秋の章 「 花 + 秋 = 家族 − 父親 」
乃蒼のお父さんは俺の手を強引に引いてゲストルームから出た。びっくりして涙は止まってしまったが、かまわずに俺を重厚な扉の隣にある小さな部屋に入って鍵をかけた。中は四畳半ほどの部屋で、思うに乃蒼のお父さんの仕事で使う部屋なのではないだろうか?
「ごめんね。もし私がしたことで傷ついたのなら謝ります」
乃蒼のお父さんの声は優しかった。今目の前にいる人が自分の父親でないことがひどく辛かった。
「違います。これは、俺の勝手な都合で…」
どうやって説明すればいいのかわからない。
「俺にお父さんがいなくて。乃蒼が羨ましくて。なんか違う。そうじゃなくて、なんて言ったらいいか…」
「もしかして、寂しい思いをさせてしまいましたか?」
寂しい?俺が?そう思ったことはないです。花さんがいつも居てくれたから、寂しいと思うことはなかったです。
そう思う心とは裏腹に、涙がまた溢れてきた。
トン…トン、とドアをノックする音がした。
「すいません、秋がどうかしたのでしょうか?」
やばい、花さんだ。俺が泣いていたらその理由を話さなければならない。父親のことが原因だとは知られたくなかった。
俺は乃蒼のお父さんに開けないで欲しいという意味で首を振って懇願した。しかし彼もまた同じように首を横に振る。
カチャ、と鍵を開け花さんを招き入れる。俺が泣いているのを知ると、花さんはとても不安そうな顔をした。
「秋くん、君はさっき自慢の母親だと言ったじゃないですか。私には君たちの家庭に口を挟むことは出来ないけど、私が1人の親として言える事は、お母さんを信じなさい。どんな言いにくいことでも親というものは必ず受け止め、そして何があっても子どもの味方です。私やイレーヌが乃蒼の苦しい時に寄り添ってやれたのは、あの子が全てを話してくれたからです。君と花さんならどんな事でも大丈夫だと私は思っています。だから鍵を開けました。君のお母さんはちょっと凄いです。不安にならず全てをぶちまけてもきっと受け止めてくれますよ」
では仕事に戻ります、と部屋を出て行き俺と花さんは2人きりになった。
花さんは「大丈夫?」とポケットからハンカチを出して俺の頬を拭ってくれた。ありがとうと言って俺はそのハンカチを花さんの手から受け取る。
「ごめんね」
「何があったの?」
俺は上を向きたかった。上を向いて気持ちを整えたかった。けどさっき乃蒼のお父さんが言ったように、全てをぶちまけてしまいたかった。決して花さんを責めたかったわけではない。ただ、受け止めて欲しかったんだ。
「乃蒼のお父さんを見てて、知りたいと思っちゃったんだ」
「あなたの父親のこと?」
一度だけうなづく。
「けどそれは、なんだか花さんを裏切るような気がして、嫌だったんだ」
ああ…と花さんの目がうるうるとしだし、今にも零れ落ちそうなのを俺は手に持っていたハンカチで抑えた。ハンカチは花さんの手に戻った。
「俺は花さんが好きだし、とても感謝してるよ。本当に本当にずっと一緒にいたいって思ってるんだ」
うん…うん、と花さんはハンカチで抑えたままそう返事をした。
「ずっと、花さんを裏切りたくないと思って聞けなかったんだ」
「うん、わかるよ。ごめんね、ごめんなさい」
泣いている花さんはとても小さく見えた。
「秋?」
俺は…、今日は俺の方から抱きしめた。いつも花さんがそうしてくれるように、花さんの気持ちが落ち着くように。
「ごめんね花さん。どうやったって、父親のことになると花さんを傷つけてしまうよね?けど花さん、いいかな?俺、父親のこと知りたいって思ってもいいかな?それで花さんが傷ついても、俺はどこにもいかないでその花さんの隣にいるから、知りたいって思ってもいいかな?」
花さんが俺にするように癒してはあげられないけど、どこにもいかずにそばにいることだけは、その言葉に責任を持てる。
「もちろんいいに決まってるじゃない。ごめんね、ずっと我慢させててごめんね」
「謝らないでよ。ありがとう花さん。俺は花さんの息子で良かったよ。俺をこんなふうに育ててくれてありがとう」
花さんはうわ〜んと大声で泣きだし、俺の背中には痛いくらい花さんの指が食い込んだ。その微かな痛みが、花さんの悲しさや喜びがぐちゃぐちゃに混ざり合ったもののような気がして、俺は少し嬉しかった。
コンコン、というノックの音に返事をすると乃蒼のお父さんが花さんのカバンを持ってきてくれた。
「お話中のところすみません。きっと必要になるかと思いまして」
「化粧直したかったので欲しかったところです。ありがとうございます」
花さんと乃蒼のお父さんはそれだけしか言葉を交わさなかったが、なんとなく大人だけがわかる空気の伝達で俺たちの話に一区切りついたというのが乃蒼のお父さんにはわかったのではないかと思った。
「あの…ありがとうございました」
俺は今日乃蒼のお父さんの言葉に揺り動かされてばかりだった。乾杯の時の乃蒼に対する愛情や、花さんを信じなさいという言葉があったからずっと言えなかった言葉をいま花さんに伝えることができた。
「いいえ。感謝しているのは私の方ですよ。乃蒼がいま幸せなのは秋くんがいたからです」
「それは違います。乃蒼自身が行動したからです」
乃蒼自身もイレーヌも、そして乃蒼のお父さんまでもが俺のおかげにしたがる。けどそうじゃない。
「私はそうは思わないよ。あの子は臆病な子だ。たった1人でそんなことができる子じゃない。乃蒼の中に君がいたからじゃないのかな?孤独じゃなかったから何かを始めようと思ったんじゃないのかな?1人では不安で動けなくても、誰か1人でもいたらその安心感は勇気に変わるものだよ。だから秋くん、やっぱり君のおかげだよ。この1年の乃蒼の自信は君によるものだと私は思ってる。あの子が髪を伸ばし始めたのは君たちがいてくれたからだ。だから君も、1人じゃないからね。乃蒼がいる。荒木さんや佐伯くんもいる。イレーヌも私もいる。何より君の自慢の母親がいるじゃないか。なにも怖がらなくていい。友達が支えてくれる、大人たちが守ってくれる。そして花さんに寄りかかればいいんだよ。君の未来にはなんの不安もない」
この人は、不思議な人だ。その言葉で俺の心を鷲掴み、そして勇気をくれる。俺は花さんのことを世界で1番の母親だと思っているけど、この父親とイレーヌを両親に持つ乃蒼を少しだけ羨ましいと思った。




