ゆきりんの章 「絶望の中にある種」
「俺がサダイエだって、知ってたんすか?」
わかってて、話をしてくれていたんですか?
「失礼だな〜もぉ。私、心臓は悪いけど頭は悪くないよっ!記憶力だっていい方なんだからねっ!」
てっきり俺の事なんて忘れてしまっていると思っていた。
いや、それよりも雪平湊人とサダイエはまるっきり別人だと思っているものだと、そう思っていた。
桜さんがサダイエと話す事なんて、2度とないと思っていたから。
サダイエは、桜さんに嫌われたのだから。
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桜の手術が成功した。
母親からそう聞いていた。
術後の経過観察があるからすぐには退院できないけど、しばらくしたら学校にも通えるようになるという言葉に、俺は桜が大人になれるのだという喜びを隠しきれず笑顔がこぼれた。
『恋って、なんだろね?』
桜、今ならそれに答えられる。
恋は、俺だよ。
俺の匂いが、恋の匂いだよ。
桜が退院してしばらくしてから学校の廊下で桜を見かけた。
初めて会ったあの園庭から、2年経っていた。
その2年間で俺と桜が会話したのはそれほど多くはない。
時間だって、長くない。
けど俺が恋をするには十分すぎるほどの回数と時間だった。
俺はこの時はまだ気付いていなかった。
ただ俺が、自分の置かれている現状から目を背けるため盲信的に恋をしていたのだということを。
「桜っ!」
少し離れた場所にいる桜を呼び止めるため、俺は久しぶりに学校で声を発した。
桜だ!桜だ!
ちょっとだけでもいい、話がしたい!声が聞きたい!
そのちょっとで、この辛い日々を俺は頑張ることができる。
けれど桜はチラッと俺を見ただけでなんの反応もなく廊下の角を曲がって行ってしまった。
黒髪が揺れ、そして消えて行った。
不吉な気配が胸でざわついた。
けどそれを打ち消すように言い訳を考えた。
きっと、気付かなかったんだ。
もしかしたら桜は目が悪くて俺の事が見えなかったのかもしれない。
きっとそうだ。
じゃなきゃ、桜まで俺を無視するはずがない。
俺は桜に好かれるために勉強を頑張っている。
クラスから冷やかされ、無視されている日々をジッと耐えている。
こんなに辛い思いをしているのに、桜から嫌われるなんてありえない。
今のはきっと、気付いてなかったんだ。
そう自分に言い聞かせた。
けれど数日後、再び廊下ですれ違いざまに
「桜、調子どう?」
と声をかけても、桜は俺を見ることもなく自分のクラスへと消えて行った。
言い訳を。
今のにも何かうまい言い訳を考えなきゃ!
そうだ!きっと桜は歳下の俺が呼び捨てにするからちょっと怒ってるんだな?
今度はちゃんと『桜ちゃん』って呼んでみよう。
そうすればきっと、サダイエって呼んでくれる!
きっと笑ってくれるはずだ!
だけど…。ううん、大丈夫。次こそは大丈夫だ。
気付かないフリをするのは難しいな、と心の奥底で感じながらも、無理やり蓋をして閉じ込めた。
「桜ちゃん…?」
次に桜を見かけた時、震える声でそう呼んでみた。
ねぇ桜、振り返ってよ。
「あ、サダイエ!」と笑って振り向いてよ!
祈るように桜の後ろ姿を見ていたけれど、桜はそのままどこかへ消えて行った。
歪んだ視界、鼻の奥の痛み、湧き上がる不安と焦燥。
それを全部抱えたまま俺は階段裏の倉庫に逃げた。
震えが止まらない。
なにか、何か言い訳を!
なんでもいい、なんでもいいから何か言い訳を考えなきゃ!
そうだ!「ちゃん」がマズかったのか!
やっぱ歳上なんだからそこは「さん」だろ笑。
じゃあ次に会ったらきちんと「桜さん」って呼んで…………。
呼んで、…どうなる?
蓋をして閉じ込めたはずのもう1人の俺が、心の中でどっかりとあぐらをかいた。
いい加減認めろよ。
桜はもう、サダイエとは関わりたくないんだよ。
桜は普通の女の子なんだぞ?
俺が桜のことが好きなことは、知らない奴はモグリだと言われるほどこの学校の誰もが知っている。
校長先生ですら知っている。
そんな俺と話しているのを見られたら、今度は桜が冷やかされてしまう。
俺がシュッとしたイケメンの人気者ならまた違ったのかもしれないけど、俺はヌーンとしたバカないじめられっ子だ。
迷惑なんだよ、桜にとって俺は。
でもたったそれだけならまだ救いようはあった。
マナツに水をぶちまけたことは学校内ではちょっとしたニュースになっていて、ただでさえ有名だった俺が悪い意味でそれに拍車をかけてしまった。
何も知らない人から見れば、無視されているいじめられっ子が自分を庇ってくれていた女の子に突然理由もなくバケツの水を掛けるなんて、マトモじゃないと思われても仕方がない。
桜と同じクラスの姉を持つ人がウチのクラスにいたはずだ。
きっとその人から聞いたのだろう。
「桜、雪平とは話さない方がいいよ?あいつ、突然クラスの女の子にバケツの水ぶっかけたんだって。しかもその子、雪平のこといつも助けてくれてた子なんだよ?サイテーだよね」
こんな感じだろうか?
桜は「男の子は女の子に優しくしなきゃダメなんだよ!」と言ってたっけ。
俺はその真反対の男になってしまった。
言い訳なんて、もう必要なかった。
俺は大切にしていたはずの恋を、自らの手でぶち壊してしまったんだ。
もういい加減、気付けよ。
お前は、もう桜に嫌われたんだ。
桜を大切に思うなら、桜のこと諦めろよ。
生きる意味?笑
もうお前には意味なんてないよ。
ただ、生きてるだけだ。
人を好きになる気持ちでさえ、お前の場合は誰かを傷つけている。
誰もお前のことを好きになんてならない。
お前は誰も幸せになんてできない。
お前に、生きている価値はない。
もう1人の俺が、真っ黒い顔で口だけを開けて嘲笑っていた。
その声を聞きながら、暗い階段裏の倉庫で声を出さないようにむせび泣いた。
生きる意味は、自らの手によって砕けてしまった。
ぎゅっと自分で自分を抱きしめる。
幼い頃、母に抱きしめられた記憶が俺にはない。
誰かの暖かさというものを、俺は知らない。
だから自分で抱きしめるしかなかった。
飛び散ってしまいそうな、何かわからない感情を自分の体に留めておくように必死に俺は強く強く抱きしめ身を硬くした。
壊れてしまわないように。
すでに手遅れなことを、わかっていてもなお。
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「失礼だなぁ。私、心臓は悪いけど頭は悪くないよっ!記憶力だっていい方なんだからねっ!」
記憶力が良いのなら、何故俺なんかと話をしたのだろう?
嫌われ者で人の気持ちがわからない自分勝手ないじめられっ子なこんな俺と…。
価値のない、壊れた俺と。
「ウチの学校は天の字にこだわるでしょ?1年生に天は付かないけど、それでもやっぱり気になるのよねぇ。ましてや五天達成したタカの次だしさ。ゆきりんは有名だったよ?野島貴明の後を継ぐ者だって」
俺が野島さんの後継者?
嫌だよ、絶対。
この人の後釜になんてなりたくない。
なれるわけがない。
そんなのがいるとするならば、それは俺じゃない。
そこにいる4人だ。
「あれから勉強、頑張ったんだね」
「…はい」
「頭、悪くなかったもんね」
「そんなことはないですよ笑。俺は、バカでした」
マナツに差し伸べられた手も、掴むことができなかった。
桜の事も、諦めることができなかった。
諦めようとは思った。
恋なんてくだらない、友情もいらない、ただ生きているだけで苦痛なのにそれ以上の感情なんて必要ないと思い込もうとした。
けどダメだった。
クラスに俺の存在はなく友達もいない。
マナツとも話さなくなって久しい。
桜とは視線が合うことすらもない。
家には誰もいない。
ない、ない、ない、ない、ない!
俺は何も持っていない。
俺には価値がない。
未来も見えない。
ただ呼吸し、摂取し、排泄し、活動と睡眠を繰り返すだけの非生産的な毎日。
少しでも桜さんに見直してもらえるように…と、言い訳をして全てを費やした勉強だったが、それも自分の置かれた状況から逃げるためだけの手段でしかないこともわかっていた。
俺はおおよそ人が生きるために必要なものを何も持っていなかった。
いやだ…、いやだよ!
誰でもいい、助けてくれ!
俺が誰なのか教えてくれよ!
どうやって生きていけばいいのか、
誰と生きていけばいいのか、
俺は生きていていいのか、
生きる価値はあるのか、
俺が生きることに意味があるのか、
俺は一体何者なのか、
誰か教えてくれよ!
押しつぶされそうな負の感情に、吐き気を抑えながら生きていく毎日だった。
ただ、桜が好きだということだけで生きていた。
それが桜を傷付けるとしても、それが俺を傷付けているとしても。
桜を好きということしか持っているものがなかった俺は、その1つだけで何とか生きていた。
そんな時に出会ったのが、七尾であり鈴井であり、佐伯であり荒木だった。
キラキラしていた。
生きることに、存在証明に、誰かのために必死で、俺にはあいつらが輝いてみえた。
眩しくて、嫉妬した。
どうしてあぁなれなかったのかと、恨んだ。
母を、父を、祖母を、級友を、先生を、マナツを、桜を、恨んでいた。
そしてそれら全てが大切で愛おしかった。
そうする事でなんとか保てていた自我だ。
バカ以外の何者でもなかった。