吉岡克昭の章 2
「俺は、教師をしていて良かったよ」
妻が持ってきたビールのプルタブを開け一口飲んだ。いつからだろう?この苦味を美味いと思うようになったのは。けれど生きて行く上での苦味は40になった今でも慣れる事はできない。そんな日々が当たり前になっての、今日だ。苦い毎日の中でのほんのわずかな甘みで、胸の中は染み入るように多幸感に溢れていた。
「ちょっと、いきなり感傷に浸られてもついてけないよ。最初っからきちんと話して」
俺はあまり仕事の話を妻にはしない。子どもとはいえ個人情報は守らねばならない。俺は去年の島田先生からの話を個人名は伏せて妻に話した。本来はそれすら許されるものではないかもしれないが、俺は今日気分が高揚しているのか止める事はできなかった。いや、むしろ話したかった、聞いて欲しかった。
「ほんと無責任ね、その小学校の時の担任は」
妻は感情が豊かだ。思ったことをそのまま口にする。それでも嫌われないのは、彼女の根が優しいからなのだろう。
「けど納得した。去年の夏前くらいに家帰ってきても部屋に篭って何かとにらめっこしてたのは全校生徒の顔と名前を暗記するためだったんだね」
俺は記憶力はいい方だが、700人余りの生徒となると骨が折れた。知っている生徒は三分の一もおらず、見たこともないような生徒の顔がズラリと並んでいた。けどそれは俺の怠惰だ。廊下や全校集会で視界には入っていたのに気にも留めなかったから記憶に止まらなかったのだ。一年前の俺は慢心で教師をしていたのだと思い知らされた。
「顔と名前が一致したら今度は交友関係だ。それは資料なんかないしどこで誰と誰が繋がってるかなんてただ眺めているだけじゃ分かりっこない」
だから俺は休み時間になると職員室にはほとんどいなかった。構内を歩き回り体育館に顔を出しどこで誰が誰といて何をしているのか、何を話しているのかを注意深く観察した。きっと生徒からは煙たがられていただろう。けどそれも抑止力の1つになっていればそれで良いと思った。
「ホント、不器用だねぇ笑」
自分でもそう思う。別にいいじゃないか、テキトーで。そう思わないこともない。わざわざバカ真面目にこんな事やっているのもアホらしくなる時だってあった。けど、心がポッキリ折れてしまいそうな時、鈴井乃蒼の顔を思い出すようになっていた。彼女は俺だ。自分の存在価値を見失い、それに抗うこともせず仕方ないと諦めてしまったこの間までの俺なのだ。俺は鈴井乃蒼を救うのではなく、鈴井乃蒼を通して自分が救われようとしているのを自覚していた。これがもし、徒労に終わるのなら、俺は綺麗さっぱり教師を辞める覚悟だった。俺は坂本金八にも徳川龍之介にも鬼塚英吉にもなれなかった。吉岡克昭にすらなれなかった。暴力教師という名札を付けた亡霊だった。
「それで?その子達は?」
妻は2人に興味津々だった。
「その男子生徒とは比較的早く友達になれてた。特別不純な関係でもなかった。むしろ今時こんな奴らいるのか?と思うほど、何というか…純情だった」
克昭が純情なんて言葉を使うなんてね、と彼女は大いに笑った。俺だって使いたくはないが、まさにあの2人にはとてもピッタリな言葉なのだ。
「俺はホッとしたよ。これで彼女は交友関係を広げていけると思った。けどそうはならなかった。男子生徒と仲良くなって、それで彼女は満足してしまった。それまで1人でいた彼女にとって孤独じゃないということは、それだけで余りあるものだったのかもしれない」
本来なら1人から2人、2人から4人と友達を増やし、そういった集団に所属したいという欲求が生まれるはずだ。規模が大きくなれば大きくなるほど自分を見失いがちになる。俺はその時の準備もしていたのだが、そうはならなかった。
「なんか寂しいね。たくさんいた方が楽しいのに」
「そうとも限らない」
複数の構成員がいる集団にいる場合、まとまっている時は良いが分裂し始めた場合は個人のコミュニティスキルがモノをいう。鈴井の場合そのスキルは赤子のように、まるでない。
「3人の仲良しグループがあったとして、それを2つに分けてみろ」
「2人と…1人」
「グループ内の孤立は、人にもよるがやはり寂しくて辛いよ。だからといって4人になったとしても3対1になる可能性もある。その中に1人でも先頭に立てる奴がいたら、個人の意見とは違っても協調してしまう事が多いんだ。特に女子は。だから難しいんだよ」
めんどくさいね、と妻は言った。きっと妻は学生時代そういうのとは無縁の集団に所属していたか、彼女自身が先頭に立っていたのかもしれない。
「先頭が良い方向に引っ張ってくれるのなら問題はないんだ。休みがちな生徒を注意する、学力が低い生徒に勉強を教える、無趣味な生徒に自分の興味のある趣味を勧めるなんてのはいい例だ」
「なんか克昭の教育論になってきてる。私が知りたいのは2人がどうなったかと克昭が何で機嫌いいかなんだってば。あ…機嫌が良いのはその2人の事で?」
うなづくと同時にまた笑みを浮かべてしまう。やはり俺はとても気分が良いようだ。
「その女子生徒は去年の文化祭以降、男子生徒の友人2人とも少しずつ交友関係を築いていったようだ」
「突然?なんで?」
「それはわからない。俺だって四六時中2人のことを見張っているわけじゃない。こうやって特定の生徒のことを話してはいるが、同じくらいの情報量を他の生徒でも話せるほどいろんな生徒を見ているんだぞ?無茶言うなよ」
ストーカーじゃないんだから。
「あはは。ごめんごめん。なんか感情移入しちゃってさ、その2人に。あ、4人か。仲良いの?」
「ああ。1人は時々無視されたり罵倒されたりしているが、それもお遊びの範囲だ。いるだろう?いじられキャラって。だがそいつもなかなか男らしい一面もあってな。それをみんなちゃんと理解している。もう1人はその男子生徒と付き合ってるようだ。小学校の6年間同じクラスだったから幼馴染ってやつだな。」
へぇ〜、なんかいいねそういうの。と妻は少し憧れがあるのか羨ましそうな顔をした。
「で、その文化祭の後くらいだ。彼女が髪を染めなくなったのは」
きっとその頃なのだろう、鈴井乃蒼が鈴井乃蒼を取り戻し始めたのは。
「最初は目立たなかった根元も次第に金髪に近い明るい色になっていった。彼女は少しずつ自分の存在価値を取り戻しているんじゃないかと思ったよ。俺は本来なら注意しなければならない立場だが、それは彼女の地毛であるしとりあえず様子を見ることに決めたんだ。本音を言えば俺は嬉しかったんだ。彼女が自分の事を表に出し始めた事が。自分を認め始めただけでなく、主張し始めたのは彼女の中でそれまでとは大きく変わった証だ。それを校則がどうのとかくだらない理由で妨げたくなかったんだ」
俺はぬるくなったビールを半分ほど喉に流し込んだ。
「だがそれで万事解決とはならなかった。当たり前だが彼女の髪の色は問題になり始めたんだ。俺と島田先生とで事情を説明して先生方にはなんとか了解をもらった。けど、わかってはいたことだが他の生徒にはそれは通用しないんだ。特に上級生は彼女に目を付けだした。今にも呼び出されそうな雰囲気にまでなってたんだ」
妻は目を見開いて驚いた顔をする。俺とは違って表情が豊かで羨ましいと思った。
「呼び出されたの?」
「いいや」
学校という場所は本当に面白いと思った。
「人知れず彼女を守ってくれた奴らがいたんだよ。やり方は決して良い方法ではなかったが、1人の人間として俺は奴らを褒めてやりたかった」
「誰?」
「男子生徒の先輩の文芸同好会の奴らだ。俺がいつも容姿を厳しく指導しているにも関わらず全く改めようとしない問題児なんだが…、見た目で人を判断してはダメだな笑。」
あいつらは鈴井乃蒼を呼び出そうと思っていた集団のところへ行き、容姿に不満があるなら俺たちにも不満があるのだろ?と因縁を付けた。俺の知る限り彼らは鈴井乃蒼とは接点がない。せいぜい七尾秋から話を聞いただけだろう。そして内容が内容なだけに七尾秋も深い話は奴らに話しているわけがない。にも関わらずあいつらは間接的に鈴井乃蒼を助ける格好になった。
「褒めてあげたの?」
「バカ言え。メチャメチャ怒ってやったよ」
本当に教師という立場は面倒臭い。褒めてやりたくてもそれが許されない。大人は不自由な生き物だ。あいつらを指導している俺に正義はない。むしろあいつらが正義だと思っている。なのに俺は立場のせいで怒らねばならない。不自由この上ない。
「克昭も、可哀想ね」
その言葉に俺は慰められた。
「そのせいもあって俺は一昨日その女子生徒に髪を黒くしろと言ったんだ。そしたら『嫌です』と言いやがった。半年前までうまく喋れなかった彼女が学校一怖いと言われてる俺に逆らったんだ。この髪の色は自分のアイデンティティーだとぬかしやがった。俺は嬉しくてたまらなかったよ。だがそれでは他の生徒が彼女を放っておかない。いつまでも文芸同好会が助けてくれるわけではないんだ。いつかまた彼女に負の感情を持つ生徒が現れ、そのせいで彼女は再び自分を否定するかもしれないと思った。せっかく自分に誇りを持てたのに、その誇りのせいでまた彼女が傷つくのは何としても避けたかった。だから、殴った」
妻は顔を真っ赤にして起こり始めた。
「ひどいっ!何も殴らなくてもいいじゃない!女の子なんだよ!ひどいっ!」
「そう、それで良かったんだ」
妻はおかしな顔をした。たまにする変顔より真面目な分だけこっちの方が面白い顔だ。
「そうなって欲しかった。理不尽な大人の理屈で彼女は髪を黒くすればいいと思ったんだ。そうすれば彼女の守りたかったアイデンティティは一教師の威圧的なものによって引っ込めざるを得なくなる。それは失ったことにはならない。俺1人罵倒されて彼女の誇りが損なわれないなら本望だ」
妻は俺の肩を殴った。
「バカだなぁ」
偉いね、と言ってるように聞こえた。
「けどそうはならなかった。彼女は髪を染めてこなかった。その代わり母親の手紙をよこした。けどそんなもの何にもならないんだ。わかってるんだ、彼女の地毛が金髪なことは。大事なのはそうじゃないんだ。だから俺はまた彼女を殴った。そしたら、クラスの奴らが彼女をかばい出したよ。裁判の話や校則の話や人種差別の話をしだした。それもわかってるんだよ。わかってるけどやらなきゃならないんだ」
俺は妻に話して初めてこの時孤独だったことを感じた。文芸同好会の奴らのように鈴井乃蒼に知られることなく彼女に手を差し伸べる事に抵抗はない。ただ孤独だった、寂しかったんだ。本当は金八先生や徳川先生や鬼塚になりたかったはずが、どのドラマにもいる腹立たしくて融通の利かない嫌われ者になっている俺に誰か気づいて欲しかった。
「克昭、仕事辞めてもいいよ?」
妻からの突然の言葉だった。
「知ってたよ?先生が辛くなってきてるの。出会った頃は活き活きしてたのに、段々帰ってくると疲れ果てて苦しそうにしてたもんね。辛かったら先生っていう職業が嫌いになる前に辞めてもいいんだよ?」
「辞めないよ」
俺は妻にそんなことを思わせてしまっていたのか。情けないな。なぁ、七尾秋。
「救われたんだ、生徒に」
自分でも驚いた。俺は涙を流していた。自分の気付かないところで俺はこんなにも苦しんでいたのか。
妻は隣に座り俺の手を握ってくれた。今日だけ、今だけ情けない姿を晒しても良いだろうか?自分で言うことではないが、今まで頑張ったご褒美としてこれくらいはゆるしてくれないだろうか?
「女子生徒の、最初の友達だった男子が、言ったんだ。俺の守りたかったものはその女子生徒の誇りだったんですねって」
喉が上下に動いてうまく喋れない。けど妻に伝えたい。俺がどんなにその生徒に救われたのかを。
「俺は最初そいつを罵倒した。卑怯だと罵った。他の生徒は一度威圧しただけで臆したが、そいつだけは折れなかった。自分は子どもだから、俺と経験も立場も違うから同じものを見ていても見え方が違うと言った。だから俺が正しいとも。けど、それをわかっていながらも彼女の今大切にしたものを守りたいと言ったんだ。それで傷付くなら一緒に傷付いて、一緒に取り戻すんだとよ。なぁ、文芸同好会といいこいつといい何で子どもの方がカッコいいんだろうな?なんで俺や大人や教師の方がカッコ悪いんだろうな」
妻は片手で俺の手を握り、もう片方の手で俺の手の甲をさすってくれた。
「そいつが叫ぶんだよ。自分の考える方法じゃ最後に誰かが嫌な思いをしなきゃならないって。どうしたらいいか教えてくれって。ああ、こいつは誰も悲しまない方法を探して苦しんでいたんだなと思ったよ。俺は自己犠牲で彼女を救おうと驕っていたんだ。けどそいつも、彼女も俺の自己満足の自己犠牲で守られることを望んでいなかった。俺よりもあいつらの方がよっぽど真剣で真摯にこの問題に対して向き合っていたんだ。情けないじゃないか。俺の半分も生きていないのに、俺がやるべき事をあいつらの方がわかっていたんだ」
辛い?教師になって辛かった?と妻は聞いた。
「ああ。辛かった。辞めたかった。去年担任を外された時やめようと思った。けど辞めるなら彼女を見届けてからやめようと思った。けど、辞められなくなった」
「どうして?」
妻は優しい。俺は弱い。妻がいなければ強く生きていけない。
「信用できると言ったんだ。卑怯だと罵ったこの俺の事を、あいつは好きだと言ったんだ。信じられるか?俺が教師を目指した時から欲しかった言葉を、辞めようとしているこんな時に言ったんだよ。そして彼女を殴った事を俺に謝れと言った。でなきゃきちんと信用できないしこれ以上好きになれないと、そう言ったんだ。鳥肌が立ったよ。今よりもっとお前は俺を信用してくれるのか?好きになってくれるのか?って。あいつは俺の教師としての大事な信念を守るだけじゃなく、これから先、教師としての未来も守ってくれたんだ」
妻はゆっくりと俺から手を離し
「じゃあ、辞めれないね」
と俺の二の腕を叩いた。
「ああ。教師になって18年。18年に1人こんな生徒が現れるなら俺はあと18年頑張ることができる。たとえ現れなくても、俺は定年まであいつの言葉1つを支えに教師をやっていけるよ」
時計の針は23時を指していた。
「そろそろ横にならないと」
俺は泣き腫らして頭が冴えたのか妙に恥ずかしくなってしまい歯磨きをしに洗面所に逃げようとしたが後ろから妻に呼び止められた。
「その子にもちゃんと謝ったの?」
俺は笑っていいや、と答えた。
「なんでよ!」
七尾秋。お前はやっぱり変なやつだ。この場にいなくても、会ったこともない妻をも味方につけてしまう。
「ありがとうって、あいつには言ったんだ」
妻は大きなお腹にも関わらず走って俺の背中に飛びついた。
「偉い、偉いね〜」
10歳近く歳下の妻に頭を撫でられ、今までの俺ならバカにするなと怒ったかもしれないが、この時は妙に嬉しくて黙って撫でられたままでいた。
寝室に行くと妻は話があると言った。少しだけ申し訳なさそうに、けど楽しそうに。
「ねぇ。この子が産まれて落ち着いたら、また少しだけ仕事始めてもいいかな?ほんとに、チョットだけ」
「それは良いけど。どうしたんだ?」
妻はベッドサイドにある写真立てを手に取り、それを見て目を細める。彼女の大切な写真。
「産まれてくるこの子のために絵本を描きたいの。昔、一緒に働いてた女性が、自分の息子のために絵本作家になったのよ。最初は私のアシスタントだったのに、あれよあれよと絵本作家になっちゃった。たまに遊びにくる彼女の息子がそりゃもう可愛くて可愛くて笑。私もね、この子のために絵本を描きたいの。この子が主人公の、とっても幸せになる話」
写真には若かりし頃の優良と優良に抱かれた男の子が写っている。
「あぁ。どんな子になってるかなぁ。きっと良い子だろうなぁ。会いたいなぁ」
彼女は絵本作家を引退し、俺の実家のある県に嫁いできた。地震によって壊滅的な被害にあった俺の故郷から優良の実家のあるここに引っ越してきたのは3年前。携帯もアルバムも瓦礫の下に埋まってしまった中で奇跡的にこの写真立てにある1枚だけが地震が起きる前と同じままで残されていた。
「この子も、あの子みたいに幸せそうに笑ってくれたらいいな」
なれるさ、お前の子だもの。
その晩俺は優良の目立ち始めたお腹に手のひらを乗せ、数年ぶりにゆっくりと眠ることができた。
鈴井乃蒼、七尾秋。お前らがこの中学を卒業したあとも、どうか笑っていてほしい。
これから先、笑えない壁にぶち当たるかもしれない。苦しくて逃げ出したい時があるかもしれない。
けど笑っててほしい。
悩み抜き、苦しんだそのあとでいいから、
笑っててほしいんだ。




