練生川三太郎の章 1
年度最後の土曜日は昨日までの雨が嘘のように晴天だったが外に出たら相変わらず肌寒く、来週から4月なんて未だ信じられないくらいだ。そう思ったのも出勤するまでで、建物の中に入ってしまえば文明の利器エアコンが適正温度よりも高めに設定され上着を脱いでもまだ少し暑いくらいだった。もったいない。必要以上の贅沢は退屈と同じように人間を堕落させる。俺は仕事に夢中のフロアにいる人たちに気づかれないようにエアコンの設定温度を2°C下げた。
やるべき仕事は昨日のうちに終わらせておいた。なので今日出勤したところで別にやることはなかったのだが、だからと言って休むわけにはいかない。これでも一応社会人だ。とりあえずパソコンを立ち上げYahoo!でニュースを軽く見たのち、2ちゃんねるで上級者ぶってる書き込みを片っ端から叩く作業にしばらく没頭した。飽きた頃に時計を見ると定時まで残り15分。その15分はペン回しの練習に費やした。
本来なら土曜日だとしても定時の12時に帰るなんてこの仕事ならありえるはずがない。ましてや翌週に迫る年度始めに向け、同僚や後輩に加え、普段残業なんてしない上司までもがバタバタと慌てふためく地獄絵図のようなこのフロアで、のんびりとジャケットを羽織り帰り支度をするとは鬼畜の所業以外の何物でもない。だから定時になり「バイバイ菌だ」と言っても誰1人返事を返してはくれなかった。睨まれる事すらされなかった。無視だ。当然だろうと自分でも思う。これから女に会いに行くのだとみんなが知ったら、きっとこのフロアにいる全職員から一斉に物を投げられるのだろうなと想像すると妙に可笑しかった。俺は社会人ではあるけれど立派な社会人ではない。立派な社会人ではないが故に、立派な大人ではない。肩書きがどうあれ、年収がどうあれ、そのことは俺をひどく寒々しく感じさせ、普通から最も遠い場所にいるのだと実感させた。
今年1月にあった新年会での事。普段あんまり飲み会に参加しないのだがみんなから半ば無理矢理小綺麗な居酒屋に連れて行かれた。
「ネリさん土曜日になるとたまに仕事放り投げて帰ってますけど何してんすか?」
と、酔っ払った後輩が勢いで聞いてきたことがある。失礼な。やるべき仕事は全部終わらせてるよ。
「ん〜、まぁアレだ。前の仕事の後始末?的な。どこ飛ばされてもそれだけは俺がやらなきゃならないんだよ」
建前だけど嘘ではなかった。
「え〜そうなんですか?私てっきり女に会ってるんだと思ってました〜」
普段はおとなしいメガネをかけてキリリとしている女性がすっかり顔を赤くして指を俺に向けてくるくる回す。体の中にある芯が抜けたのかと思うくらい腰が据わっていない。
「ネリさんの前の職場って確か…法務省でしたっけ?その頃の?」
俺よりも年輩の頭が寂しくなった以外は実年齢より若く見える男性が尋ねる。やめてくださいと言っても頑なに敬語を使い続ける真面目な人だった。
「いや、その前です。内閣府時代の」
比較的新しい職員が数人
「ネリさんて内閣府いたんすか!」
と驚きの声を上げた。
「なのになんでこんなとこに?」
遠慮のない言葉を吐く後輩に、体の芯が抜けてた女性が肘でつついて「こら」と怒る。
「いや、いいのいいの。順調にキャリアダウンしてるだけだから」
「けど今より若い時に内閣府って、エリートですよね?」
若手の中では1番しっかりしている有望株が少し遠慮がちに俺に聞く。頭が寂しくなった男性は
「エリートどころか超エリートの中のそのまた超エリートだよ。霞ヶ関史上1人いるかいないかくらいの。」
と俺を持ち上げるけれど、実のところ俺はそんな風に思ったことはなかった。
「たまたま運が良くてトントン拍子でそこまで行っちゃったって言った方が合ってます。前任者が逮捕されたり自殺したりして引き抜かれたり昇進したり、とまぁ色々あって。霞が関なんて普通の精神レベルの人間が働けるところじゃないから。あそこは頭のいかれた連中が互いを蹴落としながら這い上がっていくシステムだから、今のここの方がよっぽど人間らしい職場だと思いますけどね」
よし、うまい具合に話が逸れてくれた。いや、きっと逸らしてくれたのだろう。ありがたい。
俺はグラスに入っている烏龍茶を一気に飲み干して
「じゃ、俺は先に帰ります。お疲れ様でした」
え〜まだ21時ですよ?と非難の声が上がったが、俺は1万円札を若手有望株に手渡しそそくさと靴を履いたところで
「ネリさん、タクシーのとこまで送りますよ」
年配男性が俺の後を追いかけてきて一緒に居酒屋を出た。外は雪こそ降っていないがキンキンに冷えていた。月が明るく、他には誰もいない。
「三太、お前相変わらず顔に出るのな」
「だからバレる前に店でたじゃないですか。山崎さんこそわかってるなら突っ込まないでくださいよ」
ガハハと雑な笑い方をしている。
「前任者が逮捕って、俺のことか?笑。逮捕はされたけど起訴はされてないからな」
「似たようなもんでしょ。つか何ですかエリートの中のエリートって。思ってもないくせに」
「あぁ、思ってねぇよ。お前がエリートなら俺らは何て呼ばれんだよ?スーパーエリートか?」
この人は頭も良くて仕事も出来るけど語彙が貧困なのだけがたまにキズだ。
タクシー乗り場は長い列ができていた。けど回転が早いのでそんなに待たなくてもよさそうだ。この寒い中で何十分も待つのは容易ではない。
「いくつになったんだ?あの子は」
「今月の春で小学校卒業です。」
山崎さんは目を細めて
「ははっ。もうそんなになるのか。俺も歳とるはずだよな」
と寂しくなった頭を撫でた。そこで年齢を感じとるのか。将来そうはなりたくないものだ、絶対。
「イケメンか?」
「普通です」
「成績は?」
「国語はかなり。あとは普通です」
「スポーツは?」
「何もしてません。運動神経は普通です」
「普通づくしだなオイ笑」
「それでいいじゃないですか。幸せなら」
山崎さんは考え深げに
「そうだなぁ。普通が1番いいよな」
としみじみ言っていた。
普通が1番だ、俺らと違って。なにも特別じゃなくていい。幸せだと思えるなら、それが1番いい。
あの子は幸せにならなきゃいけない。
あの子の母親も幸せでなきゃならない。
そのためなら俺を含むすべての大人が傷ついたって構わない。




