秋の章 「繋ぐ」
バトンを持つ左手が重い。重さ80g程度のアルミがこんなに重いだなんて予選の時には感じなかった。俺が託されたものは、俺の肩ではなくこのバトンに宿っているのかもしれない。
俺はどうして普通に生まれてくることが出来なかったんだろう?
そう思って何度眠れない夜を越えてきたかわからない。俺は、自分がこの世に存在する意味を自分自身よくわからないでいた。
片親なんて珍しくない。そんなのは当たり前のようにわかっている。花さんは俺の事をこの世界の全てのように愛してくれている。俺は花さんが大好きだ。花さんに愛される自分が大好きだ。
だからこそ、俺は俺のことがこの世で1番大嫌いだった。もし俺がいなければ、きっと花さんは違う人生を歩んでいた。
俺を産むのを諦め、堕胎していたら…。きっと花さんは悲しむ。立ち上がれないほどの悲しみに打ちひしがれ、自分をひどく責めるだろう。花さんはそんな人だ。けどいつかそれを乗り越え、新しい毎日が始まる朝が来るのもまた必然だ。俺がいなければ大切な人と出会い、愛を育み、結婚し、俺ではない違う子どもの命を宿し、今度こそ全ての人から望まれて生まれて来るその子のことを今の俺のように大切に育てていたかもしれない。そういう人生だって花さんにはあった。俺を産んでしまった事、愛してしまった事で花さんはそういった未来を全て投げ捨ててしまった。俺が生まれてきた事で、俺は花さんの可能性を潰してしまった。花さんが歩めるはずだった普通の幸せを、俺という存在が奪ってしまった。
俺は、生まれて来るべきではなかったのかもしれない。
金曜日に華道をする事は俺にとって存在を肯定できる数少ないものだった。師範の跡を継ぐ、というわかりやすい役割が俺が生きている意味に思えた。だから花さんは望んでいないけれど、俺が生まれても良かった理由がそれしかないのならば俺はばあちゃんの跡を継ぐことに異存はない。花さんが俺を産んでもいいというばあちゃんの出した条件が家督を継ぐというものだったのなら、俺に他の選択肢はない。そうしなければならない。
乃蒼が自分の自己存在理由を失った時の乃蒼の苦しさも何となくだけどわかるような気がした。なにせ俺は俺自身が自分の存在を否定している。生まれて来なければ良かった、と思う日は少なくない。俺が楽しければ楽しいほど、嬉しければ嬉しいほど、心のどこかで冷めた俺がこう叫ぶ。
「お前が花さんの未来を潰したくせに、幸せそうに笑ってんじゃねぇよ」
楽しみの、嬉しさの興奮が一気に冷水を浴びたように冷めていく。
そうだった、俺は生まれて来るべきではなかった子だった…。
俺は、俺自身の存在を憎む。俺自身の存在理由を否定する。 俺はいつからか死にたいと思っていた。一時期死ぬことばかり考えていた。
けど、俺の生きてても良いという証をくれたのも花さんだった。
「私はあなたの母親になるために生まれてきたの。あなたの母親になれないのなら、私は生きていなかったのと一緒。あなたが生まれて来なかったら、母親になれないのなら、あなたのいない毎日がどれだけ楽しくても幸せでも、私にとって2番目の幸せなのよ。1番の幸せを知ってしまったらもう戻れないよ。だから秋、私より長生きしてね。あなたのいない世界なら私は生きてる理由がない。そんな世界、私はいらない。いつか秋にもわかるときが来るよ、自分の命よりも大切な存在がこの世にあるということを。自分の命を投げ捨てでも守りたい人がいるんだってことを。それを愛だって胸を張って言える日が来ることを。秋、生まれてきてくれてありがとう。私の子どもでいてくれてありがとう。私を私にしてくれて、ありがとう。」
俺は何者でもない。花さんも、何者でもなかった。けど、花さんは俺の母親になった。それが、花さんが生きている意味になった。俺の命は、花さんの存在理由となった。
俺の命の価値を花さんがくれた。
俺は生きていても良いのかもしれない。
俺は…生きていたい。許されるなら、生きていたいんだ!
ばあちゃんに会いに行こうと思った。
ばあちゃんに、俺が生まれる時の話を聞きに行こう。
きっとばあちゃんは俺を生むこと、反対だったろうな。普通そうだよね笑。高校生でなおかつ結婚もしないのに子どもだけ産みますなんて普通の親なら「はい、いいですよ」なんて言うわけない。厳格なばあちゃんなら余計反対するはずだ。だからばあちゃんはきっと俺を見るたび辛い思いをしてるかもしれない。俺を産むなと、堕胎しろと言ってしまった自分の過去を許せないでいるかもしれない。俺はばあちゃんに会いに行こう。会って色んなことを終わりにしてしまおう。生きたい。俺はちゃんと自分の出生を知って生きていい理由を自分の中に見つけたい。
「あきぃ!あきぃぃぃ!」
様々な人が思い思いに叫んでいる喧騒なこの場所でも、この声だけは俺の耳に届く。聞き間違えることなど絶対にありえない。
花さんはフェンスの金網を力一杯握りしめ、心配そうな顔をしている。
今の俺の、存在理由が俺の名を叫ぶ。
ありがとう、花さん。
何度言ったかわからない。何度そう思ったかわからない。
大好きだよ花さん。嘘じゃないよ、本当だよ。俺だって俺の命よりも花さんの方が大切だと思っているよ。
きっとこれも、愛なんだよね?
けどね、ごめん花さん。
このリレーだけは、勝ちたい理由が花さんじゃないんだ。
俺は幼馴染や、大切な友達や、俺と思考回路が似ているクラスメイトや、大好きな先輩や、そして憧れる人のために勝ちたいんだ。
「待てやぐぉらぁぁぁぁああああ!!!!!」
遅いっ!もっと速く!動け、動け、動け!
まだだ!もっと速く!走れ、走れよ!
このバトンにはたくさんの思いがこもっている。
俺は、そんな人たちの思いを左手に握り締めながら走っている。
これで負けましたなんて、どのツラ下げてみんなに言う気だよ?
『俺とお前できっちりカタをつけよう』
あの人は、俺を信頼してくれたじゃねぇか!
これで負けるのか?このままで俺はあの人と対等でいれるのかよ!
俺がいま走ってる意味を俺はわかってるのか?
わかっててこのザマか?
だったら生まれて来てんじゃねぇよ!
大切な人を侮辱されたやつに前を走られたままあの人にバトンを渡すくらいなら、生まれて来てんじゃねぇよ七尾秋!
『大切なのはどうやったかじゃない!どうなったかだ!方法が正しくても結果が伴わなければそれは失敗だ!方法が間違ってなかったなんて、それは他者が評価するもので、なおかつ失敗が許される状況においてだけだ!』
間違ってなんかいないよ吉岡先生。俺は「頑張ったね」なんて言葉なんかいらない。方法なんてどうでもいい。結果が欲しい。結果が全てだ。結果が伴わなければ、たとえ他者が認めてくれても俺自身が認めることなんて出来ないよ!
「秋!頑張って!頑張ってよぉ!!!」
そんな顔してんじゃねぇよ彩綾。
「お願い!秋お願い!」
わかってます、桜さん。
「あきぃ!」
声裏返ってますよ阿子さん。
「行けっ!行けぇぇぇ!」
任せてください羽生さん。
「ぶぁぎぃぃぃぃ!」
お前もう何言ってるかわかんねぇよ乃蒼。
「七尾ぉ!テメェ本当にわかってんのかよっ!」
黙って見てろや雪平。
今の俺は、エレーン・トンプソンより速ぇんだよ!
「お前…なんなんだよ…」
隣にいる息も絶え絶えのクズ先輩が俺に気安く声をかける。クズに話しかけられるのは心底腹が立つが、俺がここまで走れたのは怒りのおかげだ。最後くらいこのクズ先輩に最高の賛辞を送ろう。
「このDick Faceがっ!Get lost!Fuck you rat bastard mother fucker!Fake Ass Nigga!You are a father fucking. dick loving homoだコノ野郎!」
野島先輩の顔が見える。なんでアンタ、そんなに笑顔なんだよ。
「ごぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
俺の掛け声で野島さんがリードを取る。振り向きもせず野島さんは叫んだ。
「秋っ!俺の名を言ってみろぉぉぉ!」
アンタの名前はたくさんありすぎてどれで呼んでいいかわかんないよ。バカ?それともハゲ?時を止めるDIO?それともジャギ?
「のぉぉぉぉぉおじまぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
俺はバトンを渡す。重責を野島さんに託す。これで野島さんがたとえ負けたとしても悔いはない、なんて言わない。勝ちたい!絶対に勝ちたい!
野島さん、もしアンタが1位でゴールしなかったら俺は一生アンタと口を利かない。ずっと恨み続けてやる、ずっと蔑んだまま見下してやる。
けど賭けてもいい。アンタは必ず勝つ。
アンタほどそのバトンの重みの意味を知っている人はいない。
アンタほどそのバトンが似合う人を俺は知らない。
雪平じゃダメだ。羽生さんでもダメだ。俺でもダメだ。
アンタじゃなきゃダメなんだ!
俺は、憧れたアンタが1位でテープを切る瞬間が見たい。
それ以外なんて絶対に、絶対に認めないからな野島貴明!
「よいしょ」
阿子さんが倒れこむ俺の隣に座った。
「お疲れ。凄かったよ秋。速かったけどそれ以上に凄かったよ」
息が切れて何の返事も出来なかった。ゆっくりと呼吸を整える事に努める。
「見てる?秋」
見てますよ。俺の憧れた男が走ってるんすよ?見逃せるわけないでしょう笑。
「…速っ…あの人…足も…速いんすね…」
何でもやれんだな、あの人は。
「あの人、実は五天じゃないからねぇ笑」
阿子さんが野島さんに視線を奪われながらそう教えてくれた。
「五天じゃ…ないんです…か?」
何だよ!嘘かよ!
「うん。五天なんてもんじゃないよ」
どういう意味だろう?
「あの人は、全天だよ?」
「ぜん…てん…?」
なんですかそのでんぐり返しみたいなアダ名は。
「5教科に加えて美術、保健体育、美術、技術、家庭科、音楽。テストのある全てにおいてあの人はトップだよ」
あははは。なんて人だ笑。バカかよ笑。
「そりゃ…すごい…訳だ…」
「秋が全国1位になった模試あったじゃない?タカはアレ受けなかったんだけど、もし受けてたら秋は全国2位なんだからねっ」
阿子さんの彼氏自慢が超絶可愛い。
「ちなみに恋のテストも満点だよ笑」
そりゃごちそうさまです笑。
陸上部200mの喉仏先輩も鬼っ速だが、野島さんはそれに食らいついている。俺は何て凄い先輩を持ってるんだろう。
「秋、見てる?」
「そりゃ…見てますよ」
ようやく少し息が落ち着いてきた。
「ちゃんと見ててね。あの人が伝えたい事、ちゃんと盗んでいい男になってね」
「ははっ。頑張り…ます」
野島貴明は走る。自分のために、俺たちのために、今もの凄いスピードで。少し離されてはまた距離を詰める。それを繰り返す。並びかけるもコーナーでまた少し後退する。一進一退の攻防のまま、俺たちのリレーは残り100mとなった。




