茜の章 「贖罪と食材」
7月の終わり頃、お昼ご飯を食べ終えた私は庭の草花にホースで水をあげていた。お父さんは縁側で携帯をいじっている。なんだかよくわからないけれど、イチノセ シキとかいうアイドルを育てているらしい。ハマりすぎて課金しなければいいけれど…。そんな時だった。
「あ、ばあちゃん。今ヒマ?」
突然秋が我が家にやって来た。
「あら?秋ひとり?花は?」
秋が我が家に来るのは珍しいことではない。けれどそれは華道をするためがほとんどで平日の昼に来る事は極めて異例の事だった。
「花さんは仕事。ちょっとばあちゃんに話があって」
「話?まぁいいわ。上がって何か飲んで待ってて。お父さん、秋になんか飲み物出してください」
お父さんはさすがにアイドルの育成より孫の方が大切なようで
「秋、入っておいで。じいちゃんがカルピス作ってやろう」
と立ち上がった。
「じいちゃん!カルピス濃いめでね!」
お父さんは昔の人だからカルピスはとても贅沢なものだという価値観が抜けきれないためいつも薄味のカルピスを作ってしまう。
「秋は濃いめが好きだなぁ笑。わかった。特別に濃いのを出してやろう」
お父さんは張り切って台所の方に引っ込んで行った。
「夏休みだったね、そう言えば。宿題は?」
「3日で全部終わらせた」
宿題って、そういうものだったかしら?まぁ終わらないよりは全然いいわね。
「水やりが終わったら和室で待ってるわ。カルピス飲み終わったらいらっしゃい」
わかった、という孫の顔からはなんの話があるのかを読み取る事はできなかった。ただ少しだけ不安が募る。花が隠している事を私が秋に気付かせてはならない。少しだけ緊張が私の中に走る。秋はああ見えてとても鋭いところがある。
「はぁ…」
ため息をつきふと空を見上げる。今日も天気がいい。それだけで、本当は幸せな事なのだ。そう思っていてもやはり少し気が重かった。
「和室にいますよ」
萩の遺影に手を合わせている秋にそう声をかけ先に待っていると程なくして秋が入って来た。
「やっぱり薄かったよ、じいちゃんのカルピス」
「でしょうね。私にもくれるけどいつも薄いのよ、あの人のカルピス笑。ケチなのね」
穏やかな2人の笑いが和室を包む。
「さて、話っていうのは?」
覚悟を決め私から切り出す。後手に回ると私は気を張ることが出来そうにない。
「草天流を俺が継ぐっていう話、にも繋がるんだけど…」
まさかその話だとは思わなかったので私は面食らった。
「継ぐ気になったの?」
そうではないとわかっていながらも、そう聞いてしまうのは私が歳をとった証拠なのだろう。
「いや笑、それを決めるためにも必要なことではあるんだけどね」
どうも歯切れが悪い。秋も迷っているのだろうか?だとしたら、一体何のことだろう?
「実は去年…中学校の入学式の少し前に花さんから話があったんだ」
「一体、なんの話ですか?」
心音がドキドキと大きくなるのを感じた。
「俺の…父親について」
「聞いたのですかっ!」
思わず声が大きくなる。目の前の秋も驚いた目で私を見る。
「あ、ごめんなさい。大きな声を出してしまいました」
「いや、良いんだけど…」
花は、何を話したの?
「花さんが、俺が18歳の誕生日になったら俺の知りたい事を全部話してくれるって言ったんだ。だからその日まで、聞いてきちんと正しい選択肢が選べるような大人になっていなきゃダメだよって、そう言われた」
私は少しだけホッとした。秋はまだ知らない。いずれ知る時が来るのは避けられない。けど今じゃなくていい。まだ先でいい。あわよくば、その日が一生来ないまま、今のままがいいと望んでしまう。
「それで、私に何を聞きたいの?花がそういうなら、私も答えられない事だってありますよ?」
秋の父親が誰なのか、私は知らない。頑なに口を閉ざしどんなに強く問いただしても決して話す事はなかった。私に似て頑固な子だった。
「うん。別に今すぐ父親のことを知ろうとは思ってないよ。俺が18歳の時に花さんに聞くまで父親のことは知らなくていいと思ってるんだ。でも、それ以外の事を知っておきたい」
秋の目はとても真剣だった。花を活ける時の、あの目と同じ。
「草天流を継ぐこととそれにどんな関係が?」
私は少し意地悪だ。
「俺は自分の事を全部知ってから自分の将来を考えようと思うんだ。そうじゃなきゃ、覚悟が揺らぐ気がする。ちゃんと全部わかった上で答えを出すよ」
「そうですか。…そうですか」
私も動揺しているようだ。齢50を過ぎても心は穏やかなままではいられないのだと思った。
「ばあちゃん、自分の娘が…まだ高校生だった自分の娘が俺を妊娠したって知った時、その…どう思った??」
ズキリ、と胸が痛んだ。
「ごめんね。答えにくいとは思うんだけど、ちゃんと知っておきたくて。大丈夫、ちゃんと聞く覚悟をして来てるから。だからこんなに時間がかかったんだけど…」
どうしてあなたはそんな歳でそんな覚悟を決めてしまったのですか?どうしてもっと…何も考える事なく日々を過ごせなかったのですか!
「秋、覚悟はある?」
うん、としっかりした口調で答える。
「私のこと、好きですか?」
そりゃもちろん、と笑ってくれる。
「私のこと、信じてくれますか?」
私は弱い。私の覚悟を、この子によってもたらそうとしている。それでもこの子は
「信じるよ」
と言ってくれる。私も、この子を信じよう。
「私は、最初産むことに反対しました」
突然に告げられた妊娠の話に私とお父さんは絶句した。
「誰の子なのっ!」
私の第一声がそれだったことを今でも後悔している。誰の子だとしてもそれを容認できるわけでもない。けどその時の私はそれが知りたかった。
「言えない。絶対にそれだけは言わない」
何度聞いても頑なに父親の名前を言おうとはしなかった。
「練生川くん…?」
練生川くんがこの子の相手であるわけがない。そんなわけがないのは私も知っている。彼はキチンとした人だ。
「まさか笑」
笑ってそう答えるその顔が私を苛つかせた。
パンっ!
思わず手をあげてしまう。
「何を笑っているのですか!可笑しい話をしているわけではないのですよ!」
怒りのまま、感情のままに叫んだ。
「堕ろしなさい」
それは…秋を、生まれる前に殺してしまいなさいと言っていることと同じ。
「嫌です!」
「認めませんっ!父親の名前も言えない子どもに、一体どんな未来があるというのですか!」
キッと私を睨む。けどすぐに柔らかいいつもの目に戻る。
「お母さん、認めてくれなくてもいい。けど、私産みたい。この子の母親になりたい」
パンっ!
もう1度、今度はさっきよりも強く叩いた。
「あなたまだ学生なんですよ!そのお腹の子のために自分の人生を台無しにするつもりですか!」
「じゃあお母さんはっ!この子の一生を台無しにするつもりっ!この子に次なんてないんだよ?私が卒業するまで待っててなんかくれないんだよ!」
「そんな事わかっています!けど私はあなたの方が大切です!」
「同じように私もこの子が大切なの!」
パンっ!
「いい加減にしなさいっ!」
「いい加減にする気はありませんっ!学校を卒業して、どこかに就職して、誰かと結婚して、この子じゃない子を産んだとして、一体私にどんな未来があるの?ずっとこの子を堕ろした罪悪感に縛られた人生にどんな意味があるって言うんですか!私はもう決めたんです!私は絶対この子の母親になります!」
今でも鮮明に覚えている。あの時の掌の熱さも。
「私は、あなたを堕ろしなさいと、そう言いました」
私は泣きませんよ?泣くのは生まれて来たこの子に失礼です。こんなにも立派に、真っ直ぐに育って来たじゃないですか。
「私はあなたを、生まれる前に、、、」
「ばあちゃん。もういいよ。わかった。自分を責めないでよ。そうしたいわけじゃないんだから。ただ、ちゃんと事実を知りたかっただけ。ごめんね」
その顔は私への恨みなんて微塵も感じさせない、穏やかな笑みだった。
「じゃあ産んでもいいよってなったのは、俺が草天流を継ぐのを条件にしたから?」
「いいえ、それは違います」
きっとこの子は私の想像よりももっと深く自分の出生を悩んでいたのだろう。
「あなたが後継者になったのは、私の跡を継ぐはずだった萩が死んだからです」
花と萩。性格は全く異なった、けれどいつも一緒にいる双子のような姉妹だった。
「花と萩のどちらかが草天流を継ぐようあの子らが子どもの時から言い聞かせて来ました。萩が中学3年の時だったかしら?高校卒業と同時に私が継ぎますと萩の方から私に言ってきました」
これは秋の聞きたいこととは関係のないことだったわね。
「そっか。俺の前は萩さんだったんだ。ばあちゃんて何代目?」
「十八代目です」
「もし俺が継いだとしたら二十代目になるの?」
萩は意思を表明しただけで正式に後継したわけではない。
「いえ、あなたは十九代目になります」
「萩さんは、その、なんて言うか…継ぎたかったのかな?」
秋のその言葉の真意は私にはわからない。
「いえ、あの子はきっと花が継ぎたがらないから私のために自分が犠牲になったのでしょう、きっと。そういう子でした」
優しい人だね、と秋は言う。
「ならいいや」
「何がですか?」
未だにこの子が何を考えていたのか皆目見当がつかない。
「いや、もし望んで継ぎたくて、でも継げなかったのなら俺は二十代目がいいなって思って。萩さんのあとがいいなって思っただけ」
「あなたは…なんというか、変わったことを考える人ですね」
けれどとても優しい人ですね。
「そうかな?笑」
照れた顔は花に似ている。
「最後にあと一つだけ教えて」
「どうぞ」
「ばあちゃんは、俺が生まれた時どう思った?」
私は座布団ごと秋に近づいた。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
想いが溢れる。
「あなたの産声が聞こえた瞬間、私は自分を悔いました。なぜ私はこの子を殺そうとしたのかと、なぜ初めからこの子の命を祝福してやれなかったのかと。私はあなたに許されない事を言いました。あなたを堕ろせと、その命を無くしてしまえと言ってしまいました。なかった事には出来ません。その悔いを私は一生背負って生きていくつもりです。たとえあなたから恨まれたとしても私は何の言い訳も出来ません。する気もありません。けれど私はあなたを愛しています。信じてくれとは言いません。けどこれだけは言わせてもらいます、そしてこれだけは信じなさい!秋、あなたは望まれて生まれてきました。花や萩だけじゃなく、あなたはたくさんの人から祝福されてこの世に生まれてきたのです」
「その中にばあちゃんも含まれてるんでしょ?」
それを言う資格は私にはありません。
「求めてません」
「求めてよ笑。俺はばあちゃんを恨んだりしないよ。普通に考えてよ。学生だよ?しかも父親が誰だかわかんないんだよ?それなのに『オッケー産んじゃえ』なんて親、俺は嫌だよ笑」
あなた。自分のことですよ?なんで笑ってられるんですか?
「ばあちゃん、もういいよ?これで終わろうよ。俺は今まで不安になることはあってもばあちゃんを悪く思ったことなんて一度もないよ?だからばあちゃんも、今日で俺に罪悪感持つのやめてよ」
この子はなんて事を言い出すのでしょう?
「いいえ、それはなりません。私はあなたに許されようとは思ってません」
「ばあちゃんがどう思ってるかなんて関係ない!俺はそもそも許すとか許さないとかそういう気持ちなんてないよ」
そうキッパリと秋は私に言った。
「俺はばあちゃんが好きだよ。それで終わらせてくれないかな?」
「私はあなたに許されようとしてないと言ったじゃないですか」
「今のばあちゃんが、その時の自分を許そうとするために後悔してるだけだろ!ばあちゃんそれは違うよ、間違ってる。そのままじゃずっとばあちゃんは昔の自分を許す事ができないままだよ。後悔なんてしなくても良いんだ。俺はここにいるじゃん」
この子と私はいくつ歳が離れていたかしら?文字どおり、孫に諭されるようになるとはね。いや、私は別に耄碌したわけじゃない。この子が私よりもきちんと物事が見えているだけのこと。自分の事だから見えなくなっていたのか、それともこの子が見た目以上に大人なのか。花、あなたはどんなふうにこの子を育てているの?あまりにも大人すぎて、この子はこの歳で気づかなくても良い事まで気づいてしまうじゃないですか。それはあまりにも酷ではありませんか?
「ばあちゃん、俺今日来て良かったよ。ずっとばあちゃんとこの話をするのが怖かったんだ。けど、聞けて良かった」
「あなたに何かプラスになる事を私は話せましたか?私にはわかりません」
「全部だよ。今日聞いた話全部プラスになったよ。俺は今日、俺が生まれた時のばあちゃんの気持ちを聞きに来たんだ。きちんとばあちゃんの口から聞きたかったんだ。だから聞けて良かった。望んでた通りの答えが返ってきて嬉しいよ」
私は許されてもいいのだろうか?この子に。一生の悔いを背負うつもりが、今日なんでもないこんな日にそのそれを降ろしてしまっても良いのだろうか?そんな自分の都合の良い事があってもいいのだろうか?わからない…。けど本来許されるべき相手からこれで終わりにしようと、そう言われて拒むのはそれこそやはり私の自己満足のような気がしてきた。私は一体何に縛られて生きてきたのだろう?花、萩、私はあなた達にとってどんな母親だったのだろう?私はそれを知りたいと思うほどに弱い人間だったのだと自覚した。
「教えて欲しいのだけど、どうしてあなたはそんなに笑っていられるの?」
あなたの境遇は穏やかなものではないはずです。
「花さんがいるから。あとばあちゃん達も。友達もいるし先輩も良い人だよ。先生にも恵まれてる。世界は俺に随分と甘いよ笑」
「それはまぁ、規模が大きな話ですね」
秋はまた笑う。
「ばあちゃん、花さんを…まぁ時々困ることもあるけど、あんなふうな性格に育ててくれてありがとね。俺、父親とは一緒に暮らしてないけど、花さんがいるだけでどんな恵まれた子どもよりも幸せだと思えるよ」
花、あなたはなんて子を育ててしまったのですか。可愛いじゃないですか!
「秋、私からもひとつだけ言いたい事があります」
秋がとても真剣な顔になった。
「あなたが18歳になって花から父親のことを聞いた時に、もしどうしても受け入れ難い事だったとしても花を信じなさい。あの子の言うことは全てあなたのためです。断言します。だから、あの子を信じてあげて。お願い」
言いたいことというよりも私のお願いです。秋、あなたはきっと、その強い心を持ってしても戸惑うことでしょう。けれど秋、あなたには花がいます。生まれてからずっと花はあなたのそばにいました。そして今、花の世界はあなたが全てです。その花の世界をあなたは信じてあげてください。
「俺は花さんを疑ったことないよ。これまでも、これからも」
花、私は少しあなたが羨ましいです。
「ばあちゃん、今日泊まってってもいい?」
「もちろんです。晩御飯はなんにしましょうか?」
「ビーフシチュー!」
花、あなたはなんてめんどくさい夕飯をねだる子に育てたのですか!
「あ、花さん?あのさ、今じいちゃんばあちゃんの家にいるんだけどさ…ううん、歩いて。散歩がてら。…1時間かな?笑。ま、ちょっとね。それでさ、今日こっち泊まっていいかな?…え?ちょっと待って」
秋がこっちを向いて
「花さんも泊まっていいかって」
と予想通りの事を尋ねてくる。あの子は本当に秋が全て。本当なら片時だって離れたくないのだろう。
「餡ころ餅が食べたいって伝えてくれるかい笑」
「もしもし?ばあちゃんが餡ころ餅食べたいって。うん…うん、じゃあ俺のも持ってきてくれる?なんも持ってきてないんだ笑。うん、よろしくね。んじゃね〜」
さて、ビーフシチューの具材を買いに行きますかね。
「秋…」
声をかけようとしたら萩の前で手を合わせ何かを報告している。一体どんな事を萩と話しているのだろう?
「お父さん、ちょっと買い物に行ってきます」
「わかった。気を付けてな」
「それから、秋にカルピス出すときはいつもの5倍濃いのにして下さい」
お父さんが驚いた顔をしている。お父さんのカルピスはいつも薄いからそれくらいでちょうど良いんですよ。
私は近所の大型スーパーまで歩く。いつも、毎日のように歩いている道。けれど昨日までとは違う。景色が昨日より色付いていて明るい。聞こえてくる信号機の音や車の音も昨日より高い。何より私の体が昨日より軽い。
「なんて簡単な人間なのかしらね」
思わず嘲笑が浮かんでしまう。
私は花の母親で良かった。
萩の母親で良かった。
何より、秋の祖母で良かった。
世界は私にも、とても甘いような気がした。
それなのに…
「ちょっとお母さん!ビーフシチューに大根入れないでよ!」
「いいじゃない!これは私のオリジナルなんです!」
「ねぇ、ちょっと。ケンカしないでよ」
「秋、お母さんの肩持つわけ?」
「秋は大根嫌い?」
「いや、好きだけどさ…」
「なら秋、今度から我が家のビーフシチューの具は大根のみです!」
「花さん、それはもはやジャパニーズ ホワイト ラディッシュ シチューです」
「発音が悪いわよ?Japanese white radish。はい!」
「Japanese white radish」
「good!」
「要は大根汁だろ?」
「お父さんは黙ってて!」
なんて我が家は騒がしいのだろう?




