秋の章 「優しさの在り方2」
授業が終わり、帰りのホームルームで教室内に再びパシーンと乾いた音が響いた。教壇には担任ではなく、吉岡先生が立っていた。
「染めてこいと言わなかったか?」
乃蒼の髪は昨日と同じく明るい色のままだった。代わりにイレーヌからその髪は乃蒼の地毛であると書かれた手紙を先生に差し出したが、それを読んだあとでのコレだった。つまり、そんなものは関係ないと言う事だった。
「明日までに染めてこい」
怒り。怒りのコントロール。自分の怒りは自分のもの。自分だけのもの。乃蒼は今なにを求めている?乃蒼のいまの気持ちは?どうしたら乃蒼を助けられる?乃蒼を縛り付けなくてすむ?逃げ道を作ってやれる?
…わかんないよ!昨日一晩考えて出なかった答えがこの瞬間に出るわけないよ!俺は雪平ほど頭良くないんだ!知るか。もうどうにでもなれ!
ガタン、と俺が立ち上がろうとした拍子に後ろの席にイスが引っかかってしまい中腰の姿勢にしかなれなかった。格好悪い。俺はいつも肝心な時にカッコがつかない。それに比べタケル、彩綾、雪平はきちんと立ちあがっていた。
ん?雪平?雪平も?
立った俺ら以外は冷めた目をしている中で最初に口火を切ったのはタケルだった。
「先生、ちょっといいですか?昨日父親に聞いてみたんですけど、昭和の60年代に似たようなことが起きて裁判沙汰になっているんです。地方裁の判決は人権侵害に触発するとして原告の訴えを認めています。きちんと判例集にも出てますよ?」
これだけを聞いているとタケルの父親は弁護士のように聞こえるが実のところそうではない。検事だ。まぁ、今はどうでもいい事だ。
「だからどうした。ここは裁判所じゃない。判例なんてどうでもいい。そんなことを論じてるんじゃない。校則違反をするなという話をしているんだ。」
二の句を継げないタケルから次のバトンを受け取ったのは、彼女の彩綾だった。
「おかしくないですか?乃蒼の髪は地毛ですよ?校則には染髪の禁止って書いてますよね?黒に染める方が校則違反じゃないですか?」
「何のために校則があると思っているんだ?何のためにお前らはその制服を着てるんだ?そんなこともわからないで先生と議論しようとするんじゃない。いいか、わからないようだから教えてやる。規則というのは、特に校則というのはお前ら生徒の秩序と平等を守るものだ。それに逸脱しているなら正さなきゃならない。鈴井の件はそういう事だ。地毛だろうが周りと違うなら同一にすべきだ。もし鈴井の件を許せばいろんな理由をつけ逸脱し、秩序を乱す生徒が出てくる。そういった生徒にお前らはどう説明する気だ。よしんば説明できたとしよう。じゃあ鈴井は他の生徒からどんな目で見られる?昨日鈴井は1年の時に髪を黒に染めていた理由を目立つのが嫌だったからと言ったよな?鈴井だけ許されたら鈴井のことを知らない生徒はどんな目で見ると思うんだ」
お正月、神社にいた小集団のことを思い出した。彼らがなぜ乃蒼を悪く言っているのか俺には理由はわからない。だけど本人には届かないだけで悪意は生まれているかもしれない、ということは誰にでもあり得る。人畜無害だと俺は思っている乃蒼でさえもそれは例外ではない。
「なぜ鈴井だけ許されているのだろう?なぜ私たちは許されないんだろう?それは鈴井をこの学校の中で孤立させる原因になりかねないとどうしてお前らはわからない!これは鈴井を守るためでもあるんだ」
叩いた事は今でも納得いかない。謝るまで許してなんかやらない。けど、同じものを見ていても立場が異なれば俺の見ているものとは違ったものがみえているんだな、とこの時俺は思った。
「じゃあ、黒人が来たら先生は肌を白くしろと言うんですか?」
バトンは学年トップ雪平に渡ったらしい。
「鈴井は外人の血が入っているからこの髪の色なんですよね?それを否定するのは人種差別になるんじゃないですか?」
「お前は頭は良いが想像性が乏しいな?黒人が来たらみんな黒人だと思うだろう。黒人の肌が黒いのを生徒達が受け入れ難いと思うのか?けど鈴井の外見はどうだ?見た目は日本人だろ?ただ色白の日本人で、髪を茶色に染めた女の子だとは思わないのか?お前ら初対面で鈴井を見た時、一体どれだけのやつがクウォーターだとわかったんだ?」
俺は乃蒼の家の表札を見るまでわからなかった。エレベーターに乗る前に瞳の色に気付いたけど、それでもイレーヌというフランス人から生まれた子だとはその時想像できなかった。イレーヌを知ったあとでもハーフだと疑わなかった。文化祭の夜の告白。実際はクウォーター。そして日本の血は限りなく薄い。目からの情報はよっぽどの知識と慎重さがないとあてにはならない。
「けど、先生のやり方は間違っていると思います。俺はそのやり方では納得できません。アイデンティティーは何よりもまず優先すべき大切なもののひとつじゃないんですか?」
雪平は吉岡先生に食い下がる。けどこの時にはもう吉岡先生の立場から見ている乃蒼をなんとなく想像できて、少しだけ俯瞰でこの教室を見ていた。
「お前の気にいる方法で鈴井を守る必要がどこにある!いいか、大事なのはどうやったかじゃない、どうなったかだ。方法が正しくても結果が伴わなければそれは失敗だ。やり方は間違ってなかったなんて、それは他者が評価するもので、なおかつ失敗が許される状況においてだけだ。お前は鈴井の何を守ろうとしている。せいぜい鈴井の今だけだろう?この多感な時期に自分と同じ立場の人間から孤立する事が、これからの鈴井にどれだけ影響があるか考えてものを言っているのか?そしてその孤立する理由が鈴井自身が今守ろうとしているアイディンティティーによるものだ!お前らは鈴井を守ろうとしているようで、鈴井が大切にしているもののために鈴井自身が傷つくことをまるで想像していない。」
昨日花さんが言った先生がバカ教師なら乃蒼が可哀想といった言葉がよぎった。花さん、これは俺の予想だけど、この先生はバカじゃない。不器用だけどとても優しい先生なんじゃないかと俺は思うんだ。
「そもそもな!アイデンティティーなんて髪を染めるくらいで失ったりするものじゃないんだよ!だったらな、もっと守らなきゃならないものがあるんだ!それは鈴井自身だ。自分の守るべきもので傷ついたら、それを取り戻すのにどれだけの時間とエネルギーを費やすと思ってるんだ。こいつはようやくそれを取り戻しかけているんだ。俺のやり方以外で鈴井が本当に1番大事にしなきゃならないものを守れる方法があるなら、誰か何か言ってみろ!」
先生はゆっくりと教室内を見回す。生徒達は1人として何も発することはできなかった。
もし乃蒼の小学校の時の担任が吉岡先生のような人だったら、乃蒼はもっと早く自分の血に誇りを持てたかもしれない。そう思えてならなかった。だけど疑問が残る。何故吉岡先生は乃蒼が自己喪失していた事に気づけたんだろう?
「七尾。お前は何も言わないんだな。1年の時から鈴井とは友達なんじゃないのか。こんな時にだんまりか?ある意味それは賢いやり方だ。だが卑怯だな、お前は」
別に賢く立ち回ろうとして黙っているわけじゃない。ただ、俺の番になるのを待っていただけだ。決してふざけているわけじゃない。必死に考えたよ。自分の怒りで大切なものを見落とさないように、乃蒼を傷つけないように、ちゃんと守れるように、優しさで乃蒼を縛り付けないように、きちんと逃げ道を作れるように。けどわからないんだ。何が1番良い方法なのかが。だったら1番したい事をするしか今の俺には考え付かないよ。これは俺自身の怒りの放出でしかないのかな?乃蒼を傷つけてしまうのかな?やっぱりわかんないよ花さん。けどもし今からすることで乃蒼を傷つけてしまったなら、一生懸命謝ろう。許してもらうために、許してもらうまでひたすら謝ろう。きっと一生懸命謝ったら、あいつならいつか許してくれると思う。だからやってみよう。さぁ、こっからは、俺のターンだ!
「俺は、先生が言っていること、わかるような気がします。多分先生は俺らが見えていないもっと色んな可能性まで見ているんだと思います」
みんなが俺の方を見る。タケルなんかは俺を睨みつけている。そんな目で見ないでくれよ。
「多分本当に乃蒼を守るためには先生の言うように髪を黒くする方法が1番良いのかもしれません」
俺は空気が読める方だ。だからクラス中が俺を侮蔑した目で見ているのがわかる。
「お前は賢いな。それと卑怯ではないかもしれない。だが、お前のそれ…」
「けどっ!」
まだ話の途中です先生。最後まで言わせてくれなきゃ俺がクラスで孤立します。
「俺と先生は立場や経験が違うから、同じものを見ていても見る角度が違います。見ている角度が違うから、守ろうとするものが俺と先生では違うという事もわかったんです。だからきっと先生の言ってることの方が正しい。先生の方法は俺たちよりもきっと乃蒼を守ることができる。俺やっとわかりました。先生が守りたかったものは、乃蒼の存在価値なんですよね?」
誰も何も言わない。先生も。乃蒼も。タケルも彩綾も雪平も何も言わなかった。
「今守ろうとしているはずのそのアイデンティティを、乃蒼がまた否定しないようにしてくれていたんですよね?俺やタケルや彩綾はもっと早く気づくべきでした。もっと色んな可能性を考えなければなりませんでした。そうすれば先生1人が悪者になるようなこんな図式にはならなかった」
静まり返った教室のすべての視線は俺に集まっている。ごめん乃蒼。少し俺は喋りすぎている。
「だけど先生。昨日乃蒼は自分のアイデンティティーを守りたいと言いました。親からもらった遺伝子を否定することは親を否定することと同義だとも言ってました。なら俺は、これが間違った方法だとしても、たとえ結果が伴わない失敗だとしても、乃蒼がいま1番大事にしているものを守ってやりたいです。大切にしたいです。そしてそれによって傷ついてしまうのなら、またみんなで乃蒼の自分探しを手伝います」
初めてそこで先生は口を挟んだ。
「お前らは鈴井を守れるほど強いのか?偉いのか?力があるのか?そもそも守る覚悟があるのか?守る守ると偉そうに言っているが、言葉だけじゃ守れないんだぞ。そういう大人びた言葉は、それが出来る者が使わなければ戯言と同じだ。そういうことまでわかってて言っているんだろうな!」
「わかってませんよ」
半笑いで即答してやった。
「俺はいま思ってることを話してるだけです。感情論です。もちろんいい加減な覚悟で言ってるわけじゃないですよ?けどそれを先生が理解できるとは思えません。 理解してもらう必要もありません。乃蒼と、俺の友達にさえわかってもらえればそれで構いません。俺らのやり方じゃ乃蒼はきっと先生の言う通り何かを失ってしまうかもしれません。でももし傷付くなら、俺らと乃蒼で傷つけばいいと思うんです。1人で傷付くのは嫌だけど、誰かと一緒だったらきっとそんなに深手にはなりません。これは希望的観測です。」
吉岡先生は教壇に拳を叩きつけて叫んだ。
「感情論よりタチが悪いぞ!そうやって綺麗事を並べる事が鈴井にとっていい事だとでも思っているのか?」
「思いません」
これにも即答してやった。だけど、笑うことはできなかった。
「俺に、いや、俺らにそのつもりはなくても、これは乃蒼を逆に傷つけているのかもしれません。優しさに見せかけて、実は乃蒼を縛り付けて逃げ道を閉ざしているにすぎないかもしれません。そもそもが、乃蒼を大義名分にしてただ自分だけの怒りを放出しているだけなのかもしれません。昨日それを母親から教わりました。だから!わからないんですよどうしていいかっ!わからないから先生にぶつけているんですよっ!」
叫んだ。力一杯。大抵本音を言えばスッキリすることが多いけど、今は少しだけ胸が張り裂けそうだ。
「少なくとも俺は、先生のように近い将来を想像し長期的な物事の予想が出来るほど大人ではないです。だからさっきも言ったように先生の方法はきっと正しい。それはわかっています。けどタケルや、彩綾や、雪平の言ったことが間違っているとも思えません。これは俺が子どもだからわからないんですか?もっと賢かったらこんなに悩むことはないんですか?どうやったら俺らはこの件を笑って終わらせることができますか? 俺にはわかりません。俺みたいな子どもが考えつく方法は、全て最後に誰かが嫌な思いをしなければ終わらないんです」
わからない事はわからないと声に出せば、誰かがきっと教えてくれると花さんは言った。今はそれを目の前にいる先生に教えて欲しいと思った。
吉岡先生は教壇のイスにドカッと腰掛け大きなため息をつきゆっくりと、静かに話し出した。
「お前らはどうしてそう自分たちの責任で何かを決めようとするんだ。どうして黙って大人の言うことを聞いていられないんだ」
1人の男子生徒が反発する。
「なんで大人に全部決められなきゃならないんだよ」
吉岡先生は一度下を向いたあとすぐにまた正面を見据えて話を続けた。
「良いじゃないか、大人の決められたレールを歩いていれば。」
教室中が「それはおかしいだろ」という批判の声が上がる。そう言う時だけ声がデカイ。
「それが、先生の優しさなんですか?」
乃蒼だった。責めているわけではない。ただ、知りたいのだ。乃蒼も。
「そうとってもらえるとありがたいな。でも優しさとは少し違う。大人にはそういう役割もあるということだ。なにも全て正しく導くことだけが大人の役割じゃない。時にはわざと間違えた方法を見せる時もある。例えば、反面教師だな。それだって立派な道の示し方のひとつだ」
「そういうのいらねぇんだよ!」「だからって先生のする事が全部許されるんですか!」とまたクラスがざわついた。少し調子に乗りすぎている。
「うるせぇよ!」
声をあげたのは雪平だった。
「今話してるのはそういうことじゃねぇだろうが!話が見えねぇならお前ら黙ってろよ」
こいつと俺は同じ思考回路だ。ただ俺が行動化に躊躇している間に雪平は迷う事なくそれをする。俺は雪平のようにはするには、まだ何かが圧倒的に足りない気がした。
その足りない俺が何かを獲得するには人に尋ねるしか方法がない。
「先生のそれが、逃げ道の作り方なんですか?」
もしかしたらそうなのかもしれない。もしそうなら、それは俺が考えてもわからないことのヒントになるかもしれなかった。
「お前さっき母親から教わったって言ってたな?優しさに見せかけて実は縛り付けて逃げ道を閉ざしている、鈴井のことを大義名分にしてただ自分の怒りを放出しているだけじゃないか?だったか」
俺は黙ってうなづいた。
「お前の母親は厳しいなぁ」
そう言って、初めて、吉岡先生は笑ったのだ。すごいね花さん。ここにいなくても花さんはこの吉岡先生さえも笑顔にしてしまう。
「お前の親が言うようなものではないかもしらん。そもそもそんな大それたもんじゃない。お前と同じものを見ても角度が違えばお前から見えたものとは違って見えていることも確かにある。立場が違えばそれは顕著だ。けどな、そういうことばかりじゃないぞ?違う角度から見ても立場が違っても、それが本当に大事なものならやっぱりお前と同じように見えてる時もあるんだよ。今回のようにな。でもだからといって俺の年齢や職業や立場を考えたらお前と同じ事は言えないんだ。『もし傷付くなら鈴井と一緒に傷つきます』なんて俺が言ったら気持ち悪いだろ?言われた鈴井も、ちょっと困るよなぁ?笑」
クスクスと教室のあちこちに小さな笑いが起きた。乃蒼も少し笑っている。
「鈴井、俺の本心を言えば、いや、言っちゃダメか?ま、いいか、内緒だぞ。本心を言えばお前は髪なんて染めなくてもいい。そのままでいい」
乃蒼の表情は動かない。代わりに他の生徒は困惑する。
「そんなもん、どうだっていい。校則?それだってひとつのルールなだけだ。だから俺に注意され続けながら、お前がその髪の色を主張し続けるのも自由だ。その事でお前は学校の中で特異な存在となり孤立するかもしれない。けど、佐伯や荒木や雪平がいればお前は孤立したとしても孤独になることはないだろう。お前ががなくした存在価値もアイデンティティーも、そこに立ってる七尾が取り戻してくれるかもしれない。そういう選択肢もある。現に俺はそういう4人を知っている」
一呼吸置いて吉岡先生は話を続ける。
「それは俺の個人としての意見だ。だが俺は大人だ。そして今この場では教師だ。鈴井の今とこれからを教師の立場で考えたら、俺がしてきた事は間違ってはいないと思う。お前のいうアイデンティティーを否定し髪を黒に染める事は、さっき言ったようにお前を守るためだ。もちろん俺のやり方ではお前らは反感を持つだろう。そういうふうに持って行ったからな。でもなぜそれではダメなんだ?俺1人を悪く言えばそれで済む話だろう?アイデンティティーなんかは髪を黒に染めたくらいじゃ失わない。元々失いようもないものを守るより、鈴井の人間形成に影響を及ぼしかねない悪意や、自己喪失からお前を遠ざける方が俺の立場では優先されなきゃならない。」
あぁ、なんとなくわかったよ花さん。世の中はとても複雑なんだ。争いは正義と悪の2つが対極しているわけではないんだね。正義と、もう一方の正義が対極しているからとても難しいんだ。そのどちらにも立場や経験や関係や思想や守るべきものがあって、それが正しいと決めてしまうから相手が間違っていると思うんだね。正そうとしてしまうんだね。俺の怒りは俺だけのもの。その怒りに焦げ付いてたら、相手の正義も見えなくなってしまう。相手を叩き潰したいだけならそのまま怒りに燃えていればいいけど、相手とわかりあいたいと思うなら自分の怒りを抑え相手の正義を理解しようとしなければならないんだ。けどごめん。目一杯背伸びをしても、13歳の俺が花さんが出す宿題の答えにたどり着ける精一杯はここまでだ。きっとこれだけじゃ◯はもらえない。せいぜい△止まり。だけどね、俺はこれから先◯にたどり着けるように成長してみせるよ。
俺は教壇の前まで歩く。雪平はいつも俺が思っている事を先にやってしまう。だからこれくらいは俺から先にやらせてほしい。
「先生、すいませんでした」
姿勢には自信がある。今の俺の腰の角度は美しい。
「何がだ?何故お前は謝る。俺にはお前が謝る理由がわからない。お前の謝罪に、お前なりの理由があるのか?この空気を収めようとしているだけなら、それは間違っているぞ。それはお前がする事じゃない。」
「俺は自分の主張だけをしてました。それはとても恥ずかしい事だし失礼な事だって思ったんです。そう思うのと、先生に謝罪しなければならないというのがイコールでした。それなら俺は謝らなければなりません。これをしなければ、俺は本当に恥ずかしいままです」
「それもまたお前の主張だぞ?」
先生も花さんに負けず劣らず厳しいなぁ笑。
「確かにそうかもしれません。けど、まず誰よりも先に俺が謝りたいと思ったのは本当の気持ちです。これが間違っているとは思いません。間違っていないなら俺は迷わずそれをしようと思います。それに、俺らよりも先に先生に謝らせるわけにはいきません。先生には立場があるから」
俺は笑う。先生に向かって笑った。
「それは俺にも謝れと言ってるように聞こえるぞ?」
「そうです」
それを言うのにも迷いはない。これは俺の正義じゃない、先生の正義だ。先生の譲れない信念をこれからも守り続けるために必要な事だ。近い将来を想像し長期的な物事の予想をした上で避けては通れない必要な事だ。そうしなければ、傷付くのは先生自身だ。
「先生がどれだけ乃蒼の事を考えて、1人で嫌われ役を買おうとしてくれた事はよくわかりました。けど先生は昨日と今日、2回乃蒼を叩きました。それだけは間違っていると思います。それに先生なら叩かなくても、説明することだけで俺らを納得させることができたんじゃないかと思うんです」
先生はかぶりを振って弱く笑った。
「俺は先生のこと、ちょっと信用してます。さっき俺に卑怯だなって言った時、俺先生のことちょっと好きだと思いました笑。面と向かって相手のためにそういう嫌なことを言ってくれる人はなかなかいないから。俺は先生から色んなことを学びたいと思いました。だから先生、乃蒼に謝ってください。そうしてくれないと、俺はこれから先生の事を信頼もできないしきちんと好きにもなれません」
先生は今度は大きく笑った。
「七尾、お前は俺まで守ろうとしてくれんのか?さっきも言ったが守るには強さも立場も力も覚悟もいるんだぞ?わかってるのか?」
「わかりませんよ」
俺は笑って言う。
「それは卒業するまでに先生が教えてください」
吉岡先生が、笑う。さっきよりも大きく。
「鈴井!前に来い」
急に大声で呼ばれ乃蒼は体をビクッとさせたが、大粒の涙が流れた跡を手で拭い凛とした顔でゆっくりと席から立ち上がり教壇の前に立った。俺は自分の席に戻る。
「鈴井、昨日、そして今日もだな。お前を2発平手打ちしてしまった。七尾の言った通り、別の方法でお前を諭すべきだった。いまさら信用してくれとは言わない。許してくれとも言わない。だが謝らなければならない。もっとお前のことを配慮すれば良かった。短絡的な方法でお前の大事な問題を片付けようと思ってしまった。本当にすまなかった」
そう言うと深々と頭を下げ謝罪した。大人が、しかも教師がたくさんの生徒が見ている前で謝罪するというのにどれだけの覚悟が必要なのかは俺にはわからない。けど相当なものだとは容易に想像できる。謝るべきとわかっていても子どもに謝ることができないのが大人だ。だから今この瞬間、俺はこの先生が好きになった。この先生の言う事は、信用ができる。ただ、言葉の表面だけにとらわれずもっと深淵を覗かなければ本意は見えてこないかもしれない。それは、きっとこれから先俺らが生きて行く上で必要となるスキルだ。それをこの先生から学べると言うのはある意味安心感があった。この先生は信頼に足る大人だ。
「私も先生に謝りたいです。先生は私よりも私のことを考えてくれていたのに、その配慮もわからず自分の言いたいことだけをぶつけてしまいました。私のとった行動は失礼だったと反省しています。申し訳ありませんでした」
乃蒼も綺麗な腰の角度で頭を下げた。
「鈴井、ありがとう。戻っていいぞ。それから佐伯、荒木、雪平。お前らもちょっと来てくれ」
3人は自分も?という驚いた顔をしながら前に歩いて行く。
「佐伯。お前が友達のために父親に相談した事を軽くあしらいクラスのみんなの前で恥をかかせてしまった。すまない」
深々とタケルに頭を下げる。
「荒木。お前が純粋に友達の力になりたいという気持ちをわかっていながら、自分の言葉に力を持たせるためにみんなの前でお前を辱めるようなものの言い方をしてしまった。本当に申し訳なかった」
彩綾にも吉岡先生は深々と頭を下げた。
「雪平。お前はたしか鈴井とは1年の時クラスが違うよな?特別鈴井と仲が良かったという話も聞かない。お前はきっと正義感で俺に立ち向かってきたんだろう。本来なら褒めなければならない行動に、俺は褒めるどころかその気持ちを折るような真似をしてしまった。申し訳ない」
そして雪平にも。
「ただ雪平、集団を統制するのに威圧するのはむしろ逆効果だ。俺を見てわかるだろう?ましてやクラスメイトはお前と同じ立場だ。間違えれば批判の的になる。それはお前の本意ではないだろ?そのあたり、少し考え直してくれ」
雪平への言葉はそのまま俺にも通じるものがある。雪平との違いはそれをしたかしないかだ。そこには大きな差があるけれど、根本は雪平と同じ問題を俺も抱えていることに変わりがない。この言葉は俺も受け止めなければならない大事なことだと思った。
タケル達を席に戻すと先生は机に手を置きこう言った。
「そしてお前らにも、教師としても大人としても人間としても、恥ずべき行為をしてしまった。お前らを子どもだと見下し、高圧的な態度を取った。さっき俺は手段は問題ではなく結果が大事だと言った。けれどそれは訂正するよ。どんな方法で問題を解決するかは大事なことだ。俺は間違った方法でお前らを指導していた事を認めなければならない。そして謝罪する責任がある立場だ。本当に申し訳ない」
再び深々と頭を下げる。そして。
「それから七尾、お前は変なやつだ」
クラスの空気がまたほんのり和らいだ。クスクスと俺を見て笑っている人もいる。俺はさすがにどんな顔をすればいいのかわからなくなった。
「大人びた事を言うかと思えばその根拠はとても幼いものだったりする。でもお前はやっぱり少し大人だ。自分のことを卑怯だと言った人間を信頼できるかもしれないと思える人はそんなにいないぞ。少なくとも俺には自信がない。お前が謝ってくれたから俺は鈴井達に素直に頭を下げられた。俺の教師である一本の信念はお前のおかげでこれから先も守り続けることができる。だからお前には謝罪よりも伝えなければならないことがある。立て七尾」
今度はきちんと立つ。クラス中が俺を見ている。
「ありがとう」
吉岡先生は乃蒼達の時と同じように頭を下げたが、口にしたのは俺には謝罪ではなく感謝の気持ちだった。
そうして俺たちの長い長いホームルームはようやく、終わった。
放課後、俺達4人は校舎裏にいた。よくわからないオブジェを囲むようにあるベンチに2人ずつ腰掛け、そこから山の影に隠れていく夕日をみていた。それは赤い色をベースに黄色や紫のような色が混じり合ってとても綺麗な夕日だった。
雪平も誘ったのだが「今日は予備校があるから(キリッ)」と断られてしまった。さすが学年トップ。学校が終わっても勉強しているらしい。
「俺さぁ、吉岡のこと嫌いじゃないかも」
タケルはしみじみとそう言った。
「そうだねぇ。大人が私たちみたいな子どもにあんな丁寧に謝るなんて想像もしてなかった。それに私たちのこと、本当に知ってくれてた。乃蒼がクォーターな事も、私たちが仲良い事も、雪平が友達ではなかった事も」
確かに他の先生が知らないであろう事を吉岡先生は知っていた。乃蒼に自己喪失の過去があった事もなんとなく知っていたふうだった。
彩綾は少し間を置いてから
「私たちは子どもなんだなぁって痛感させられたよ。いや、子どもなんだけどね実際。小学校卒業して中学生になって、後輩ができたことで私は少しリアルよりも大人になった気がしてたんだよね。それがさ、現実を見せられちゃった。ちょっと恥ずかしい」
と言った。
「それは俺もそうだよ。裁判の判例出せばぐうの音も出ないって昨日は思ってたもん。けど現実はそんなに甘くなかった。まだ俺らは、何者にもなってないんだな」
そう。俺たちはまだ成長の途中。
「だからきっと何者にでもなれるんだよ。花さんが言ってたのは、きっと私達は何者でもないからもがけってことなんだと思う。今日みたいに、もがいてもがいてもがきまくっていればきっといつか自分が誰なのかわかるような気がする。だから私はもがいてみるよ。自分の気持ちに、整理をつけてみる」
乃蒼は今何のことを言っているのだろう?髪や瞳やアイディンティティのことではないような気がした。けどそれはきっと乃蒼自身がもがいていかなきゃ何も変わらないような大切なことなんだろうと朧げに俺は思った。
「乃蒼、ごめんな。みんなの前で少し喋りすぎた」
謝りたかった。多分雪平あたりには気付かれたかもしれない。
「ううん。いい。秋ならいいよ」
明るい茶色の瞳で俺をまっすぐ見てそう言った。
「そういえばなんか凄い難しいこと言ってたよな?」
「え?誰?先生?」
「いや、秋が」
カップルが急に俺の話をしだしたので
「え?何が?」
と聞き返す。
「ほら、優しさで縛るとか逃げ道とか自分だけの感情が何とか」
「あぁ、言ってた。あれ意味わかんないよね。乃蒼ならわかる?」
「私もわかんない笑」
花さん、学年2位がわかんない宿題を俺に出さないでよ笑。俺のこと少し買い被りすぎだよ。
「あれは花さんが言ってたんだよ。去年乃蒼とちょっとしたケンカ?でもないんだけど、俺が勝手に怒ってた時にも言われたんだ。俺の怒りは俺だけのもので誰も同一にその怒りを理解はできないって。その怒りをコントロールしなきゃいつか誰かを傷つけて、その事で俺自身が傷つくんだよって」
3人は難しい顔をしている。
「言葉としては理解できるけど、フィードバックできるかと言われたら、出来ないよね」
乃蒼でさえ理解しきれない。
「昨日は昨日で乃蒼を大義名分にして自分だけの怒りを正当化しちゃダメだって言われたよ。俺のやり方じゃ乃蒼を守れないって。ちゃんと乃蒼の逃げ道も作ってあげなきゃ乃蒼は俺たちの優しさに縛られて身動きが取れなくなっちゃう、ってさ」
「わかんないよ。難しい」
と3人は頭を抱えた。
「お前それ理解してんの?」
とタケルが聞く。
「正直全然わかんなかった。乃蒼の事で怒るのは俺だけの怒りなの?って思ったし優しさは逆に誰かを縛り付けるものなの?とも思うし、逃げ道って何?って思ったよ。」
最初はそう思った。
「けどホームルームでの吉岡先生を見てたら何となく花さんの言ってる事がわかった気がする。あの先生はきっと自分に厳しいけど俺らにはとても優しかったんじゃないかって思うよ」
3人はそれについては賛同してくれるようだった。
「私も、あの先生は最初から最後まで乃蒼の事を考えてたんだなって思った」
「うん。私もそう思う」
「そうだな。わかりづらいやり方だったけど何となくそれはわかったよ。その何となくをきちんと言語化できるのが花さんや吉岡みたいな大人で、秋はそれがわかりかけたって事なのかな?」
どうだろう?俺もまだわかりかけただけだ。
「ねぇ秋〜、1人で大人にならないでよぉ」
と彩綾がふざけていうその言葉は、花さんがよく言う言葉だ。そのくせ難解な宿題を出して俺を大人にしようとする。その一見して矛盾した行為も花さんの手にかかればきちんと言語化できるのだろうか?
「あ〜もう暗くなってきたな。帰るか?結局部活サボっちまった」
「いいじゃん、1組は部活も自由参加なんでしょ?」
「だから試合でも使いづらくてレギュラーになれないんだよなぁ。」
タケルがレギュラーになれないのは1組だからなのか?そういえば俺はこいつのバスケをしているところをちゃんと見たことがなかった。
「帰ろう。明日は大事な日だぁ」
そう言って立ち上がる彩綾に続いて俺らもベンチから立ち上がったが、乃蒼だけが座ったままだった。
「なしたの?」
タケルが聞くとようやくベンチから腰を上げた。
「あのね、今日ありがとね。」
ひどく照れ臭そうにしてそうにしながら俺たちにありがとうを言う。
「なんで〜!いいんだよお礼なんてさぁ」
と彩綾は思いっきり乃蒼の肩を抱いた。
「そうだそうだ。お礼はいいからもう少し俺にも優しくして」
とタケルは無理なお願いをする。
乃蒼の顔は幸せそうだ。それは去年俺しか友達がいない時よりもずっと幸せそうだった。
乃蒼は俺の方をちらっと見たけど、俺の言いたいことは彩綾が言ってしまったし、それに付け加えるのも野暮な気がしたのでただ笑ったままうなづいた。
「来週雪平くんにもお礼言わなくちゃなぁ」
雪平の名前が出た途端、俺と同様に彩綾も疑問を感じていたらしく
「雪平くんて言えば、なんであの人はウチらと同じ熱量で吉岡先生とやりあってたんだろ?」
と疑問を投げかけてきた。が、それに対する解答を持っているのは雪平のみで、その当人はここにはいない。今頃数学か何かを解いているのだろうか。
「吉岡がいうようにただの正義感なのかなぁ?俺にはそうは思えないけど」
「だよねぇ。ねぇもしかしてさぁ、」
まぁ俺も薄々そうかな?とは思ってたんだけど、それを彩綾はあえて言葉にした。
「乃蒼のこと、好きなのかな?」
乃蒼が固まったまま動かない。
「彩綾、やめて差し上げろ。乃蒼の残りライフがもうゼロだ」
乃蒼が固まったまま動かない。
「んじゃ帰るか。どうせ明日も会えるしな〜」
タケルの言う通り明日はまた4人で会える。明日は乃蒼の誕生日だ。
「よし、じゃあ行くか」
夕日はもうまもなく沈む。
けど明日になればまた乃蒼の誕生日を連れて、真新しい太陽が乃蒼の髪を照らすだろう。
乃蒼がまだ固まったまま動かない。




