのまま、風呂!」
ビシッ、と風呂場の方を指差したタケルに促され、少女は洗面所兼脱衣所に入った。
少女は湯船に浸かりながら、出かけてから帰るまでのことを必死に思い出そうとしていた。
冷えきった身体が、ジーン、と痺れるような感覚に耐えつつ、左上に視線を投げて記憶を探る。
――雨の中。
赤い傘を差して、少女は小走りに駆けていく。
近所のスーパーに駆け込むと、畳んだ傘を傘立てに投げ込み、卵のパックを二つ引っ掴んでレジに並ぶ。
スーパーから出ると雨が上がっており、傘を取るのをつい忘れてしまう。
帰り道で、再び降り出した雨――その中を全力疾走して帰ってきた。
そうだったそうだった、と一度は納得してみたものの、違和感が纏わりつく。
思い出した、というよりは、今考えた感じだった。外出の目的と帰ったときの状況から想像したにすぎない。
その記憶には、なんの実感もなく、現実味の欠片もない。
……そういえば、最近はずっとこんな風だった。
記憶が飛んでしまう。それに気づいて、けど思い出そうとすれば思い出せる。しかし、それはかなり曖昧で不確かな映像――
――そう。喩えるなら、夢の中の出来事を思い出そうとするような――。
霧の中に迷い込んだかのようだった。
一度考え出すと、わからないこと、思い出せないことがいくつも浮かんできた。
毎日、学校に通っているのに、何をしてきたのか漠然としか覚えていない。それどころか友達の顔さえ思い出せない。
両親のこともそうだ。家にいない理由もわからない。
はっきりとした記憶はここ数日の、しかも家の中でのものだけで、それ以前のものはかなり朧気だ。人間の記憶なんてそんなものだ、と言われればそれまでだが……
――なにか……しっくりこない。
言い知れぬ不安に苛まれる。お湯は温かいのに、妙に寒々しい。自分という存在がとても曖昧なものに変わってしまったような気さえする。
無意識に自分の肩を抱いていた。
しばらく湯船の中で震えていた少女だったが、ようやく落ち着きを取り戻すと、ふと、素朴な疑問が頭に浮かんだ。
そういえばタケル……今朝、家に居なかったな。と。
何かが変だ。が、それが何なのかがわからない。
「あれ? タケルって名前、どんな字書いたっけ……?」
――!? 名前!?
それに思い至った瞬間、あまりの衝撃に少女は立ち上がった。
――アタシは――――誰だ……?
――数時間後、
食事を終えた少女は眠くなったと弟に告げ、二階にある自分の部屋へと向かった。
もちろん、眠るためではない。
階段を上りきると、目の前にはタケルの部屋、右手に少女の部屋がある。
少女は自分の部屋に入ると、すぐに学生カバンに駆け寄った。逆さに振って中の物を乱暴に放り出す。
「……ない」
カバンの中に入っていた教科書、ノート、その他の文具類。そのすべてに名前が記されていない。学生証も見当たらない。
他の場所も手当たり次第に探した。
勉強机。
「ない」
本棚。
「ないッ」
クローゼット。
「……ないッ」
どこを探しても自分の名を記したものが見つからない。
――存在を否定された気がした。今……確かにここに存在しているはずの自分が、酷く薄弱なものに思えてしまう。
……タケル。……タケルはどうなんだろう?
アタシと同じように、名前が消えているだろうか?
もし、タケルの名前が消えずに残っているのなら、それを見ることで、少なくとも苗字は思い出せる……はずだ。それがきっかけとなって、他のことも少しは思い出せるかもしれない。
安易な期待を抱いて、少女の足は、自然、タケルの部屋に向いた。
部屋の中は真っ暗だ。誰もいないのだから当たり前といえば当たり前だろう。
壁に手を沿わせ、明かりのスイッチを探すがなかなか見つからない。
いや……それ以前に――
その瞬間、少女は気づいてしまった。――スイッチを探していた手が硬直する。
壁に触れているはずの手の平には、何の感触もない。
視界に入るのは、漆黒の闇だけだ。
――ゆっくりと後ろを振り返ってみる。
廊下の天井。その真ん中辺りについている白熱電球が、淡い光を放っている。
その光は、廊下の天井を照らし、壁を照らし、床を照らし、
そして、部屋の入り口で見事に切れていた。
部屋の中ほどまで後退すると、廊下はまるで真っ黒な壁に縁取られた一枚の絵のようだ。
――なんだ、これは。
悪い夢でも見ているようだ。
普通、人間の目は光源のほとんどない状況でも、時間の経過とともに徐々に物の輪郭ぐらいは見えるようになっていくものだろう。と、思う。まして、いまは廊下からの光がある。
視線を落としてみるが、何も見えはしなかった。ドアが開いていなかったら、どっちを向いているのかさえわからなくなりそうだ。
急に怖ろしくなって、アタシはすぐに部屋を飛び出した。
ジリリリリッ
目覚まし時計のけたたましい音が頭上で鳴り響く。
ぼんやりとした意識の中、少女はむくっと起き上がる。忙しなく鐘を打ち続ける時計に手を伸ばすと、静かにその音を止めた。
「………」
すべて夢だったら……夢から覚めてくれていればどんなによかったか……。
しかし、これは夢ではない。もし夢だったとしても夢から覚めていない、ということなのだろう。
なぜなら、アタシは何一つ思い出せないままなのだから。
少女は緩慢な動作で制服に着替えると、部屋の扉を開け、ゆっくりと階段を下りていき――違和感を覚えた。
そう。昨日のことだ。
昨日の朝、アタシはどこで目を覚ました?
――リビングだ。そこにはアタシのベッドがあり、目覚まし時計が八時きっかりに鳴り始めた。
しかし、それは本来、二階にあるアタシの部屋の朝の風景であるはず。そこに、昨日のアタシは何の疑問も感じなかったのだ。
――だが、それがなんだというのだ。そんなものは瑣末なことに過ぎない。あのような不可思議な空間を自分の日常に見つけてしまった今となっては。
少女は小さく息を吐いて、再び階段を下りはじめた。
「姉ちゃん、おはよう」
「……おはよう」
タケルはこれ以上ないくらい爽やかな笑顔を浮かべている。少女はその笑顔には応えず、真っ直ぐ冷蔵庫に向かった。
「?」
タケルはきっと怪訝な表情を浮かべているだろうが、気にしない。
アタシの心には弟への疑念が生まれていた。
あの部屋は一体なに? アンタは何か知っているの?
問い質したい。けれど――。
冷蔵庫から牛乳を取り出しながら言葉を探す。
「あんたさ……昨日、どこで寝た?」
選びに選んだ挙句、そんな言葉が口をついた。
タケルは、アタシの脳裏に浮かんでいた以上に怪訝な表情になっていた。
「どこって……自分の部屋だけど?」
「……自分の部屋? 嘘……嘘よ、嘘ッ!! あんな所で眠れるわけないじゃない! ふざけないでよッ、いいかげんにしてッ!」
いつの間にか喚き散らしていた。ずっと不安で、怖くて、そういうものが溜まりに溜まった感情が一気に溢れ出すように。
「お母さんもいない、お父さんもいない! あんたもッ……どこか変だし……」
少女はその場にへたり込んだ。俯いて泣きじゃくるその姿は小さな子供のようだ。
もうわけがわからない。何がどうなっているのか……。
「姉ちゃん落ち着いて」
タケルは優しい声をかけながら、近づいてくる。
しかし、少女にその声は届かない。今の少女にとって少年は弟ではない、得体の知れないものでしかなかった。
「ぃやだッ、来ないで! 誰なのよ!? ここはどこ!? もうイヤ、帰りたい……誰か……助けて……」
「姉ちゃん! 落ち着けって姉ちゃん! ……是枝結香ッ!!」
少女の肩が、ビクン、と跳ねた。ゆっくりと涙でぐしゃぐしゃな、しかし憑物の落ちたような顔を上げてタケルを見つめた。
叫んだ本人も驚いた顔になっている。それがゆっくりと笑顔に変わっていく。
「姉ちゃん……!! 思い出したんだね!?」
タケルの手が肩を掴んで揺すってくる。しかし、少女にとってそんなことは完全に意識の外だった。
思い出した。
ようやく思い出せた。
是枝結香。それがアタシの名前だ。不思議なことに、タケルがその名を口にするその前に……いや、同時に思い出したのだ。
聞いてからではない。聞く前にでもない。まるで結香が思い出したことによって、タケルまでも思い出したかのように……。
「アタシの……名は……結香」
少女が感触を確かめるように呟いたその時、バシッ、と音を立てて家中が光った。
光はすぐに収まった。結香は瞼越しにそれを感じ取るとおそるおそる眼を開ける。
開けていく視界には先ほどとは比べ物にならない数の家具、調度品の数々。しかし、そのすべてに見覚えがある。
部屋の真ん中には笑顔のままのタケルが佇んでいる。そして、その傍らには両親が並んで横たわっている。二人とも深く眠っているようだ。心地よさそうに寝息をたてている。
「……か……あ、さん? とう……さん……」
ひどく懐かしい気がした。
「二人とも、もうすぐ起きるよ」
なんの根拠があってか、タケルがそんなことを口にする。根拠のない自信はコイツの得意技だったが、今は……そういうわけでもないようだ。
「どういうこと?」
「こっち来て」
結香はタケルに手を引かれるままリビングを出て、階段を上り、目の前の部屋へ連れて来られた。
そこには昨日の真っ黒な空間はすでになく、見慣れた弟の部屋あった。
窓の外には、永らく見なかった街の景色が拡がっていた。
特筆すべき点は何もない、どこにでもある平凡な住宅街。
それなのに……
それなのに、どうしてこんなに輝いて見えるのだろう。どうして、自分は涙を流しているのだろう。と、少女は思う。
まだ、すべてを思い出したわけではないのだ。自分の感情の出所がわからない。
窓の外から柔らかい光が射し込んできた。とっくに昇っていたはずの朝日が近隣の家々の屋根から顔を覗かせている。
「もう思い出しているはずだけど、混乱しているだろうからおれが少し整理するね」
逆光のせいで、タケルの表情は窺い知れない。
「この世界は……一度滅びたんだ」
朝日の柔らかい光が徐々に膨れる中、タケルは優しい声で話を続ける。
「先に言っておかないといけないんだけど……おれは、正確にはタケル本人じゃない。それは父さんも母さんも同じ。」
と、割と衝撃的なことを口にする。だが、結香は意外なほど気持ちが落ち着いていた。心のどこかで気づいていた、タケルも両親ももういないのだと。
「おれたちは、姉ちゃんの……是枝結香の記憶によって形成されているんだ。だから、姉ちゃんの知っていることしか知らない」
そこでタケルは一旦間を置いた。結香は、こちらの反応を見ているのだと思い頷いてみせる。
それを見てかタケルは話を再開した。
「原因は……思い出せない。多分、知らないんだと思う。とにかく世界は滅んだ。たったひとりを残して。……それが、姉ちゃんだった」
「アタシ……だけ」
「そう。そして、滅んだはずだった世界の意思、みたいなものが、唯一生き残った生命体である姉ちゃんの記憶から自らを再構築しようとした。姉ちゃんの意思とは関係なく、ね。
世界の意思は、姉ちゃんの記憶の中でも姉ちゃんにとって身近な部分から構築していこうとした。少しずつ少しずつ。
しかし、ここで問題が起きた。姉ちゃんは記憶を、心を閉ざしてしまった。姉ちゃんはきっと認めたくなかったんだよね? 父さんたちや“タケル”が消えてしまったこと。自分ひとりを残して何もかもが失くなってしまったことを。
「………」
「姉ちゃんは受け入れたくない記憶は封印し、その記憶に繋がる可能性のあるすべての人のこと、自分のことさえも忘れた。
忘れて、世界の意思がなんとか記憶から創り出したこの家で何も起きない毎日を生き続けた。
でも、その間も世界の意思は、姉ちゃんがふとした拍子に思い出しそうになるのを見逃さず、少しずつ少しずつ記憶を抽出し、懸命に自らを修復していったんだ。
で、昨日ようやくおれが再生された。おれは姉ちゃんの記憶に基づいた“タケル”だけど、姉ちゃんが一番よく知る他人だからオリジナルにかなり近い……はず。
――父さんたち、友達、クラスメイト。姉ちゃんとの関係の距離っていうのかな? が遠くなるにつれ、本物とのズレはきっと大きくなるんだ。
ま、あまり関係ないけどね。そんなことおれたちも姉ちゃんも気づかない。当然だよね。だって、みんなオリジナルを知らないんだ。おれたちみたいな偽者じゃない姉ちゃんでさえ本物を知らないんだ。
……姉ちゃんの記憶から創られる世界。でも、それにも限界がある。人ひとりが知っている世界なんてたかが知れている。せいぜいこの街ぐらいの範囲でしかない。人が認識できる世界なんてその程度のものだよ。あとは知識や数字でしか知らない。
だから、姉ちゃんの記憶が解放されて元通りに見えるこの世界だけど、ここに存在しているのはこの街だけ。あとは曖昧にぼやけた、視認すらできない空間が広がっているばかりだ。
でも安心して。世界の再構築はそれでは終わらない。知らない場所、行ったことのない場所でもイメージってものがある。人はその場所のことを想像することが出来る。
そして、それが出来るのは姉ちゃんだけじゃない。おれたち創られたものにだってそれは可能なんだ。そうやって一人一人が思い描くことで、世界は少しずつ組み上げられていくんだ」
どんどん膨れ上がっていく光の奔流、それに呑み込まれていくにつれ遠ざかっていく意識のなか、タケルの声だけがはっきりと聞こえた。
「目が覚めた時、今の記憶は残っていない。自分の記憶から世界が創られた、自分が誰かの記憶から創られた、そんな記憶は生きていくうえで邪魔になるだけだから――」
ジリリリリッ
目覚まし時計のけたたましい音が頭上で鳴り響いた。
まだぼんやりとした意識の中、是枝結香は手を伸ばす。手探りで時計を見つけると慣れた手つきでその音を止めた。
「――んーーーー……」
止めたその手で目覚まし時計を間近に引き寄せると、鉛のように重い瞼を微かに開いて文字盤を眺めた。
――八時を示している。
いつも通りの時間。
いつも通りの清々しい朝だ。
「ぅ、うーーっ、ん! ふあぁあ……よく寝たぁ」
伸びをすると、特に意味もなくそんな言葉が口をついた。
ベッドのすぐ傍の窓からは、眩いばかりの光が射し込んでいる。窓から外を見下ろすと、スーツ姿の父さんが道路を歩いていくのが見えた。
少女は素早く制服に着替えると、軽快な足取りで階段を下りていく。
リビングの扉を開けた直後、チン、という小気味よい音とともに食パンがトースターから飛び出した。
香ばしい香りが部屋の中に広がる。
食パンを皿に乗せ、テーブルに運ぶ途中の母さんが結香に気づいて「おはよう」と柔らかな声で言った。
そのテーブルにはいつものようにパンを齧りながらテレビを見るタケルの姿が。コーヒーのカップに手を伸ばしたタケルと眼が合う。タケルは、ふ、と微笑んだ。
「おはよう、姉ちゃん」
今日も一日が始まる。
拙作をお読み頂き誠にありがとうございました。