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フルスイング

作者: 藍上男

 ホームランを打ちたい。


 それが、葛西勇次が野球を始めた理由だった。

 子供の頃、それこそ物心がつくかつかないかの頃。


 テレビで見ていた、プロ野球中継。


 最終回の時点で点差は、4点。

 当時、子供だった葛西には分からなかったが、ある程度野球を知れば分かる。最終回の時点で4点も差があるというのは9割以上負け試合だ。

 特に、相手チームに絶対的なストッパーがいればなおさらだ。


 だが、この日は相手の抑え投手の調子も悪く満塁のチャンスを作っていたが、球場の雰囲気も実況も解説者も同点ホームランが出るとは思ってもいないようだった。


 30本近くホームランを打つような選手ですら、スタメンでフル出場しているとしても5試合で1本程度のペース。

 そのホームランが、この場面で出る何て可能性はほとんどない。


 だが、ほとんどないという事は、わずかではあるが可能性があるという事だ。


 ここで、そのわずかな可能性の目が出た。


 打った瞬間に分かった。


 ――行った。


 見事な、満塁ホームランだった。

 興奮した様子の声が、テレビの画面から聞こえてきた。


 その瞬間、葛西は野球を始める事を決意した。

 リトルリーグのチームに入り、とにかくバットを振った。5年生になる頃には、4番を任されるようになった。

 打率こそ、そこまで高くなかったが飛ばす時は小学生顔負けの飛距離を出した。


 シニアのチームにいってもそれは変わらなかった。

 低い打率ながら、飛ばす時はとにかく飛距離を出し、名物選手として地元を少し賑わせた。


 しかし、チームの成績はぱっとしなかったし、引っ張っていくほどの成績を残す事はできなかった。

 高校への進学の時期になっても強豪校から、声がかからなかった。

 だが、できる限り強いチームで戦いたいと考えた葛西は過去に甲子園出場経験のある古郷高校へと進学する事にした。


 しかし、過去に甲子園に出ているといっても20年も前の話。

 その時甲子園に行けたのも、後にプロ入りするエースで4番のスター選手がたまたま入学してくれたおかげだった。


 以後は、調子のいい年にはベスト8や16には進むが基本的には3回戦ぐらいで負ける中堅クラスのチームだった。


 だが、今の監督が「守りの野球」を提唱するようになってからチーム力は着実に上昇した。

 葛西にとっての1年目に5年ぶりとなる4回戦進出を果たすと、二年目はベスト8にまで進んだ。二年目の秋季大会でも本戦に出場し、選抜にこそ行けなかったものの、準々決勝まで進出した。


 しかし。

 「守りの野球」と、葛西のとにかくホームランを狙うバッティングはとにかく相性が良くなかった。

 葛西は守る方はいまいちだし、打つ方でも今の監督はとにかく「繋ぎの野球」に拘った。

 まずは出塁。出塁したら、バントや進塁打で少しでも先の塁に進める。そういう野球に拘っており、全打席ホームランを狙うような大味なバッティングをする葛西にチャンスが与えられる事はなかった。


 公式戦では2年秋まで出番なし。

 練習試合でも、たまに代打で出る程度。


 どうしようもなかった。


 ――結局、一試合も出れないで終わるのか。


 理不尽だ、と思う気がしないでもない。

 だが、仕方がないのでは、とも思う。


 せめて、監督から見て及第点クラスの守備ができれば。

 いや、そうでなくても多少守備に目をつぶっても使ってもらえるだけ打てれば。


 ――仕方がないのか。


 そんな鬱屈な思いを抱えたまま、3年の夏を迎えた。



 ここでようやく、葛西は背番号を与えられた。

 背番号は、20。

 少数精鋭体制の古郷野球部で、3年生は15人しかいない。つまり、1、2年を考慮しなければ全員がベンチに入れる事ができるのだ。


 だからこそ、これはベンチ入りできなくても3年間野球を続けた事に対する、監督からの努力賞のようなものだろう。

 葛西はそう考えていた。


 事実、3年生は全員ベンチ入りをしており、2年生は4人、将来性を期待した1年生が1人。これが、最後の大会のベンチ入り構成だった。


 それでも。


 ――せめて一打席ぐらいは代打でもいいから出たい。


 そう思った。


 僅差の試合では無理だ。

 けど、点差が開いた試合ならば、記念に代打に出してもらえるかもしれない。


 だが、予想に反して初戦から接戦の連続だった。

 お遊びで野球をしているような弱小校とは当たる事なく、甲子園常連校とはいえなくとも、少なくとも地区強豪と呼べる敵と当たり続けた。


 それでも、古郷高校は1点か2点差での勝利を重ねた。

 そして、遂に決勝戦にまで進んでしまった。


 ここまで勝ち進めてこれたのは、監督の標章した「守りの野球」のおかげと言われている。

 だが、同時に地区強豪クラスとは当たっても、甲子園常連校といえる相手とは、一度も当たらなかったのも大きいとも言われていた。


 しかし、決勝の相手となった文京実業高校は紛れもなく甲子園常連校。

 甲子園出場18回で、全国制覇の経験が4回という名門校なのだ。プロ入り選手も多く輩出しており、特に今年のチームでエースで4番を打つ千葉はプロやメジャーからも注目される大投手だった。

 コールド勝ちや、第二投手と途中交代した試合も多いため投げたイニング数はそこまで多くはないが、ここまで失点は0。

 打つ方でも、この大会、5割近い打率と4本のホームランを放っており、まさにチームの中心と言われた。


 対し、こちらは勢いだけで勝ち進んだチームと言われており、プロから注目されるような選手は一人もいなかった。


 とにかく、ピンチにはなった。

 毎回のように、ランナーを出す。


 が、堅い守備で得点を許さない。


 特に、5回表にはノーアウト満塁のピンチを作ったものの、ショートの超ファインプレーにより、何とトリプルプレー。

 ツキともいえるものが、古郷高校にはあった。


 だが、相手の千葉はそんなツキなどものともしない格の違いを古郷高校に見せつけた。

 何と、8回裏が終了時点で被安打ゼロで失点もゼロ。

 つまり、ノーヒットピッチングを続けていたのだ。


 対する古郷高校は文京実業を相手に10本ものヒットを許し、しかも三者凡退が一度もないにも関わらず0点に抑えていた。

 そして、0-0のまま最終回を迎えた。


 9回表。

 文京実業の攻撃。

 この回は8番から始まる下位打線だ。

 先頭の8番バッターが、あっさりと内野フライを打ち上げ、9番もピッチャーゴロに倒れた。


 この回、初の三者凡退かと思われた。

 が、それを意識してしまったのか、1番バッターには分かりやすいど真ん中に投じてしまう。

 簡単にそれを、センター前にはじき返す。


 2番バッターへの初球でランナーは走った。あっさりと盗塁を決めてツーアウト2塁。

 だが、2番は平凡なセカンドゴロを打つ。

 しかし、それをなんと二塁手がトンネル。

 「守りの野球」を目指したこのチームにとって、このエラーは大きい。


 動揺した為か、3番バッターは四球で歩かせてしまう。

 そして、迎えるバッターは4番のピッチャー千葉。


 古郷高校のエースは委縮している。

 この大会の防御率は良いが、それは堅い守りのチームだからだ。守りの弱いチームなら、この試合既に5、6点は取られていたかもしれない。


 キャッチャーがタイムを取って、マウンドに駆け寄る。

 ベンチからでは、口の動きまでは分からないが、落ちついて投げろといった事を言っているらしい。

 大丈夫だ、と言わんばかりにグラブでキャッチャーの胸元を叩き、キャッチャーを追い返した。


 汗を拭うような仕草をしているが、汗などかいている様子はない。

 ただ、必死に自分を落ちつけようとしているようだった。


(大丈夫か、あいつ)


 葛西はそう思うが、監督も投手を変えようとはしない。

 第二投手、第三投手は無論いるが、エースと比べると大きく劣る。この場面で、千葉を抑えられる保証はないのだ。


 それでも、後一人なのだ。

 いくら、強打者の千葉といっても打ちそこなう可能性は十分にある。


 ピッチャーは、第一球を投げる。


 それは、緊張感からの失投だったのか、これまでは球威はなくとも際どいコースに投げ続けて来たにも関わらず、この場面で何の変哲もないハーフスピードのストレートが投げ込まれた。


 瞬間、千葉のバットが一閃した。

 気持ちがいいくらい、見事な打球音が響く。


 大きい、大きい、大きい。


 いかに、鉄壁の守備といえども守りようがない。

 打球は、遥か彼方――場外へと消えた。


 途端、球場は沸いた。

 文京実業の応援席のみならず、球場中の観客が千葉に声援を送る。


「いいぞーっ!」


「さすが千葉っ」


「甲子園でも頑張ってこいよっ」


 なかには、既に文京が甲子園行きを決めたかのような声すらあった。


 日本人は基本的に判官贔屓と呼ばれる。

 高校野球などでも、名もない公立が名門私立を倒すような下剋上を望む事が多い。これは、滅多に見れないような試合を自分の目で見たい、という思いもあるだろうがとにかく弱い方を応援しがちだ。


 そして、この試合の「弱者」は間違いなく古郷高校だった。

 過去に、甲子園出場の経験はあっても、はるか昔。地元を代表するようなスターはおらず、強豪とは言い難いチーム。

 それに対し、文京実業は昨年の夏の覇者だ。春の選抜大会にも出場してベスト4になった文京実業はまぎれなく「強者」だ。


 ゆえに、「弱者の勝利」を見たい。

 そんな思いが、観客たちにはあった。


 しかし、それを帳消しにしてしまう一打を千葉が打った。

 見事な満塁ホームラン。

 それも場外ホームランである。


 守りの野球、などという言葉が馬鹿馬鹿しくなるほどの大きな一発だ。

 これにより、完全に球場の流れは変わった。


 やはり、千葉や文京実業こそが自分達の地元の代表に相応しいのだ。番狂わせは見たいが、それ以上に文京に真紅の優勝旗を持ち帰って欲しい。

 そんな思いが一気に強まった。


(すごいなあ)


 そんな感想しか、葛西には出てこなかった。

 一振りで、完全に流れを文京にしてしまった。


(あれが、本物のスターか)


 そんな風に思う。

 ベースをゆっくりと一周する千葉の様子はまさに、野球の神様が祝福しているかのようだった。


 完全に格が違った。

 続く5番バッターは内野フライに打ち取ったものの、この世代で最高の投手と呼ばれる千葉相手に、9回で4点差だ。

 古郷高校には、10点以上の点差に見える。



 9回裏の攻撃が始まる。

 こちらは、先頭バッターがセーフティを試し見るがあえなく失敗。

 ワンアウト。

 だが、次のバッターはすっぽ抜けたボールがユニフォームをかする。デッドボールでランナー一塁。

 このデッドボールでキャッチャーが焦ってしまったのか、次の打者のバットがキャッチャーのミットに当たる。打撃妨害で出塁だ。

 しかし、次打者は三振。

 ここまでか、と思われたがその次の打者は三塁に転がすプッシュバントを決める。だが正面。万事休す、と思われたが後一人という緊張があったのか、文京の三塁手が打球をはじいた。

 間に合わない。

 一塁はセーフ。記録はサードのエラーだ。

 ツーアウト満塁だ。


 だが、マウンド上のピッチャー・千葉にも。

 守備に着く、文京のナインの顔にも余裕があった。

 満塁とはいえ、4点差。

 ホームランでも打たれない限り、同点にされる事はない。


 そして、そのホームランがこの地区予選で古郷高校に一本も出てない事を文京の選手は知っているのだ。

 長打も少ない。

 最悪でもシングルヒットで1、2点止まりだろう。

 そして、千葉を相手にクリーンヒットなど何度も続かない。

 自分達の勝ちだ。


 文京実業のナイン達の顔にはそう書いてあった。



「むむ……むむ……」


 追い詰められた。

 追い詰めたはずなのに、追い詰められた。

 99パーセント、いや99.99パーセント文京の勝ちだ。

 この試合の自分達の役割は、王者・文京と未来のスーパースター・千葉の噛ませ犬。

 野球の神様というべきものがそう決めた。

 完全にアウェイと化した、古郷高校のナイン達はそう思った。


「む……む……」


 諦めきれない、といった様子で監督はベンチを見渡している。

 そして、その目が葛西のところで止まった。


「葛西、代打だ!」


「え、ええ!?」


 まさか。

 そんな思いが葛西にはあった。

 自分をベンチに入れてくれたのは、三年間冷遇されながらも練習し続けた事に対するお情け。

 チーム方針に反する自分のような選手では、絶対に使ってもらえない。

 そう考えていたのだ。


「あのな、俺は戦力にならない選手をベンチに入れるようなお人よしじゃあないぜ」


 自分の心の声が読めたのだろうか。

 そんな事を監督は言う。


「確かに、俺はこの3年間、守りの野球を目指してきた。だが、俺だって野球人だ。ベンチに入れないでも、ホームランに拘るお前の気持ちだってよく分かってきたつもりだ」


 それに、と監督は続ける。


「俺は、お前がこういう場面で使えると考えたからこそベンチに入れたんだ。思いっきり打ってこい!」


 ぽん、と背中を叩くと葛西をグラウンドに送り出した。

 そんな間に、伝令が出ていき代打が告げられてしまう。


 今大会、初めて出てくる選手に文京の選手達は少し訝しげな表情を浮かべてはいるが、そこに恐怖の色はない。

 もし、葛西が警戒に値するような選手だったら、もっと前から使われているはずだ。

 決勝まで一度も使われない選手など、大した選手ではないと高をくくっているのだろう。


「行ってこいっ」


 ぽん、とキャプテンも葛西の背中を叩くとバッターボックスに送り出した。


「打ってくださいね、先輩!」


 つい先ほどまでネクストに入っていた、代打を送られた後輩までもが同じような事を言って送り出す。


(おいおい……)


 みんな、何を期待しているんだ。

 葛西はそう思った。


「バッター、早くしなさい」


 バットを持ったまま自分を怪訝に思ったのか、審判が急かすように言った。


「は、はい」


 それでようやく、バッターボックスに入る。


 緊張の為か、手はがちがちだ。

 バットを落とさないだけでも褒めてもらいたい。


 マウンド上の千葉の姿が大きく見える。

 実際には、自分よりも小柄なはずだが、ただひたすらに大きく見える。


 その千葉が、ちらりと自分を見る。

 初めて対戦する相手に、構えからどのくらいの選手なのか値踏みしているのだろうか。


(くそ、来るならこいっ)


 そう思ってぎゅ、とバットを握る。


 千葉が、投球モーションに入る。

 そして第一球を――投げた。


「ボールッ!」


 審判の声が、聞こえる。


 ストレートだ。

 ストライクゾーンに入って来なかったとはいえ、150キロ近く、いやもしかしたら150キロを超えているかもしれない。いくらこの試合の球数が少ないとはいえ、既に9回裏。ここまで投げてきてこの球威とは恐ろしい。

 さすがは、この世代での最高峰投手。

 そう思える球だった。


(格が違う……)


 次の投球モーションに千葉が入った時、思わず、葛西はバットを短く持つ。

 再び豪速球が来る。


(うっ……)


 半端な状態のまま、葛西のバットは止まった。


「ストライクッ!」


 審判の声が聞こえる。


(くそ、何とか当てないと……)


 そう思った時だった。


「タイム!」


 ベンチから鋭い声が飛んだ。

 それは、キャプテンからの声だった。


 勢いよく、こちらに向かってくる。


「馬鹿、何を短くもっている!」


「い、いや、こうでもしないと当たりそうにないし……」


 何故、ここまで強く怒られるのか分からないまま、言い訳するよるように葛西は答える。


「あのなあ、何で監督はお前を代打に起用したと思ってるんだ」


「それは……」


 自分でも知りたい。

 これまで、公式戦出場ゼロの自分を、こんな大事な場面で何故起用したのか。

 試合中でなければ、ぜひ問い詰めたいところだった。


「監督はな、いや俺達はな、お前のホームランに期待しているんだよ」


「え?」


 一瞬、何を言っているのか分からなくてつい聞き返す。


「ホームランってあのホームランか?」


「あのなあ……」


 キャプテンは呆れたような様子だ。


「俺達は、監督の目指す守りの野球を信じてここまでやってきた。甲子園に出たいからな」


 けどな、とキャプテンは続ける。


「豪快なホームランに対する未練が俺達にないわけじゃあ、ないんだ。みんな、口には出さないけど、お前に憧れてたんだぜ?」


「俺に?」


「ああ、俺達はほとんどの練習時間を守備練習に費やした。打撃練習なんて、ほんのおまけだった。でも、そんな中お前は打撃練習に拘った。自主練の時間は勿論、ちょっと空いた時間ですら素振りに費やしてきた事を俺達は知ってるんだぜ」


「……」


「それに、この状況、この展開で当てていってどうすんだよ。たまたまいいところに打球がとんでヒットになったとしても、せいぜいが1、2点。なら、いっその事思いっきり振って4点かゼロか。その方がいい」


「4点って……満塁ホームランって事か?」


「そりゃそうだろ」


 何を言っているんだ、という顔でキャプテンは呆れた。


「同点にしてくれよ。お前の一振りでな」


 そう言って、キャプテンはにっと笑った。

 頼むぞ、とだけ言い残し、ベンチに戻っていく。


(……そうか。それもそうだな)


 葛西は、短く持ったバットを再び握りなおす。


「もういいかね?」


「はいっ!」


 主審の声に、葛西は勢いよく返事をする。

 そして、バッターボックスに戻った。


(俺は、器用に繋げるような真似のできる選手じゃない)


 そして、思い切り――振る。

 それだけが、この3年間でやってきた事だった。


「ストライクッ!」


 変化量の大きいカーブだった。

 まるで、タイミングが合わずに空振りしてしまう。


「馬鹿野郎っ、振り回すな!」


「代打野郎、ひっこめ!」


 ベンチとは対照的に心無いヤジが、味方の応援席から飛んでいる。


「後、一球! 後、一球!」


「いいぞー、千葉ーっ」


「ノーヒットノーラン見せてくれーっ」


 一方の、敵側の応援席――いや、味方側を除くほぼ全ての観衆は千葉を褒め称えるように声援を送る。


(わかっちゃいるけどね……)


 葛西は、バットを握りなおす。


 そう。

 分かっているのだ。


 皆、プロ入り確実なスター選手候補の千葉と、単なる中堅校の控えに過ぎない葛西では、千葉を応援する。

 しかも、ノーヒットノーランを達成する直前とあればなおさらだ。

 いかに千葉が大投手といえど、ノーヒットノーランなんてそう何度も見れる試合じゃない。千葉は、この大会で二度パーフェクトを達成しているが、コールドゲームとなった為、ただの参考記録だ。


 甲子園では、貧打の古郷高校などよりもはるかに打撃の強いチームとばかりあたる。

 超高校級の投手である千葉といえども、そう簡単に達成するのは難しい。

 となれば、これは最後のチャンスになるかもしれない。


(来いっ!)


 バットを構える。

 千葉が第三球を――投げる。


「うおりゃっ」


 迷わずフルスイング。

 バットに妙な感触があった。

 だが、ボールはキャッチャーのミットに収まり三振――かと思われた。


「ふぁ、ファウル、ファウル!」


 主審の声が、背後から聞こえた。

 キャッチャーのミットから、ボールが転げ落ちている。


(当たっていたのか……)


 葛西は驚く。

 どうやら、かすかにかすっていたようだった。

 となれば、ファウルチップの捕球失敗という事になり、ファウルだ。


「すまんっ」


 キャッチャーが、小さく舌打ちしながらボールをピッチャーに戻す。

 千葉の表情は余裕だ。

 今ので三振に取れずとも、葛西ごときいつでも抑えれる、という自信からだろう。


(くそ、次を打たなきゃどのみち終わりだ)


 フルスイングをやめる気はない。


(次の球はなんだ……)


 千葉の主な持ち球は、ストレート、カーブ、フォーク。

 いずれも、一級品だ。

 だが、ランナーが三塁にいるこの場面でフォークは投げずらいだろう。

 4点差があるとはいえ、ノーヒットノーランがかかっているのだ。

 仮に、ランナーが帰ってしまえばその後を抑えたとしても得点を許せば無安打完投試合にしかならない。

 せっかくの好機だ。ノーヒットノーランで甲子園を決めたいという思いが強いだろう。

 となると、ストレートかカーブ。


 千葉のカーブはストレート以上に凄い。この試合にとった三振の半数がカーブを空振りしたものだ。この打席では、まず間違いなく打てないだろう。

 となれば、狙い撃つ球は。


(ストレート……!)


 それしかない。


(一か八か……)


 一瞬ぎゅっと目をつぶってから、バットを構えなおす。


(来い、ストレート……)


 強く念じるように、バッターボックスに入る。


 ピッチャーの千葉が、一瞬だけ三塁ランナーに目を向ける。

 そして――投げた。


(速い)


 凄まじい球威の球がこちらに向かってくる。


(ストレートだ!)


 歓喜。

 バットを一振りだ。


 金属バット独特の打球音が、葛西の耳にも聞こえた。


(やった……)


 完全に手ごたえありだ。

 マウンド上の、ピッチャー・千葉もボールを追おうともしない。


 文京実業のレフトも、しばらく打球を追っていたが、やがて諦めたように立ち尽くした。


 ――同点ホームランである。


「や、やった……」


 暫く、バットを持ったまま茫然としていた。

 信じられない。

 プロ入り間違いなしで、メジャーのスカウトからも熱い視線を注がれる大投手・千葉から。

 自分が。


 ――ホームランを打ったなんて。


「やった……」


 もう一度、思わず呟く。

 見ると、文京ナインも同じような表情だ。

 それどころか、打った瞬間に走り始め、ホームランだと分かり足の歩みを遅めた自チームの選手達も。

 塁間で茫然と立ち尽くしている。


 ただ、マウンド上の千葉だけは、一瞬だけ驚いたような表情をしていたものの、今は落ち着いた様子だった。


「ほー、むらん?」


 信じられない。

 そんな気持ちのまま、バットを置き、葛西は一塁に向かう。

 次々と、ランナーがホームベースを踏む。


 そして、葛西の番となった。

 悪夢でも見たかのような表情のキャッチャーの前で、葛西はゆっくりとホームベースを踏んだ。


「延長に持ち込もう、な。ウチの実力なら十分に勝てるさ」


 そのキャッチャーを、打たれた方の千葉の方が慰めていた。

 そんなバッテリーを尻目に、葛西はベンチに戻ってくる。


「やったな、葛西!」


「ナイスバッティング!」


「信じて良かったぜ!」


 監督や、選手達が次々と祝福の言葉をかける。


「ああ、やったぜ!」


 満面の笑みを浮かべまま、葛西はベンチに戻った。


「やった、やった……」


 だが、まだ興奮が収まらない。

 どうやって打ったかなんて覚えていない。

 はっきり言ってまぐれだ。

 もう一度打てと言われても、間違いなく打てないだろう。

 だが、まぐれであったにせよ、記録にはまぐれなんて注意書きはない。紛れもなくホームランと記録に残るのだ。


「続け、続け―っ」


「同点だーっ! 一気にサヨナラにしてしまえーっ」


「打て、打て―っ」


 ベンチから、他の選手達の声が響いた。




 だが、この試合は結局この試合は延長11回表、文京実業の4番・千葉がこの試合、2本目となるホームランを打ち、文京実業の勝利に終わった。

 その時、スコアボードに葛西の名前は既になかった。

 あくまで、「守りの野球」を貫く古郷野球では葛西を延長の守備につかせるのが不安だったのだろう。

 守備固めの選手と交代し、葛西はベンチへと下がった。


「ゲームセット!」


 審判の声を、葛西はベンチで聞いた。


(ああ、終わったんだな……)


 実に、不思議な感覚だった。

 負けたはずなのに。

 周りで泣いている同級生達には悪いが、葛西には不思議な満足感があった。



 選手達が整列し、相手校の選手と挨拶を交わす。


「よく飛んだね。ナイスバッティング」


 不意に、かけられた声が誰なのか分からなかった。

 が、その顔を見て驚いた。


「千葉……君」


 そして、握手を求められている事を知り、さらに驚く。


「どうしたの?」


 一瞬の躊躇の後、葛西はその手を握り返す。


「えっと……」


 何というべきか、すぐに言葉が出てこない。

 千葉はしばらく、その手を握っていたが。


「うん。よくバットを振り込んでる手だね。ウチのレギュラー連中にも負けてないよ」


「ど、どうも……」


 テレビや新聞に出てくるようなビッグスターにそんな言葉をかけられ、葛西はまともな言葉が出てこなかった。


 じゃ、と笑顔のまま千葉はベンチに戻った。

 彼はこれから甲子園で多くの栄光と思い出を手にする事だろう。

 そして、それは甲子園が終わってからもおそらく変わらない。

 プロ入りは間違いないし、千葉の実力ならメジャーにも行くかもしれない。


 それに対し、葛西の野球はここで終わりだ。

 これ以後、お遊びで草野球などをする事はあっても野球選手として大舞台に立つ事は二度とないだろう。

 3年間かけて、ただ一つの栄光といえるのはこの試合の満塁ホームランだけだ。

 だけど。


(価値……あったな)


 確かに、ただひたすらにバットを振り続けるだけの3年間だったが、このホームランが打てただけでもその価値はあった。


(野球やってて良かった……)


 葛西は、心の底からそう思えた。




 結局、その勢いで文京実業は甲子園に出場。

 甲子園の本大会も優勝した。


 なお、結局、この大会で千葉が打たれたホームランは予選・本戦通じて葛西のホームラン1本のみだったという。

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