練生川三太郎の章 2
出勤時には寒いと思っていたのに、今は全身が火照って暑い。ようやく待ち合わせのレストランに着いたのは約束の時間から30分遅れた頃だった。
「遅いよ三太。レディ待たせるなんて紳士じゃないね。モテないよ?」
定時に会社を出てタクシーに乗り自宅に帰ってシャワーを浴びた。そこまでは順調だった。着替えを済ませタクシーに乗り込んだが、工事で片側一車線になっている道路でどっかのアホが事故をおこしたらしく、渋滞に巻き込まれた。ノロノロと進んでは止まりを繰り返しいつ着くかわからなかったのでタクシーを降りてこのレストランまでの4㎞を走ってきたのだ。なのに第一声がそれなのか?
「お前…この姿見て…そういう…ことしか…言えないのか?」
せっかくシャワーを浴びて着替えたのに、シャツは汗だくだしジャケットは握りしめながら走ったおかげでぐちゃぐちゃだった。これなら職場から直行した方がはるかにマシだったと悔やまれる。目の前に置かれている花の水を一息で飲み干しようやく喉の渇きが少しだけ癒された。
「なに、どうしたの?追われてんの?」
身を乗り出しヒソヒソと話すこの女はどこまで本気でどこまでが冗談なのだろう?
「うるさいよ」
ウェイトレスが持ってきた水をまた一気に飲み干し、花が食べているボンゴレビアンコを俺も注文する。ウェイトレスが俺のボンゴレを持ってきた時にはすでに花は食事を終えていた。ラーメンのようにパスタを勢い良くすすると
「品がない男も嫌われるよ?」
と軽蔑の眼差しを向けられた。
「あいにくモテモテだバカやろう」
3分ほどでお上品にチマチマと盛られたパスタを完食したが、4キロ走って失われた体力を取り戻すにはいささか少量すぎた。
「マルゲリータひとつ」
花が頼んだコーヒーを持ってきたウェイトレスに追加注文すると、
「まだ食べるの?」
と呆れた顔をされた。ウェイトレスが厨房へ去っていくのを見届けて、
「こんなお上品な店のお上品なパスタでお腹いっぱ〜い♩とかありえないだろ。そのくせ一皿1000円以上するとかなんなの?バカなの?死ぬの?吉牛見習えよ」
と文句をたれると
「あんた吉牛大嫌いじゃん」
とようやく今日初めての花らしい笑顔を見せた。
「秋くんは元気?来月から中学生だな?制服はもう出来たのか?」
やっと見れた花の笑顔はたった3秒で怒りの表情に変わった。
「ちょっと馴れ馴れしく呼ばないでよ」
ちゃんと君付けしたじゃねぇか。
「はいはい、すいませんね。で、それでどうなの?」
花がどう思おうが俺は秋の近況を聞かなければならない。それを聞く理由がある。
「聞きたいの?」
「聞きたいよ?会えないんだからお前から話を聞くしか秋のこと知りようがないだろ」
「や、だから聞きたいの?秋のこと、三太は」
ようやく意味がわかった。
「ああ、そういうことか。この12年でお前から送られてくる写真見たり近況聞いたりしてたら俺にだって人並みに愛情芽生えるだろ普通」
「そうなんだ?三太はもっとその、冷たい人だと思ってた」
ひどい女だと思った。
「ひどい女だな」
口に出てた。
「ごめん」
ひんやりと冷たい空気がテーブルを挟んで2人の間に流れる。そんな雰囲気でも最初に切り込まなきゃならないのはやはり男の俺だろう。
「秋が産まれて、もう10年以上も経って、今さらなんだって話だけど、俺は今でも秋の父親になりたいと思ってるんだよ」
ふっと花が笑って少しだけ2人の冷えた空気が暖められた。
「モテモテなんでしょ?笑」
あぁ、そりゃもうモテモテだよ。上司からの見合いの話が月1ペースで持ち込まれるよ。どれもこれも写真や履歴書見る前に断ってしまうけれど。
「私たちはあの時もう終わったんだよ?」
「終わらせたのはお前の方だろ?俺は別れる気はなかったんだから」
「けどあのまま続けられたとは思えないよ、やっぱり」
やってみなけりゃわからないと思ったけどそれを議論するには時間が経ちすぎている。時間が巻きもどらないなら今やこれからの話をする方がよっぽど建設的だと俺は思う。のに…。
「いい加減新しい恋に目を向けなよ。報われない恋心は若いうちなら綺麗に見えるけど、うちらみたいに歳とると残酷なだけだよ。三太はもっと良い人見つけて恋愛して結婚して幸せになりなよ。叶わないとわかってて時間を無駄に過ごすのは、たぶん不幸だよ」
そう言うもんだからつい声が大きくなってしまった。
「片思いが不幸だなんて勝手に決めつけんなよ!」
お前が言うようにそれはきっと正しいかもしれない。正しくなくてもそれが普通の生き方だろう。人間普通が1番良い。けど俺には無理だ。そういう生き方は出来ないんだ。
たとえばお前を諦めて上司の持ってくる見合い話を写真も見ずに引き受けて、ホテルのレストランで初めて会うその人の容姿が俺のドストライクで、付き合ってみたら性格も良くて料理も上手で、初めて行くその人の部屋が綺麗に片付けられていて、酒の飲めない俺に付き合ってコーヒー牛乳を飲みながら恋愛映画のDVDを観て、終わったら俺の方が大泣きしてて、「泣き虫なんですね」と笑いながら箱ティッシュを渡してくれて、あぁなんかこの娘ステキだなって思って、「今夜泊まっていってくれませんか?」とか恥ずかしそうに下向いたまま俺に言ってきて、じゃあコンビニ行って歯ブラシとか買わなきゃねって外に出たらチラホラと雪が降ってきて、初めて手を繋ぎながらその手を俺のポケットに入れて「あったかいです」って照れながら真っ直ぐ俺の目を見つめて言うもんだから逆に俺が照れちゃって、セミダブルのベッドに最初は離れて寝ているけど俺が寝返りしてちょっと体がぶつかるとビクってなって、あぁ緊張してるんだなってわかって、けどどうしたもんかなぁって考えてたら背中を向けたままで「いい、ですよ。けど、初めてだからうまくできないかもです。すいません」とか言って、それを俺は後ろから抱きしめたりして、その夜2人は結ばれて、そのままトントン拍子に結婚の話になって、仲人の上司のところに2人で挨拶しに行って、みんなに祝福されながら結婚式を終えて、2人で新居に帰って来て、疲れてソファーにグタッと横になっていたら彼女がコーヒーを入れてくれて、その暖かさにホッとして、「あぁ、家族っていいなぁ」って幸せを実感するかもしれない。
けどそんな素敵な話ですら俺にとっては2番目の幸せにすぎない。報われなくても俺にとっての1番の幸せがもうここにちゃんとあるという事をこいつは知らない。
お前が生きてりゃ俺はそれなりに幸せなんだよ。欲を言えば笑ってるお前を見れたらそれが1番の幸せだ。たとえ隣に俺がいなくても。
ま、そんな台詞は死んでもお前にだけは言わないけどな。
「お前なんか今日変だぞ?」
10年以上前からの約束、義務、権利、習わし、しきたり、習慣、惰性、どの言葉も当てはまらないけど、俺たちは毎月最後の土曜日に少しの時間だけど必ず会っている。秋の話を聞いたり写真を見たり、俺の携帯に送ってもらったりして2時間ほど過ごし夕方より少し前に解散する。会う場所は毎月異なり俺か花が今月はココで、というように会う日が近くなったらメールでやりとりして決めていた。それ以外は基本的に俺からは連絡しない。電話もメールも。七尾家に俺は必要であってはならない存在である。けれど、七尾家の深いところで俺は繋がっている。秋には知る由もない存在なのが俺である。
「秋に、父親のこと知りたいか聞いてみたの」
冷静に聞こうと思ったけれど思わずゴクリと唾を飲み込んでしまった。
「お前、それって。秋は?秋はなんて言ったんだ?」
「今は、知りたくないって」
ドサッと椅子の背もたれに身を預けた事で、それまで無意識に身を乗り出していたのに気がつく。少しだけ安堵した。花は続ける。
「わかってる。けどこないだまで小さい子だと思ってたのがあの子もう中学生になるの。きっとすぐ高校生になって、大人になる。子供の成長スピードは私よりも早いんだと思ったら焦っちゃった。私はまだ覚悟が出来てないや。本当のこと言って、あの子に嫌われるのが、私は怖い」
花の手は震えていた。いや、手だけじゃなく体が小刻みに震えている。体がそうなのだ。きっと胸の中では、と思うと人前もはばからずに抱きしめたくなった。
「お前が…」
花の顔を見ると涙を流していた。それはそれは綺麗な涙だった。けどその綺麗な涙でさえ花の心を洗い流してはくれない。花と秋と、そして俺を含め2人に関わる人達との関係は花の涙ひとつでは洗い流せるほど簡単で軽いものではない。
「お前が育てた秋は真実を知ったらお前を嫌うような人間なのか?俺は会ったことも話したこともないけど、あいつに限って絶対そんな事ないって信じてる。もっと自分に自信持てよ。お前はこの世で1番母親に相応しい女なんだ。お前は秋の母親だろ?きちんと知りもしないこの俺に、秋の事を語らせるなよ。」
優しい男ならどんな言葉をかけるだろう?残念ながら俺は優しい男ではないから思った事しか花に伝えられない。だからせめて本音を言おう。口から出た言葉はその瞬間から自分だけのものではなくなってしまう。そして発した側の意図とは違う受け取り方をされてしまっても、それは自分の責任になってしまう。ならばだからこそ、自分の思った本当の言葉を口にしたい。相手が自分の大切な人ならば余計に。大丈夫。相手は天才、神童と呼ばれたこの俺がただの1度も勝てなかった花だ。きちんと俺の気持ちを受け取ってくれるはずだ。
「ば〜か。相変わらずリアクション取りづらい事言っちゃって」
ほらね?笑
「そのくせ1番言葉にしてほしい事は言わないくせに」
ほらね?泣