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花さんと僕の日常   作者: 灰猫と雲
第一部
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花の章 「小3編」

次の年に担任が変わった。斎藤先生という秋が言うにはいつもジャージ姿の若い先生だ。

この年もまた母の日が近い時期に参観日があり、作文の宿題が出された。

「花さん、ちょっといい?」

キッチンでハンバーグを捏ねるのに必死の私に秋は遠慮がちに聞いてきた。

「なぁに?あ、ハンバーグ作りながらでもいい?」

秋はコクンとうなづいた。

「花さんはスパイまだ続けてる?」

ああ、作文か。スパイは去年の冬に契約満了で無事退職していた。その時に国の偉い人から次の仕事を紹介されたのだが勤務時間の関係で先方はあまりいい顔をしなかった。出来れば5時まで、というその企業に対し私は条件を譲らなかった。「では御縁がなかったということで」と言ったピッチリ七三のつまらないスーツを着た40代の男は、2日後に再び私を呼び出した。モデルみたいなおねぇちゃんが会議室まで案内してくれ、入るとつまらない七三のピッチリした男は

「先日は大変失礼いたしました。そちらの希望通りで結構ですので」

と540°手のひらを返して私を採用し、顔に脂汗を光らせていた。その40代は私の中で『秋の視界に入れたくない人 第1位』に輝いた。おめでとう。


といった経緯で新しい仕事についたのだけれど、正直今回も秋には胸を張って言える職業ではない。企業としては超が付くほどの一流企業なのだが、私のいる部署の仕事の大きな役割があまり聞こえのいいものではなかった。そして真実をそのまま話す事は頭の良い秋だからこそ誤解してしまうかもしれないと思った。

「秋、日本は二次大戦後制定された憲法9条で戦争放棄が定められているの。なので侵略戦争ができないんだけど国防という観点から今の自衛隊ができたのね。国防のためにはどうしても銃器が必要になるわけで日本で戦闘機やミサイルは三國重工とゴールドエクスペリエンスっていう会社が…」

「花さん花さん、待って」

秋がキッチンを離れ手帳とペンを持ってきた。

「もう一回最初から」

本当にこの子は…。と息子ながら感心する。わからない事をわからないままにせずきちんと知ろうとしている。今度は秋にもわかるようにゆっくりと、簡単な言葉を使って説明した。

「花さん、ごめんっ。わかんない!」

愛しさを通り越し私は思わず手についたひき肉や玉ねぎを捏ねたものが秋の服につかないように抱きしめた。なんてステキな小3なのだろう。秋の歳なら今の話がわかる方が珍しい。だから謝らないで。むしろ秋が分かるように説明できない私が謝らなきゃいけない。

「ようするに、ネネロみたいな仕事ってこと?」

今度は私が「ネネロって何?誰?」と質問する側になった。ネネロとは秋が正月に祖父母からもらったお年玉で買った子ども向けSF小説に出てくる人物で、種族は人間ではなくエルフらしい。スペーストレジャーハンターレディ(S T H L)であるという伸子☆伊東という主人公に、普通の銃火器の効かないダークブレイバーという父の仇を倒すのに必要なエンハンサーブレイブをコアとしたリンデロンVGシリーズの武器を売る事を生業としているキャラクターの事だった。秋、ごめんっ、わかんない!

「簡単に言えば武器商人ってこと?」

この子の情報を読み取る力には本当に驚かされる。もしかしたらとても偉い学者さんになるかもしれない思った。実家の母に電話したら

「あなたいい加減にしなさいよ?」

とキツく怒られた。


私の話を聞き終わった秋は去年のように辞典を何冊か引っ張り出し、メモを見ながらノートにたくさんのことを書いていた。ご飯できたよ、と声をかけても「うん、もうちょっとだけ」と作業の手を休めなかった。私は居間に座り部屋で黙々と辞典を引いてノートに書いている姿を幸せな気持ちで眺めていた。

ご飯を食べながら秋から

「花さんお仕事大変かもしれないけど、あんまり長続きしないのはダメだと思うよ?」

と大人みたいな事を言われてしまった。私は秋のストンとしたクセのない綺麗な黒髪を撫でながら

「花さんはね、引く手数多なんだよ」

というとご飯も途中で「引く手数多」の意味を調べに自分の部屋に戻った。

頭の良い子、優しい子。あんまり早く大人にならないで。花さん、もっといっぱいあなたに教えてあげたい事がある。1番最後に教えることはもう決まっているから、せめてそれまでたくさんの事をあなたに教えてあげたい。



「僕のお母さん。3年1組、七尾秋。僕のお母さんの仕事は武器商人です。去年スパイでしたがジョブチェンジしたと言っていました」

教室はドッと笑い声が起こった。秋は去年のように不機嫌に天井を見上げることもなく憲法9条について、自衛隊について、国防のための銃火器の必要性を語ったのち、


「僕は争う道具はない方がいいと思っています。だけどお母さんがその争う道具に関わる仕事をしているおかげで僕はご飯を食べたり本を買うことができています。この2つの考え方のせいで、僕はお母さんの仕事が良い事か悪い事かを決める事ができないでいます。どんなに考えてもどちらか1つを選べません。」


最初は笑っていた教室の空気が今はたった8歳の少年の書いた作文で一変していた。今は笑うことなく真剣に秋の姿を見守っている。


「けれど花さんは僕にとって間違いなく良いお母さんです。それだけは悩まなくてもすぐに答えが出ます。去年、花さんが大好きです、と作文で書いたらいろんな人に笑われました。だから今年はきちんとした言葉で花さんに対する気持ちを説明したいと思いました。」


ありがとう…


「僕は本でよく使われている「誇らしい」とか「尊敬する」という言葉の意味があまりよくわかりませんでした。けれどもし僕の想像している通りなら、僕の「誇らしい」「尊敬する」という言葉の意味はどちらも花さんに対しての気持ちです。『花さんは僕の誇りです』『僕は花さんの事を尊敬しています』、使い方はわかるけれど、まだきちんと意味がわかっていないので花さんにこれを言うのは今じゃなく、もう少し先になりそうです。ちゃんと理解できた時にこの2つの言葉で花さんに感謝を伝えるのが、いまの僕の目標です。だから背伸びせずに今年もこの言葉を贈ります。花さん、大好きです。いつもありがとう」


私は決して良い母親ではないことを自覚している。出来ることよりできない事が多いし、してあげたくてもしてあげられない事もやっぱり多い。賢い秋に怒られるか呆れられる事の方が、愚かな母親としての私にはピッタリな気がしていた。私はここに来ている母親の中では1番の劣等生で、それでも何とか母親をやれているのは他の誰でもない、秋だからだ。秋がこんな私でも笑って一緒にいてくれるから、私が母親として存在し、周りからそう認知されているだけなのだ。あなたじゃなければきっとすでに母親失格の烙印を押され、私ではない誰かのところに行ってしまっていたかもしれない。

私は今日も精一杯背伸びをして母親をやるはずだったのに、秋がそんな思いがけない言葉をくれるもんだから、拍手をするはずの私の手は溢れてくる涙を拭うのに手一杯だった。この手を叩いて愛しい息子を褒めてあげたい。たくさんの嬉しい言葉をくれてありがとう、と伝えたいのにできない私の代わりに、教室の後ろに並ぶ級友のお母さん達が秋に拍手をしてくれた。やっぱり私はダメな母親だ。その時涙で秋がどんな表情をしていたのか見ることができなかった。嬉しそうにしていたかな?それとも照れくさくて困った顔をしていたかな?上を向いて空にいる神様に「上手にできました」と報告しているのかな?私はそれを知ることができなかったことを今でも残念に思っている。



「秋くんの書く文章はホントに良いよね」

二者面談を待つ間に私はまたたくさんの父兄に囲まれた。

「去年も良かったけど今年はそれ以上でしたね」と秋が仲良くしているタケルのお母さん。

「あんな事言ってもらえる七尾さんの事がほんとに羨ましい」とタケルがちょっと気になっているらしい彩綾のお母さん。

どれも私が嬉しい言葉。内心小躍りしているのを悟られないように「ありがとうございます」とお礼に頭を下げる。

「七尾さん、どうぞ」

と斎藤先生から呼ばれ私は教室に入る。



「初めまして。担任の斎藤です」

ジャージ姿に今は使う必要がないと思われるホイッスルを首からぶら下げた斎藤先生は席に着いた後そう挨拶した。

斎藤先生から学校での秋の様子を聞いた。国語はクラスでは群を抜いて成績が良い事、運動は球技が得意な事、代わりに算数が少し苦手な事、クラスで副会長をしていること、黒板係で授業が終わると黒板を綺麗に消していること、責任感が強い事、恥ずかしがり屋だけど一度親しくなった友達とは仲良くやっていること。どれも私の知る秋が学校にいた。学校でも私の知る秋のままでいてくれた事に少しホッとした。知らない一面があったら私はきっと嫉妬で卒倒してしまうかと思う。

「実は去年の担任の三島先生から聞いていたんですよ」

どの事なのだろう?と顔に出ていたのか「ああ、作文の事です」と付け足した。

「三島先生は私の大学の先輩なんですよ。四角四面で真面目で堅物で。受け持った子供達に分け隔てなく平等であれ、けれど一人ひとり性格に合った接し方をしなさいとこのクラスを持つ時に教えられました」

このジャージホイッソーなに言ってんの?と思いながら作った笑みは愛想笑いにしかならなかった。

「そんな三島先生が秋くんの作文の事をベタベタに褒めるんです。平等であれって言ってたくせに」

三島先生は今年から5年生を担任している。娘さんは元気にしているのだろうか?

「あの子はまだあの時7歳だったのに序論、本論、結論の構成が自然に身についている。言葉の順番にきちんと意味を持っている。もしかしたら相手に与える影響まで考えてるかもしれない。そして何より書く文章は人をグッと世界に引き込ませる。とまぁ、凄かったんですよ。」

いやもう三島先生、さすがです。

「僕も楽しみにしていたのですが正直予想以上で驚いています。絵本作家だったんですよね?」

突然私の話になって「え?あ、はい」と変な返事をしてしまった。

「血、なんですかねぇ?あの文章力」

私は困ってしまい苦笑いしかできなかった。はいそうです、とは言いづらい。

「その後はスパイで今は武器商人、と」

「いえいえ、三國重工に勤めているだけですから。部署が戦車とかミサイルなどを扱っているだけで。あの子には一応説明したんですが、解釈がああなってしまって」

斎藤先生は感心した仕草をオーバーにして

「自分で解釈してあの作文ですか。あの、失礼ですがお母さんが手伝ったわけでは?」

「私は自分の仕事とそれに対してあの子が誤解しないように説明しただけです。憲法の話とか国防の話とかはしましたが、あの作文は100%あの子が自分で調べて考えて書いたものです」

秋の名誉のためにこれはきちんと伝えておかなければならない。

「秋くんはきっとお母さんを見てそういうのを学んだんでしょうね。だからお母さんを尊敬して誇りを持ってるんでしょう」

それに対してもそうですねと返事をしづらい。私の返事を待つ事なく先生は話を変える。こいつやりづらい。

「花さん、と呼ばせてるんですか?」

よく聞かれる質問。

「母子家庭なんで。父親がいない事を連想させてしまう母という単語をなるべく使わないように。それと私の息子ですけど秋を対等な1人の人間として見ながら一緒にいるので」

もちろん理由はそれだけではない。様々な理由のどれもこれもが本当で、それをひとつひとつ説明していたらキリがない。なので今日は2つだけ。


「来年も楽しみにしています」

斎藤先生から解放され玄関で外履に履き替えるとさっきまでの晴天が嘘のように雨が降っていた。困ったな、とタクシーを呼ぼうか?でももったいないなと思案していると校門のところに黄色い小さな傘を持つ秋が見えた。

「あ!花さ〜ん!傘!」

左手には大人用の傘を持ち長靴でピチャピチャと水しぶきを上げながら走ってくる。

「秋、一回帰ってまた来たの?」

「うん。雨降ってきたから。花さん傘持ってきてないでしょ?」

ああ本当にこの子は…。

「ありがとう」

私はこの小さな紳士がいるおかげで幸せというものが何かを世界の誰よりも理解している気になれる。

「ねぇ秋」

小さな傘を後ろに反らし私の顔を見上げる。

「なに?」

私はこの子を誇りに思う。まだ9歳にも満たないこの子の事を私は結構本気で尊敬している。

「大好きっ!」

え〜?なしたの花さん、と言いながら照れている。そしてとても嬉しそうな顔をみせる。

「なんでもな〜い。そうだ、今日は花さん凄い嬉しかったから晩御飯は秋の好きなのでいいよ?なににする?ハンバーグ?」

間髪入れずに答える。

「ビーフシチュー!」

ああ、本当にこの子は…。

そう言いながらこれからまた私は牛肉をコトコト煮込むのだ。

「先生と何話してたの?」

いろいろ話したつもりだったがあまりよく覚えていない。覚えているのはあの場に不釣り合いな笛だけだ。

「忘れた」

と言うと秋は大笑いして「花さんダメだよ、先生の話ちゃんと聞かないと」とお母さんみたいなことを言う。

「はい、すみません」

そう言って2人で笑いながら雨の道を帰って行った。

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