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花さんと僕の日常   作者: 灰猫と雲
第一部
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練生川三太郎の章 3

腕時計は15:00を指していた。Amazonで1000円の時計だったから週に2秒ほどズレる時計としては詰めの甘い精密機械ではあるけれど、それほど時間に頓着がない俺にはこんなので十分だ。にも関わらず「素敵な時計ですね。ネリさんだからその時計も高いんでしょうね」なんて言う部下どもが可愛くてしょうがない。お前の腕につけてる方が俺の数十倍も高いよ、とは間違っても言えない。

「そろそろ帰るか。秋が待ってるぞ」

花も左腕にしている古いハミルトンで現在時刻を確認する。俺が学生時代、初めて自分で稼いだバイト代を全部ブッ込んで送った時計だった。あれからもう10数年経っているのに俺と会うときは必ずそれを付けて来てくれる。そういうところがとても俺は好きだ。

「そうだね。そろそろ行かなくちゃ。今日ごめんね。あ、秋の近況話せなかったから夜にでもメールするよ。あと制服着た写真も」

「あぁ、頼むわ」

俺は伝票を手にして先に席を立つ。ちんまりとしたパスタ2皿にうっすいピザ1枚、それとコーヒーで5000円もするボッタクリの店に文句ひとつ言わず渋々金を払う。遅れてきた花が財布を取り出すのを制止すると

「いつもありがと」

と礼を言った。花に支払わせた事が一度もなくても毎回必ず財布を出す。そして必ず俺に支払わせてくれる。今の子達は時代が違うかもしれないけど、俺らの世代ではこれが礼儀だったりもする。少なくとも俺はこの方が気が楽だ。

外は晴天とは思えないほどに寒かった。来るときは汗だくだったけど、今は逆に汗が冷えて余計に寒さを感じていた。

「遅れたけど、秋の入学祝いありがとう。」

「遅いよバカ笑。最初に言えよ」

えへへ、と笑ってごめんと謝る花は知り合った時と何も変わらないように思えた。

「でも中学生の入学祝いにあの額って、どう考えても世間一般とはかけ離れてるよ?」

「俺は世間一般じゃないんだよ。いいんだ、金ならある。使いみちがないだけで」

「だったら自分がやりたい事に使いなよ」

「じゃあ間違ってないな。貯金でもしとけよ。で、いつか秋のために必要な時に使えばいい」

花は頑固者だけど俺はそれ以上に強情っぱりだ。

「今の俺はあいつに会うことも話すことも出来ないんだ。出来ることは毎年の誕生日とクリマスのプレゼント、あと正月のお年玉に入学のお祝い、それくらい。お前が困るのもわかってるけど、けどせめてそんな時くらいは俺のわがままも聞いてくれよ」

俺にも人並みくらいには秋を可愛いと思う気持ちがある。拙いし醜い愛情表現だとわかっていても出来る事はそれくらいしかない。限られた手段で正々堂々と愛を表現するしかない。

「わかった。じゃあこれからは金額設定を設ける事にします。とりあえす、秋の誕生日のプレゼントは一万円以内ね」

「マジかよ。逆に難しいわ」

メールよこせよ、と念を押して花と別れた。もっと一緒にいたいし離れがたい気持ちもあるけど、今はこれが精一杯だ。また来月も会える。次は最初から最後まで楽しい時間を過ごせればいい。仕事は今のところに変わってからも相変わらず楽しいとは思えないけど、月に一度花に会う事だけを楽しみに頑張る事ができる。それでいいや、うん、悪くない。


タクシーを自宅マンションの前で降りると仲良さそうな母娘と入れ違った。娘の方は小学生くらいの女の子で綺麗な顔をしていた。同級生の男どもはこの子に憧れているだろうけどきっと話しかける事も出来ないんだろうな、と想像する。母親は色白で金髪をひとつに束ねた白人の女性だった。2人で楽しそうに話しながら俺の前を通り過ぎ駅の方へ歩いていく。自動ドアを開けると昼間と同じ彼が

「おかえりなさいませ、練生川様」

と堅苦しく頭を下げ迎えてくれた。俺は一人暮らしなので

「ただいま」

と言うのは彼くらいしかいなかった。タクシーを降りたのを見ていたのだろう、重厚なドアを開けると遠隔操作でエレベーターはすでに一階で口を開き俺を待っていた。

「ありがとう」

彼の横を通り過ぎるとき、そう声をかけエレベーターに乗り39階のボタンを押した。上下にしか動かない箱から出てフカフカな廊下を歩き、クソ重たそうに見えて実は軽いドアを開けようやく自宅にたどり着いてもそこが我が家だとは未だに思えなかった。ここに住むようになって結構経つが、あまりにも高級すぎて逆に落ち着かない。ひとつひとつが広すぎる。キッチンも風呂もトイレも洗濯室もリビングも。もっとこう、こじんまりとしていて手狭で、なのに使い勝手がいい、そんな家が良かった。それともこのクソ高級でバカ広い家だとしても、花が「おかえりこのアホ亭主」とでも迎えてくれれば同じ場所でも居心地がいい安らげる空間になるのだろうか?

ああ、俺は寂しいんだな。花と別れた時からずっと。

「ごめん、別れてほしい」

数日前まで俺の横でアホ面しながら笑っていた花が突然切り出した別れの言葉に俺は気が狂うかと思うほどに絶望した。流す涙は枯れ果て、握った拳は折れるほどにコンクリートの壁を殴ったりもした。いくら泣いても骨を折っても花が俺の隣に戻って来ることはなく、俺と花は恋人ではなくなった。

そして、花は母になった。

いくらシャワーを浴びても、体を洗っても、寂しさと取り戻せない時間を拭うことはできなかった。シャワーにまぎれて泣いてみたかったけど、あの日に流し尽くした涙はまだ枯れたままだった。

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