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花さんと僕の日常   作者: 灰猫と雲
第一部
45/790

吉岡克昭の章1

「ただいま」

職場から車で15分のところに我が家のマンションがある。駅の近くにあるあのマンションほど高層ではないが、しがない教師が購入するには贅沢すぎるほどのマンションだ。そんなマイホームが買えたのも

「おっかえり〜。今日は早いんだねぇ」

彼女の結婚前の貯蓄があったからだ。男としては若干情けないが、生まれてくる子どものために安定した環境を何より優先しなければならなかった。

「最近残業が続いてたからな。お前には悪いと思ってるんだがどうしても、、、」

「別にいいのに。まだ生まれるわけでもないし」

俺の言い訳を最後まで聞かずに妻はキッチンで作りかけの料理を仕上げにかかった。

「お風呂。何分?」

「え〜っと、30分」

「遅いっ!15分」

「あ、はい」

妻には頭が上がらない笑。生徒達には見せられない。


「いっただきま〜す」

妻はいつも楽しそうにいただきますを言う。初めて会った時からそうだった。俺は密かにそれが彼女の魅力の1つだと思っている。

「ねぇ、何かいいことでもあった?」

カタブツを絵に描いたような人間だと自分でも思っている。故にあまり表情を変えることはない。いつも「怒ってるの?」と子どもの頃から言われ続けた。そんな俺の、自分でも気付かない微妙な変化に妻はよく気付いてくれた。

「ん?ああ、うん笑」

思い出してほんの少しだけ笑みがこぼれる。俺が笑うのはとても珍しい事だ。それが今日は何度あっただろう?今日はとても良い1日だった。教師になって1番良い日だったと言ってもいい。

「なに?なに?教えてよ〜。珍しいよね?克昭が笑うなんて」

もちろん教えるよ。今日のことは誰かに話したくて仕方ないんだ。



去年の5月頃だったろうか?1年2組の担任、島田沙冬美から相談があると2人で居酒屋へ行った。そこは個室居酒屋だったし同僚とはいえ若い女性と二人きりでそういうところはちょっと抵抗があった。俺は妻に事情と状況を説明すると

「そんなんでいちいち許可もらいに帰ってこなくてもいいよ笑。勝手に飲んでおいで」

と快く送り出してくれた。

相談というのは彼女のクラスの鈴井乃蒼の件だった。前年受け持ったクラスで平手打ちをした事で俺はその年度はどのクラスも受け持っていなかったのと、少々教師という職業に疲れていた時期なので生徒に対しての感心が薄く、鈴井乃蒼という少女の名前を聞いても顔を思い浮かべることができなかった。

「実は今日彼女の小学校の時代の担任から電話が来たんです」

まるでないという事はないが、とても珍しい。

「どんな内容だったのですか?」

島田先生はピーチウーロンをチビリと飲んだ。そのペースだといつ飲み終わるのだろうと心配になる。

「実は彼女、母親がフランス人なんです」

「ハーフですか?」

なんだ。よくわからないけどよくあることじゃないか。

「いえ、父親も帰化された外国の方らしくて。クォーターです」

俺は今年の入学式の事を思い出す。一見して、たとえばあからさまな外人顔だとか金髪だとか、外見上特に特徴のある生徒はいなかったはずだ。

「それが原因かどうかわかりませんが、彼女、小学校時代にいじめというか…クラスから無視されていたそうなんです」

「無視ですか…。友達はいなかったんですか?」

彼女はうなづいてまたチビリと飲む。せめてゴクリと飲んではくれないものか。

「今日かかって来たその先生が言うにはいなかったみたいです。6年生の時しか担任していないようで、その前のことはわかりませんが」

「学校には行ってたんですか?」

「ええ。不登校というわけではなかったみたいです」

むしろ根性があるな笑。俺はちょっとだけ鈴井乃蒼に興味を持った。

「けれど彼女の方にも少し問題がありまして」

「と、言いますと?」

「彼女自身も周囲に心を閉ざしたまま溶け込もうとはしなかったようです」

そりゃそうだろう。なんで自分を無視してる連中に自分から溶け込もうとしなければならないのか俺にはわからない。

「その理由が、彼女の国籍にあるようなんです」

「国籍って、彼女の父親が帰化人なら彼女は正真正銘の日本人でしょう?」

「それだからです」

ゴクリゴクリとピーチウーロンを飲み出した。やりゃできるじゃないか。

「彼女は自分で日本人だという自信がないんです。国籍は日本でも元外人の父とフランス人の母親であることは彼女の中で自分は日本人であるという感覚が希薄だったのではないでしょうか?髪も、金髪から黒に染めているそうです」

「なぜです?地毛なら良いのでは?」

「日本人であろうとしたのではないでしょうか?少しでも日本人に近づいて、自分が日本人であると思いたかったからじゃないでしょうか?」

とても感受性の豊かな子だと思った。それ故に傷つきやすいのかもしれない。

「鈴井さんは、自分は偽物の日本人だと劣等感を感じていて自己同一性を喪失しているようだと電話で言ってました。だから無視されている自分を受け入れてしまっている、と」

「親子仲はどうなんですか?」

「とても仲が良いそうです」

「それも小学校の時の担任が?」

「はい」

俺は少しイライラしてジョッキに入ったビールを一気に流し込んだ。テーブルにあるリモコンで店員を呼びもう一杯注文する。

「あ、私は日本酒…そうだなぁ、鏡花水月を冷やで」

おい、無理はするな。

「それにしても、なんでそれをウチに電話して来たんだ?」

「そこなんです!」

ドンとテーブルを叩く。

おい、なぜそのグラスは空になっているんだ?いつからそんな目が座っていた!俺はいつから、この女が飲めないと錯覚していた?

「その元担任、それだけ知っておきながら自分では何にもしなかったんですよ?なのに私にはよろしくお願いします、とか調子よすぎませんか?自分がやらなかったことを人に押し付けるなんてちょっと無責任すぎません?」

お待たせしました、と店員がジョッキと日本酒を持ってくる。日本酒だけキャンセルすることは出来ないだろうか?

「鈴井は今でも1人ですか?環境が変わって何か変化はないんですか?」

目の座った女と話すのは多少恐怖心がある。

「彼女は入学と同時に引越して学区が変わりましたからね。幸か不幸か彼女のことを知っている人はうちの学校に1人もいません。だからなのかはわかりませんが、1人だけ鈴井さんと話している男子生徒はいます。なんか見ていてたどたどしいというか、スムーズではありませんけど」

「それは、正常な距離感ですか?」

彼女はムッとして俺を睨む。

「どういう意味ですか?それは!」

「あ、いや、だから。多感な時期です。いくら鈴井が自己同一性を崩壊させていたとしても女子である以上誰かに恋心を抱くことはあります。彼女たちの年代ではそれは大きな変化をもたらします。鈴井の場合それが良い方に向かってくれたら彼女の自信を取り戻すきっかけになるかもしれませんが、一歩間違えたらより一層問題は根深くなります。男女間のことは鈴井だけで距離を保てるものではありません。その男子も良い距離感と関係性を保てないと鈴井もその男子生徒も2人で結局は傷付いてしまうんです」

彼女は真剣に俺の話を聞いている。目は座ったままだが。

「で、どんな生徒なんですか?その男子生徒は」

「わかりませんよ」

吐き捨てるように言って彼女は日本酒を一気した。日本酒を…一気…だと?

「まだ担任になって1ヶ月ですよ?素行が不良とかなら注意深く観察しますけどクラスに40人もいるんですよ?把握しきれてるわけないじゃない!なに?それとも吉岡先生なら1ヶ月で全員のこと把握できんの?そりゃすごい!見習いたいもんだわっ」

キレた…。ついにキレた。

「いや、そういうわけでは。ただどんな生徒か知っているのかと…」

「だから知らないって言ってるじゃない。耳あるの?それとも記憶力がないの?」

「あ、じゃあ、島田先生は鈴井の事をどうしていこうと思っているのですか?」

みるみる激昂のトーンが絞られシュンとなる。正直に言おう。面倒臭い。

「わかりません。とりあえずわかりません。どこまで介入すべきかもわかりません。私は彼女たちと違って大人です。私のすべての言葉が彼女たちの中に浸透するとは思えません。むしろ、同年代の方が彼女の支えになれるような気がします。彼女の場合はそれが難しいんですが」

なんだ、ちゃんとわかってるんじゃないか。

「同感です。俺らが言うことは素直に受け取ってはもらえない。同年代の友人からの言葉の方があの年頃には響きます。幸い彼女はかろうじて今1人ではない。少し見守ってみましょう。そして、彼女らのペースに任せましょう。それは私たちが思うよりとても遅いかもしれませんが、急かすのが良いことだとも限りません。出来るだけ彼女らのやり方で、ペースで、私達は見てやりましょう。必要な時に私たち大人が介入すれば良いんです。そのための準備と観察を怠らなければ大丈夫なはずです。」

はい、と言って彼女は呼び鈴を押す。また日本酒を頼もうとしたら絶対に制止しようと思ったが、彼女は水を一杯頼んだだけだった。心底ホッとした。



次の日から俺は鈴井乃蒼と七尾秋を観察し始めた。もちろん俺にも教師としての信念がある。その2人を見るならば、残る生徒全員を同じように見なければならない。俺は3学年全員分の顔と名前はもちろん、成績はどうか、なんの部活に入っているか、交友関係は、何かトラブルをかかえていないか、家庭環境はどうか、進路はどうするつもりなのかなどを徹底的に把握することに努めた。クラスを持っていない分そちらの方に力を入れることができた。もちろん、それで彼らの全てを把握できたなどとは思わない。そんなに彼らは簡単ではない。けれどデータは大事だ。指導する際にたくさんの選択肢の中から1つだけに絞らなければならない。その選択肢から最良を決定するためにデータは1つの手がかりになると俺は思っている。

彼らの今はこれからの人間形成においてとても大きな意味合いを持つ。今ここで転んでもよい。転ぶ方が良い。ただ、転んでも立ち上がり方を知らなければその場にしゃがみ込んだまま動けなくなることもある。そういうのは大人になってからで十分だ。今の時期は転び方と立ち上がり方を学ぶ時だ。立ち上がり方がわからないなら、大人が教えてやれば良い。そのための教師だ。その教え方は教師によって様々だろう。彼らの中にスッと入り友達のように接する人もいるかもしれない。本音を言えばそういうことができる人が羨ましい。けど俺は昔から「怒ってるの?」と言われるほど感情表現がうまくない。口もどちらかと言えば悪い。だからそういう鬼教師という役割で指導してきた。昨今の教師は生徒に怯え、親に怯え、したいこともできないのが現状だ。叩けばすぐに教育委員会に訴えてやると言われ、親からもクレームの電話が入る。なぜだ?悪い事を悪いと言うのがなぜ許されない?教室内で金銭を窃盗した生徒を平手打ちして何が悪い?悪い事をきちんと悪いと伝えなければその生徒は間違って学んでしまう。悪い事を悪いと言えないのならば、言葉は悪いが恐怖で抑止するのも方法の1つだ。俺が怖いから悪い事をしない、それも抑止方法の1つだ。もちろん好んでやっているわけではない。とても短絡的で幼い抑止圧だと思う。本来はきちんと言葉で説明して理解させるのが1番だ。だが今の時代それでは伝わらなくなってしまった。だから俺1人が悪者になれば良い。それで生徒が正しいレールに乗れれば悪者になった甲斐があるというものだ。

ただ、俺はやはりそういうのとは真逆の教師になりたかった。金八先生を見て教師に憧れ、教師びんびん物語で目標になり、GTOで進路を決めた。それらに出てくる教師は皆一様に生徒から信頼が厚かった。好かれていた。俺はそういう教師になりたかったはずなのに、いつの間にか嫌われようとしている。

「向いてなかったのか?」

と頭によぎった去年、俺は教師という職業に誇りを持てなくなった。いや、そうではない。教師であるという俺に誇りが持てなくなった。鈴井乃蒼と一緒だ。教師の俺が教師であるという同一性を失い壊れてしまっていた。

だから島田先生から鈴井乃蒼の相談を持ちかけられた時、もう少しだけ頑張ってみようと思った。転んで立ち上がり方を忘れその場にしゃがみ込んでいるのは俺だけで良い。だが鈴井乃蒼、お前はダメだ。しっかりと立ち上がる術を身につけなければならない。今しゃがみ込んだままではお前は一生自分を好きになれない。それはつらいことだぞ?何よりも不幸なことだぞ?だから七尾秋、間違えるな。中1の子どものお前に押し付けるのも酷な話だが、お前のやり方1つで鈴井乃蒼はこれからが決まる。その重要さをお前は知らなくていい。だから臆さなくて良い。普段のお前で、お前のその人間性で鈴井乃蒼と関わってみろ。間違えたら俺が正してやる。圧力でお前を正しいレールまで導いてやる。嫌われて結構。ただお前も鈴井乃蒼も楽しい学校生活を送ってくれ。

「吉岡とか嫌な奴いたよな笑」

と、2人でいつか笑い話でもすればいい。その時笑っていればそれでいい。そして、それはこの学校の全ての生徒がそうあればいいと思う。ただの中学教師1人が抱えるにはいささか力が足りないかもしれないが、俺はお前ら全員が笑って卒業してくれればこんなに嬉しいことはない。

ただもし1つ、願ってもいいなら。

誰か1人でもいい。1人でもいいから俺のとこを好きだと、信頼できると思って欲しい。贅沢な事だ。わかってる。

けど誰か1人でもいたなら、俺は教師になって良かったと思える。1度だけでいいから、そう実感してみたいと俺は心の底から願っていた。

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