桜の章 「桜物語」
そのタイミングは突然にやって来た。
私としてはもう少し後が良かったんだけど、例えばクリスマスとかバレンタインとか。
でも多分、今が正解なのだろうと思う。
わかっていながら今を逃すならば、私はこれから一生幸せになんかなれない。
そんな気がした。
ゆきりんの事を男の子として意識したのは結構早かった。
けど、それが恋へと発展したのは忘れもしない、小学校5年生の時あの病院だった。
「桜、お願いだから手術して」
「嫌っ!絶対嫌っ!」
「お母さん達の気持ちもわかってよ!」
「じゃあ私の気持ちはどうなるのよ!」
もう何年も前から手術を受けるように言われていたけど、私は怖くて頑として首を縦に振らなかった。
本人の意思を尊重しましょうって言ってた先生も、何故だか今回の入院の時から手術を強く勧めてくるようになった。
そんなに私の心臓、悪いのかなぁ?
「手術しないと、大人になる前に死んじゃうかもしれないんだよ?」
「手術したって、大人になる前に死んでしまう事だってあるじゃん!」
ノリくんがそうだった。
ノリくんは私よりも5歳歳上の中学2年生の男の子で、私と同じ病気で入院していた。
ロビーで本を読んでいた時に声をかけられ、同じ階に入院していることもありすぐに仲良くなった。
そのノリくんが、手術した2週間後、交通事故で急逝した。
聞かされた時は本当にショックで病室で泣いてばかりいた。
悲しさと同じくらい、怖かった。
手術すれば生きられると思っていたのに、大人になるどころかすぐに死んじゃうこともあるなんて…。
そんなの、手術した損じゃない!
私は手術しないことを決意した。
それでも親や先生や看護師さんが事あるごとに勧めてくるので良い加減腹が立ってきて先生に直談判しに行くことに決めた。
立ち入り禁止の札を見ないふりして進み、『雪平 めぐみ』と書かれたプレートのある部屋の前に立つと、中から話し声が聞こえた。
ドアにそっと耳を当てると
「お願いだよ、手術してよ」
と男の子の声が聞こえる。
「ミナ、本人がしないって言ってるの。無理矢理には出来ないんだよ?」
めぐみんの声だ。
「でも!しないと大人になる前に死んじゃうんでしょ?」
この声…。
私は悪いとわかってはいたけど少しだけドアを開いた。
中でめぐみんがソファーに座っている。
男の子の顔は、背の高い大きな植物があって丁度見えなかった。
「その可能性もあるよってだけ。しなきゃ死んじゃうって決まってるわけじゃないんだよ?」
「でも!したら治るんでしょ?」
この男の子、誰のためにこんなに必死になってるんだろう?
「う〜ん、そうだねぇ。少なくとも死ぬ危険性はしないよりずっと低くなるかな」
めぐみんが私に説明する時と一緒の話し方だった。
「じゃあ桜を手術してよ母さん!」
え?桜?私のこと?
「だからね?桜が自分で手術するって言わなきゃ出来ないんだってばぁ。も〜、どうしたのミナ?そんなにワガママ言う子じゃなかったのにぃ」
「そうだよ。ワガママなんて言わなかった…。父さんと別れる時だって、泣いたけど嫌だって言わなかったじゃないか!我慢したでしょ!だけど、桜は嫌なんだ!桜が大人になれないなんて、俺は絶対嫌なんだよ!」
誰?
ねぇ誰?
あなたは、誰?
「好きなの?桜の事」
男の子の声は聞こえなかったけれど、めぐみんが
「そっかぁ。う〜ん、困ったなぁ」
とソファーに背をもたれた。
チラッと私の方を見た気がしてハッとしたけど、めぐみんは男の子に話を続けた。
「桜が大人になったら、何をしてあげたい?」
「できること全部」
「あはは笑」
「なんで笑うの?」
「あ、ごめん。そんな怒らないでよ。できること全部かぁ。じゃあお嫁さんにしてって言われたら」
「そんなこと言わせないよ」
「言わせない?結婚したくないの?笑」
「俺が言うんだ。だから桜には言わせない」
心臓が早くなった。
病気のせいじゃない、嬉しいから。
心臓が、喜んでいるから。
ねぇ、誰?
あなたは誰?
「ねぇミナ。多分ね、大丈夫な気がする」
「大丈夫って、何が?」
「桜。手術するような気がするんだぁ、母さん」
「ホント?母さん説得してくれんの?」
「しないよ」
「してよ!」
「したよ!でも私じゃダメだったの。だからミナ、もし桜が手術しないって言ったら今度はミナが説得してよ」
「俺がぁ?」
「うん。でもねぇ、多分ミナの出番もない気がするなぁ〜笑。桜は手術したくなると思うよ、母さんは笑」
また私の方をチラッと見た気がする。
「だと、いいなぁ」
「信じなさいよ」
「誰を?神様?」
「もっと素敵なものをだよ」
「素敵なものって、ナニ?」
「サダイエと桜の未来」
サダイエ!?
そこにいるの、サダイエなの!?
最初から声は似てると思った。
けど私と話す時より全然男の子っぽくて、違う人かと思っちゃった!
そっか、サダイエなんだ…。
「母さんがサダイエって呼ばないでよぉ。も〜、教えなきゃ良かったあ」
「ごめんごめん、もう言わないから笑。けどミナ、母さん仕事ばかりでロクに子育てしなかったけど、カッコいい男に育ったねぇ」
「え〜、そう?俺なんて全然カッコよくないよ」
「母さんはそう思うけどなぁ〜。ま、いっか。母さんと桜だけが分かってれば」
「母さんはどうでもいい」
「ちょっと、どうでもいいはないでしょ?どうでもいいは!笑」
「母さんとは結婚できないからね」
「ま、母さん結婚に向いてないからね…」
「…ねぇ母さん」
「ん?どした、そんな顔して」
「………いつもご飯、ありがとう」
「………ごめんね、ミナ。さみしい思いさせて」
「ううん。大丈夫だよ。じゃ、着替えはその紙袋に入ってるから。洗濯物ちょうだい」
「あんたはいい主夫になるよ笑」
「母さん、父さんと離婚した原因全く分かってないでしょ?」
「あ、すみません…」
立ち上がる気配がした。
顔を見たかったけど私がここにいるのがバレてしまいそうで急いで自分の病室に戻って頭から布団を被った。
心臓が早い。
これは病気じゃない。
走ってきたからでもない。
なんか、いい匂いがする。
そっか、私…恋したんだ?
恋って、こんなにいい匂いがするんだ!
「ねぇお母さん」
ちょっと間があって布団がガバッとめくれた。
「今なんか言った?」
「めぐみんに今すぐ来てって言って」
「あんたまた雪平先生のことめぐみんって呼んでぇ。先生は忙しいからあんたの遊び相手には、、、」
「する、手術」
「え?」
「私、手術する!めぐみんに、手術してもらう」
お母さんは読んでいた週刊誌をベッドに置くと
「そう…」
と静かに言った。
と思ったら次の瞬間病室から飛び出して行き
「ゆきひらせんせぇぇぇぇぇえええ!桜がぁぁぁぁ!!!!しゅじゅちゅ〜!!!!しゅじゅちゅぅぅぅううう!!!!」
と絶叫しながら廊下を駆けていく。
我が母親ながらとても恥ずかしいと思った。
手術は無事成功し、数週間の経過観察を経て私はようやく退院した。
早く学校に行きたい。
きっと注目されて恥ずかしい思いをするだろうけど、それよりも今は学校に行って勉強したり友達とお喋りがしたい。
それよりなにより、サダイエに会いたいと思った。
会ってどうするとかは全然考えられないけど、あのシュッとした顔を見たい。
出会った時は私よりも小さかったのに、すっかり身長はサダイエの方が大きくなってしまった。
背が高い人って、いいよね?
月曜日になるのが待ちきれなかった。
だけど、登校して早々にサダイエの噂を聞かされた。
「気を付けてね?あいつ頭おかしいから」
「桜のこと好きって言いふらしてるみたいだよ?もう校長先生にまで知られちゃってるくらい」
「クラスでもバカにされてるしね笑」
「最近じゃアレ以降クラス中から無視されてるって話だし」
「あ〜、アレね?同じクラスの女子にいきなり水ぶっかけたってやつ。頭おかしいよね?やっぱ」
「さくら〜、ホント気を付けなよ?せっかく病気治ったのにストーカー被害に遭うなんて最悪だからね〜笑」
どれもこれもがサダイエの悪口だった。
クラスメイトは私のことを心配してくれているのかもしれない。
けど聞くこと全てが私の知ってるサダイエとは別人だった。
サダイエは優しい男の子だ。
理由なく女の子に水なんてかけたりしない。
頭もおかしくない!
ストーカーでもないっ!
けれど私はそれらを訂正するよりも、絶望で何も言い返せなかった。
サダイエが、いじめられてる?
私のせいで?
私を好きだっていうことで、バカにされてるの?無視されてるの?
「ちょっと桜?顔色悪いよ?」
「え?…あ、ううん。ちょっと、おしっこ!」
「あ、私も〜。一緒に行こ〜」
おしっこなんて、出ないよ。
けれど成り行き上クラスメイトとトイレに行くことになった。
そのタイミングで向こうからサダイエが廊下を歩いて来た。
久しぶりに見るサダイエは、どこか王子様のように見えた。
あぁサダイエ…会いたかった。
私ね、サダイエのおかげで手術することに決めたんだよ?
ありがとね。
めぐみんもサダイエも、私の命の恩人だよ。
あとそれから、ちょっと話あるから!
めぐみんの部屋で話してたこと、もうすこし詳しく聞かせてもらおうか!
逃げないでね?(にっこり)
話したいことがたくさんある。
会って直接お礼も言いたい。
もっと笑った顔、見せて。
だけど…
「桜、こっち!」
「え?でもトイレこっちじゃ、、、」
「前から雪平きてるから!危ないからこっち!早く!」
「わぁ」
袖を掴まれて廊下の角を急に曲がった。
あぁ…サダイエぇぇぇ…。
「いい?桜!絶対に雪平となんか関わっちゃダメだからねっ!」
「いや、でもサダ…雪平くんはそんな人じゃ…」
「桜は入院してたからあいつのこと知らないのよ!あいつはね、悪魔みたいな奴なのよ!」
私は少なくともこのゴリラみたいな顔した級友よりもサダイエのことを知っている。
だけど、いくら反論しても誰もサダイエの評価を覆すことはなかった。
私はサダイエから命を貰った。
そのお返しがしたいのに、逆に私のせいでサダイエは苦しい思いをしている。
私のせいだ、…私の。
どうしたら出会った頃の元気で笑った顔が可愛いサダイエに戻れるだろう?
………出会う前のサダイエに戻れるだろう?
私を…好きになる前のサダイエになれるだろう?
そうして一生懸命考えて出した私の答えは最悪なものだった。
何も悪くないサダイエを、私の手によって奈落の底に叩き落とすだけの愚行だった。
私1人がサダイエを諦め、泣けばいいと本気で思っていたの。
バカみたい。
いや、バカだよね私。
嫌い。
本当に自分の事が大嫌いだった。
私はサダイエの言葉で手術を受けることを決めたのに…。
なのに私は、サダイエに何もしてあげられないどころか、追い討ちをするように深く深く傷付けただけ。
それに気付いたのは、サダイエが私とすれ違っても声をかけなくなってから。
あの時のサダイエの目は、どこも見えてないように虚ろで濁っていた。
私は取り返しがつかない事をしてしまったとようやく気付いた。
けど何かを取り戻すにはもう遅いこともわかっていた。
私は、あの頃の私がこの世で1番醜いと思っていた。
私がこの世で1番汚れていると思っていた。
私は中学に入る直前に長かった髪を切った。
人生で初めてのショートカットは、私も何か大切なものを手放そうと思ったから。
だからなんだっていうんだろう?
髪を切ったくらいでサダイエの心の傷に釣り合うわけないのに。
そんなことはわかってる。
これはただ、自分が許されようとしているだけの行為だ。
サダイエに許されなければ意味はないのに。
だけどあんなことされたんだから、きっと嫌いになったはず。
嫌い?笑
バカ言わないでよ笑。
きっとサダイエは私を恨んでいる。
信じていた人に裏切られたから。
私が裏切ってしまったから。
私は、中学生になっても自分が1番醜く汚れていると思った。
それを隠すために、化粧を覚えた。
偽物の顔でいられる事で少しだけ安心できた。
でもこの顔を、サダイエはどう思うだろうか?
ちゃんと醜いと言ってくれるだろうか?
せめてきちんと嫌われたら、ちゃんと諦めることもできたのに。
なのにどうしてかなぁ?
なんでキミはまだ私を嫌いにならないかなぁ?
な〜んてね。
ズルいなぁ。
そう、私はズルい女です。
なんだかんだ言ってますけど、こんなにも自分のことを想い続けてくれる人がこの世にいることは、私をたくさん強くしてくれました。
憎まれ、嫌われて然るべき私だけれど、
「あいつまだ桜のこと好きみたいよ笑。桜があんな奴を相手にするわけないのにねぇ笑」
と聞くたび、それほどまで私を肯定してくれる人がいるということがどれだけ私を勇気づけ、支え、安心できたかはさすがのゆきりんでも知らないでしょ?
阿子だって、きっと知らない。
こんな醜く汚れたままの私でも、あの頃よりほんのすこしだけ強く生きていけたのは、間違いなくゆきりんが私を好きでいてくれたから。
『どんなにいい子にしてたって悪口を言われる時は言われる。誤解もされる。ありもしない噂を流されて、嫌われることだってよくあることだよ。どうせ嫌われるなら、私は本当の自分を曝け出して嫌われたい』
歳上ぶって偉そうに言ってみたけど、それはゆきりんがいたからそう思えたんだ。
じゃなきゃ、誤解されるのは怖いし嫌われるのはもっと怖い。
私はね、そんなに強気でいられるほど自分に自信がありません。
ゆきりんが想ってくれるほど、私は良い女ではないのです。
ゆきりんが深く深く私を想っているから私は今こうして笑っていられるのです。
私がこうして生きているのは、めぐみんとゆきりんのおかげ。
今の私が胸を張って生きているのは、ゆきりん、キミだけのおかげだよ。
確かゆきりんは『お嫁さんにして』って言わせてくれないんだよねぇ?笑
いいよ、じゃあ言わない。
そういう日が来た時にはゆきりんに譲ってあげよう。
だからその前の言葉は私に言わせて。
でも間違えないでね?
それは謝罪の意味でも感謝の気持ちでもないからね?
ただの私の、本当の気持ち。
受け取れやぁゆきりん!