前編
「本当の花を知っているかい、ジズ」
ジズのお祖父さんはそう尋ねました。
「花ならそこにあるわ」
ジズはお祖父さんの寝ているベッドの横のテーブルの上、花瓶に挿してある花を指さしました。それは人工植物の花でしたが、幼いジズが唯一知っている花とはそれしかありませんでした。
「ああ、違うんだジズ。あれは本当の花じゃない、まがいものだよ」
「まがい、もの?」
ジズは首を傾げました。お祖父さんはよくジズにはわからない言葉を使うのです。
「嘘っぱちってことさ。ジズ、本当の花はね、あんな水の入っていない花瓶の中では枯れてしまう。本当の花は工場のベルトコンベアの上じゃあなく土の上に咲くんだ」
「でもそれってとっても不自由だわ。水や土がなければ枯れてしまうなんて」
ジズは得意げに最近学校で習ったばかりの不自由という言葉を使いました。土というものがどんなものなのか、それを見たことのないジズにはさっぱりでしたが。
「そうさ、とても不自由で儚いものだ。だからこそ価値があるんだとわたしは思うんだよ」
お祖父さんは何かを懐かしむような顔をして言いました。
「だから昔の人々は花に想いを託した。人の想いっていうのもまた、不自由で儚いものだからね」
「それならこの花も本当の花よ。だってお母さんが『お祖父ちゃんの病気が早く治りますように』って買ってきたんだもの」
ジズの無邪気な言葉にお祖父さんは悲しげに笑いました。
「まがいものの花に託せるのは、所詮まがいものの想いだけさ。あの子が本気でそんなことを想うものか」
事実、ジズの母親、つまりお祖父さんの娘が、入院したお祖父さんのお見舞いに来たのはそのまがいものの花を持ってきた一回きりでした。ジズはまだ幼かったので知らされていませんでしたが、お祖父さんとジズの母親との間には深い溝があるようでした。知らされてはいませんでしたが、幼い子というのは人の感情に敏感なもので、ジズはお祖父さんと母親にどうにか仲良くしてほしいと思っていたのです。
「きっとお母さんは本当の花が咲いている場所を知らなかったのよ。だから代わりにわたしが本当の花を見つけるわ。そうすればお母さんの本当の気持ちがお祖父ちゃんに伝わるもの」
お祖父さんは懸命に言い募るジズの栗色の髪の毛を優しく撫でました。
「ありがとう、ジズ。でもいいんだよ。確かに本当の花は美しいものだ。けれどそれは本当の気持ちが込められていなくちゃあ駄目だ。それがなければその美しさのなんと空虚なことだろう」
それっきりお祖父さんは物思いに沈んでしまいましたので、ジズは帰ることにしました。
帰り道、ジズはいつもより周りに気をつけて歩きましたが、本当の花が咲いているところは見つかりませんでした。それもそのはずです。花が育つような土壌など、どこにもありはしなかったのですから。そんなことジズにはわかりようもなかったのですが。
(きっとそうそう簡単には見つからないんだわ)
ジズは思いました。
(本当の花は美しくて価値があるってお祖父ちゃんは言っていたもの。そういうものって誰かに盗られたりしないように大事にしまっておくものよ。お母さんだって綺麗な宝石を鍵のかかる素敵な小箱に入れているし。だから本当の花も誰かが見つからないように大事にしまっているのね)
そこでジズは手始めに母に訊いてみました。
「お母さんは本当の花を見たことはある?」
「ジズ、どうしたの突然? 学校の宿題か何か?」
夕方(しばしば夜)に帰ってくる母はいつも疲れた表情をしています。なのでジズは普段あまり母の負担にならないようにしているのですが、今日はどうしても本当の花について聞いておきたかったのでした。
「ううん、お祖父ちゃんが言っていたの。本当の花が見たいって。それはとっても美しいんですって」 「ふうん、本当の花、ねえ」
ジズの母はそっとテーブルの上の花瓶に目をやりました。そこにはお祖父さんの病室にあるのと同じ花が挿さっていました。
わたしへのあてつけのつもりかしら。
ジズの母は低い声で呟きました。ジズはその言葉の意味はわかりませんでしたが、母の顔が険しくなったことに気づき慌てて言います。
「お祖父ちゃんはきっとお母さんが会いに来てくれなくて寂しいのよ。でも、お母さんはお仕事で忙しいからなかなか行かれないでしょ。だからわたしが本当の花を見つけて、お祖父ちゃんに見せてあげるの」
ジズの母はふと口許を緩めるとジズの頭を優しく撫でます。ジズはそれがお祖父さんにしてもらうのと同じ感触だと思って嬉しくなりました。
「ジズは優しいわね。でも、本当の花なんてわたしもうんと子供の頃に見たっきり。そもそも人工太陽の下では花が育たないから、人工植物が作られたのよ」
ジズの母は窓の外、高く浮かぶ発光体――人工太陽を見上げて言いました。そう、ジズたちの暮らす地下都市では太陽すら人の手によって作られていたのです。
そんな環境で自然に咲く花などあるはずがないと、ジズの母は知っていました。
けれど、本当の花の存在を否定することは同時に幼いジズの優しさをも否定してしまうような気がして、ジズの母は言えませんでした。
「わたしはもうずっと見ていないけれど、どこかに咲いているのかもね」
曖昧に微笑んだ母親にジズはにっこりと笑いかけました。
「それならわたし、絶対に本当の花を見つけてみせるわ」
次の日からジズは色々な人に本当の花のことを尋ねて回りました。
クラスで一番物知りな男の子。
綺麗で賢い担任の先生。
近所の噂好きなおばさん。
いつもおすすめの本を貸してくれる図書館のお兄さん。
誰に訊いてもその答えは同じでした。
「本当の花なんてあるわけがない」
それでもジズは決して、諦めませんでした。
ジズは毎日、学校が終わると色々なところに行っては本当の花を探しました。
近所の公園から薄暗い路地裏まで、ジズは思いつく限りの場所を探しましたが、それでも本当の花が見つかることはありませんでした。
「お祖父ちゃん、本当の花ってどこにあるのかしら?」
お見舞いに現れたジズがそんなことを言うものですから、お祖父さんは驚いてしまいました。
「ジズ、もしかして本当の花を探してくれているのかい?」
「そうなの! わたしが本当の花を見つけてみせるから、お祖父ちゃんはもう少ししんぼうしていてね」
ジズはそう言いましたが、本当は見つかる見込みなど全然ないのです。
「ありがとう、ジズ。でも見つけるのは大変じゃないかい?」
お祖父さんは優しげに目を細めてジズを見ます。けれどその瞳は、ジズの姿に他の誰かの影を重ねているようでもありました。
「全然見つからないのよ。あっ、そうだわ。本当の花にもたくさん種類があるのよね? それならお祖父ちゃんの好きな花を教えて。そうすればきっと、うんと見つけやすくなるわ」
ジズは自分でも名案を閃いたと思いました。
お祖父さんは顎に手を当てて考え込みました。けれどジズにはそれが考えるフリだということがわかっていました。それというのも、お祖父さんは答えを持っていても、それを言いたくない時には顎に手を当てていかにも考えているようなポーズをするのです。
しばしそうやって黙っていたお祖父さんは、とうとう口を開きました。
「昔はね、ヒースという花が好きだったんだよ。荒野に咲く寂しい花さ。だけど、いつだったかある人が白くて綺麗な花をプレゼントしてくれたんだ。普段そんなことをするような人じゃなかったから自分でも驚くくらい嬉しくてね。それ以来、その花が一番好きなんだよ」
お祖父さんはどこか恥ずかしそうに、けれど嬉しさを思い出しているように語りました。だからジズはその花をプレゼントした人はきっとお祖父さんの大切な人なのだろうな、と思いました。
「その花はなんていう花なの?」
「その花の名はね――」
お祖父さんはとても大事そうにその花の名をジズに告げました。
お祖父さんの好きな花を聞いてから、ジズは街の図書館に花に関する本を借りに行きました。色々と知っておいた方が探しやすいと思ったからです。ところがいくら探しても本当の花に関する本はありませんでした。
「花についての本っていったらこれくらいしかないな」
図書館のお兄さんは人工植物の花のカタログをジズに渡しながら頭をかきました。
「ごめんね、ジズ」
「ううん、大丈夫よ。花の種類を見るだけならこれでも足りるもの」
本当は花の咲く場所などの情報が少しでもほしかったのですが、ジズはいつも優しくしてくれるお兄さんにわがままを言いたくありませんでした。
「ありがとう、お兄さん」
「うん、本当の花が見つかるといいね」
お兄さんに手を振って別れた後、ジズは家に帰って早速そのカタログを開いてみました。
色鮮やかな花の写真が何ページも続いていて、ジズは目的を忘れて見入ってしまいそうになりました。本当の花を見たことのないジズの目には、まがいものの、人工植物の花だって十分美しく映ったのです。
そんな状態のジズでしたから、お祖父さんの好きな花を見つけるまでに色々と目移りしてしまって、お目当ての花のページを探し当てる頃には日が落ちてから随分経っていました。
そろそろお母さんが帰ってくる時間だわ、と空想のお花畑から我が家の居間に帰ってきたジズが思っていると、折しもジズの母が帰ってくる足音が聞こえてきました。
「あら、ジズ。何を見ているの」
帰ってきたジズの母はそう尋ねながらテーブルの上に広げられた本を覗き込みました。
「あのね、お祖父ちゃんの好きな花を教えてもらったから、どんな花なのか図書館で借りた本で調べていたの」ジズは開いているページの花の写真を指さしました。「丁度お祖父ちゃんの好きな花を見つけたところなのよ」
ところがジズの母はジズの説明をほとんど聞いていない様子でした。
「……この花」ジズの母は瞬きもせずに花の写真を見つめています。「この花が好きだって言っていたの……?」
「ええ、そうよ。お母さん、どうしたの?」
ジズの母は一瞬、呼吸を忘れたように立ち尽くしました。
「そんな、嘘よ……もう覚えてもいないと思っていたのに」
か細い吐息とともに吐き出された言葉は震えていました。
ジズはわけがわからず、母親を見つめます。母の顔は幼い少女のように頼りなく、怯えているように見えました。
「お母さんはお祖父ちゃんの好きな花のことを知っているの?」
ジズの問いかけにジズの母ははっと我に返りました。
「知っている……というか。昔、あげたことがあるのよ。お祖父ちゃんに、この花を」
ジズの母はそう言って指先で写真の花をなぞりました。思い出の輪郭に触れるように、そっと。
「それじゃあ、お祖父ちゃんの言っていた人はお母さんだったのね! ねえ、お祖父ちゃんは言っていたのよ、昔ある人がプレゼントしてくれたからこの花が好きになったって」
「……いいえ、きっと何かの間違いよ。あの人がこの花を好きなわけないわ」
ジズの言葉にジズの母は首を振りました。そこから堪えきれずに零れ落ちた悲しみの匂いにジズは気づきました。そして優しい口調で問いかけます。
「どうして? 何があったの?」
「……嫌いって言ったのよ。お見舞いにこの花を持っていった時に」
ジズの母はテーブルの上の花瓶に視線を向けました。
その段になってようやく、ジズはそれがお祖父さんの好きな花だと気づきました。同じ花がお祖父さんの病室にあつたことにも。
「でも、そんなはずないわ。わたしに好きな花の話をしてくれた時、とても優しい目をしていたんだもの。嘘なわけないわ」
ジズは、できることならあの時のお祖父さんの表情をジズの母にも知ってもらいたいと思いました。そうすれば、お祖父さんがこの花を、そしてそれをプレゼントしてくれた人のことも大好きだとわかるはずなのです。
ジズの母だってそれが本当だと思いたい気持ちはありました。けれど、長年のうちに凝り固まった心は、お祖父さんに対して素直な温かい気持ちを持つことをなかなか許さなかったのです。
ジズの母は昔、お祖父さんに花を贈った時のことを思い出していました。幼いうちに母親を亡くし、お祖父さんの男手一つだけで育てられた彼女は、片親故に周囲から心無い言葉をかけられることがありました。そんな時、お祖父さんは決まって「ごめんな、ごめんなあ」と謝るのです。ジズの母はちっともお祖父さんを責めたりしないのに――むしろ一人で自分を育ててくれることに感謝していたのです――悲しい顔をするお祖父さんが、どうしたら笑顔になってくれるか考えた末に選んだのが、花を贈るというものでした。
幼かったジズの母が真っ白い綺麗な花を手渡すと、お祖父さんはおっかなびっくりそれを受け取りました。どうやって触ったらいいかわからない、といった風情で困り顔のお祖父さんを見て、ジズの母は可笑しくて笑ってしまいました。するとお祖父さんもちょっぴり困り眉のまま、それでも嬉しそうに笑ってくれたのです。
ところが時が経ち、ジズの母親がお祖父さんの反対を押し切って結婚して以来、彼らの間には溝ができてしまいました。その溝は徐々に深く長くなっていきましたが、生まれたばかりのジズを置いてジズの父親が亡くなったことで、ジズの母はお祖父さんに頼る外なくなりました。お祖父さんも片親のジズを不憫に思ったのかジズたち母子を迎え入れましたが、一緒に暮らしていても二人の間には溝がぽっかり口を開けたまま、歪な関係だったのです。それでもジズは心身ともに健やかな、素直で愛らしい少女に育ちました。互いに歩み寄ることはなくとも、ジズの母もお祖父さんも、真っすぐにジズを愛していたからです。
お祖父さんは父親の代わりにジズを色々なところへ連れて行ってあげました。色々なお話を聞かせてあげ、いつだってジズの舌っ足らずな話を優しく聞いてあげました。
ジズの母は、どんなに仕事が忙しく疲れていたとしても、ジズのために真心を込めてご飯を作ってあげました。ジズのお遊戯会や運動会には、どんなに遅くなっても必ず駆け付けました。
そうやって真っすぐな愛情を注がれ続けてきたジズもまた、その小さな体で目一杯、母親とお祖父さんを愛していたのです。
ジズの母親とお祖父さんを唯一繋ぐことができたのは、そんなジズの存在だけでした。
けれどお祖父さんが病に倒れた時、ジズの母は後悔したのです。ジズの存在に甘えて、お祖父さんと向き合うことから避けてきたことを。
そこでジズの母はお祖父さんと仲直りしようと、お見舞いに昔お祖父さんを笑顔にしてくれた花を携えて行ったのです。しかし、その花を見てもお祖父さんはジズの母が期待したような反応をしてはくれませんでした。
「この花を覚えている?」
ジズの母の問いかけに、お祖父さんは「知らん」そして「まがいものの花は嫌いだ」と言ったきり黙って窓の外を眺めていました。
そしてジズの母はそれっきりお祖父さんのお見舞いには行きませんでした。
「どうせ私の持っていった花だって、もう捨てているわ」
その言葉にジズははっとしました。そうです、本当に嫌いならすぐにでも捨てるはずです。けれどお祖父さんは嫌いと言いながらも、ずっと病室のベッドの脇――いつでも見えるところにそのまがいものの花を飾っていたのです。
(素直になれないだけなんだわ、お祖父さんもお母さんも。本当はお互いのことを愛しているのに、長い間その一言が言えなかったせいで今こんなに悲しい思いをしているのね)
ジズはどうにかして二人の間の溝を埋めたいと、強く強く願いました。
「お母さん、お祖父ちゃんは言っていたわ。本当の花には人の想いが込められているって。それならその逆もあると思うの」
「……どういうこと、ジズ?」
真剣な眼差しのジズに気圧されるようにジズの母は聞き返しました。
「まがいものの花だって、本当の気持ちを込めれば本当の花にきっとなれる。それがきっとお祖父ちゃんの言う本当の花なんだわ」
きっと花は見る人の心によって、まがいものにも本当にもなるのです。
それが、本当の花を探し続けた果てにジズが辿り着いた答えでした。
「ねえ、お母さんはお祖父ちゃんを愛している?」ジズは無垢な目をして言います。「お母さんが愛しているのなら、きっとお祖父ちゃんだってお母さんのことを愛しているはずよ」
「……愛したいと、思っているのよ」
ジズの母は目を伏せました。
彼女は幼いジズのように人と人との愛情がきっちり釣り合うなどと、純粋に思うことができなかったのです。大人になってからもうずっとそうだったのです。
幼かった自分がお祖父さんに花を贈ったその時、一体どんな気持ちでいたのかジズの母には思い出せませんでした。あの時の気持ちを覚えていれば、お祖父さんはまがいものの花でも笑いながら受け取ってくれたのでしょうか。
「でももう、愛し方もわからないの」
「大丈夫よ。愛したいと思っているのなら、その気持ちを素直に言えばいいだけだわ」
「ジズ……」
「お母さんは知らないだろうけれど、お祖父ちゃんはお母さんが持っていった花をずっと飾っているのよ。それがきっとお祖父ちゃんの本当の気持ちだわ」
ジズの言葉にジズの母は息を呑みました。そして、
「わかったわ。明日お見舞いに行きましょう」
その瞳には決意の色が浮かんでいました。